16話 感ずるもの

朝が来た。ただ、辺りはまだ暗い。時計を見ると、針は午前四時前を差していた。薄暗い中を、軽く見渡すと、カーテンの向こうが仄かに明るいような気がした。
僕は、体に乗せられている美久の手をやさしく傍らに置き、ゆっくりと立ち上がる。そして、窓辺に立ち、軽くカーテンをあげてみる。そこから見えた外の世界には、まるで明かりはなく、相変わらず暗いままであった。
では、先ほど見えた光は単なる見間違えだったのだろうか。僕は疑わしくもそれを知る術はなく、ただ外の世界を眺めていた。
うっすらと開いてきた世界には、音が響いていた。この独特の響きは、恐らくラヂオであると思われる。徐々に鮮明になっていく世界に、その音源を見つけようと、私は軽く頭を揺すって起き上がった。そして、ベッドから降りて、リビングへと入る。そこには渡晴がいて、目の前にラヂオを置きながら、こっくりこっくりと眠そうにしていた。
「渡晴?」
「ん、あぁ、おはよう……」
彼は透き通らない声でそう返事した。
「今日は早いね」
今の時刻は午前六時前。そんな時間に起きるのは私にとっては慣れたものだけれども、渡晴が起きたのを見たことはない。
少なくとも、ここ数日は。
「なんだか、目が覚めちゃってよ……」
「早く起きると、すっきりした気分にならない?」
「えっ、ああ、うん、そうだね……」
虚ろとしていた渡晴は、曖昧な返事を返して、少し疲れたといったような顔をしていた。相変わらず、元気に欠けているのは、まるでそうだと主張しているかのように伝わってくる。どうも、彼のやる気を引き出すのは、見たい夢を見るより、難しそうだ。
「学校にもまだ時間あるし、少し街を歩かない? 人も少ないだろうし」
成し遂げられないことを、少しでも、こういうときにでも。
「うん、そうだね……」
相変わらず、渡晴は冴えない。

朝の空は比較的澄みきっていて、その青がはっきりと見える。人通りは疎らで、時々ランニングをしている人や早くから出勤している人くらいにしか会わない。世界は静かに時間を刻んでいて、僕らはそのうちの大した存在でもないのだろうか。例えば、僕がこうして悩んでいることも、実は他愛もないことであって、日常的なことでしかないのかも知れない。単なる悩みであって、さほど大きくもないのだろうか。
美久が言うには、それこそ僕には恋愛などは好き勝手にやってもらいたいらしい。つまりは、美久からすればおそらく"私のことは意識しなくてもいい"ということだろう。しかしながら、僕の好きな人は美久しかいない。それは、公衆の前で、胸を張って言える。
でも、一方でこのままではならないということは分かっているつもりだ。今ここで、いないはずの美久に固執しても、あまり意味はないように感じる。確かに美久は戻ってきた。でも彼女は幽霊であって、何時かは帰らなければならない身だ。いつまでもここにいられるとは僕も思ってない。美久は、僕に、幸せになってほしいと願う。それも、好きな人を見つけて、一生一緒にいられる人にと。それは、これから先、一緒にはいられないからこその願いだ。
好きな人を見つける……、つまり、二股のような感情を抱かない限り、美久のことは今までと同じようには思えないということ。美久よりも、より強く深い思いを抱ける人が何処にいるというのだろうか。
そういえば、夢の中に微かに茉子がいたような気がする。茉子は……、どう思っているのだろうか。高校のときにしても、匂わせぶりなことはしていたけれど、結局茉子からは一言も好きだとかそういうことは聞いていない。
高三の時、もっとも身近にいた女友達は茉子であって、よく友達から冷やかされたりしていたけれども、僕は否定してきたつもりだ。それ相応に茉子もそのことを聞いていただろうが、彼女の反応というのも特になかったし、僕に対する接し方が突然変わったりもしなかった。
ただ、異様に気になるのは、あの約束──昼食を共に摂るという例のあれだ──であって、僕らが共に受かった以上実行されたわけだが、だからといって彼女には特に変化はなかった。今まで通りに話して、対応も一向に変わらず、それから美久や聡司が加わっても、茉子にはあまり焦りも感じない。茉子自身は聞くところによると誰とも付き合ってはいないらしいので、思わせぶりな行動はますます意識してしまう。とはいえ、気にはなっていたというものの、それは僕にとって恋愛感情ではなかったのだが。
美久が発ったあとも茉子の反応も対応も大して差はなく、今までどおりであって、敢えていうのならば、僕が沈んでいるときによく励ましてくれるということだけだ。そんな彼女の態度は以前と大して違いがあるとは思えない。
果たして、そんな茉子は誰か好きな人がいたりするのだろうか。聡司にしてみれば、それが聡司でない限り目の仇同然に扱われてしまうのだろうけれども。
ああ、それにしても美久が帰ったあと、僕はどうなるのだろう。彼女が言うように好きな人でも見つけて、一緒に暮らしたりするのだろうか……。
散歩に行って少しはすっきりしたのだろうか。渡晴は帰ってくるなり台所に立って、早速朝食の準備に取り掛かった。私はそのすばやさに驚きつつも、彼の後について台所へと入った。
先日買ってきた食パンを卵に浸して、フレンチトーストを作るつもりらしい。卵と食パン、ボール、軽量カップにフライパンが出ていた。私はその状況で大して手伝うところもなさそうなので──一昨日も作ったので、作り方くらいは覚えているだろう──、台所を出て、一人ラヂオのスイッチを入れた。
ラヂオからは天気予報が流れていて、今日はどうやら晴れだということだ。大陸側から弱い寒気が入って少々冷え込むらしいとは言っていたけれど。それから、ラヂオからはここ最近のニュースが流れてきて、どこどこで何やらの催しがあっただの、事故があっただのと話していた。
しばらくして台所から渡晴が出てきて、目の前に目玉焼きとフレンチトースト、それからインスタントの味噌汁が置かれた。私はその奇妙な組み合わせにしばし言葉を失い、それから渡晴の顔をゆっくりと見た。彼は私の反応に少々困惑気味で、少し首をかたげている。
「何か変なことでもあったか?」
彼は妙な迫力を持って、私に尋ねる。
「いや……、この組み合わせは何……?」
私は微かに押されながらもそう答える。
「何って、別に変じゃないだろ?」
「何処が……」
一昨日はトーストにホイルのウインナー、ベーコン、それからコーヒーだったような気がする。
「なんでトーストに味噌汁なの? 目玉焼きも変だけど……」
「……?」
相変わらず、渡晴はきょとんとしていて、理由が分かっていそうにない。
「トーストって、洋食でしょ? フツーは」
「うん」
「味噌汁って和食でしょ?」
「ああ、そういうことか……」
私は少し憂う。
「ごめん、そんなところまで考えてなかった……」
「まあ、いいけど……」
なんてミスマッチな組み合わせなのだろうか。学食にも洋食と和食、各々の定食があっただろうに。

いつもの学校に行く時間。僕はいつも通りに用意して、いつも通りの時間に家を出た。もちろん美久もついてきていて、僕らはまた沈黙を保つ関係へと早変わりした、と思いたい。
最近、僕は"独り言を小さくぼやく変わったやつ"という何ともいただけないキャラなので、美久にもその辺りは考慮して欲しいというのもあるけれども、それに反してより永く美久と話していたいという気持ちもあり、ただ今は、後者の方が確実に勝(まさ)っている。だから、僕は表面的に美久には沈黙を保つ関係であって欲しいと願うものの、内面では実はもっと話して欲しいと願っている。
周囲の目を気にせずに言うのも気が引けるので、可能な限り小さい声で話してはいるが、それでもたった二日で聡司には少し距離を置かれているような気がする。聡司は茉子もそうであるのだろうと、最近は少し積極的ではあるが、事情を知っている茉子はちっともそんな雰囲気ではないため、僕は聡司に僅かながら嫉妬され──本人は自己満足でばれないようにしているつもりらしいが僕にとっては結構痛い──、少しずつではあるが(聡司にとっての)恋敵になりつつある。
まるで僕にはそんなつもりはないのだけれども、恐らく今日もそうなるのだろうと思いつつ、僕は校門をくぐった。
一時限目。このときこそ、聡司と同じ講義を受けるときだ。
と、いうより、聡司と講義が重なるのは、月曜日と火曜日、それから茉子とも一緒になる金曜日しかない。ちなみに美久と重なっていたのは月曜日と水曜日、木曜日。茉子は火曜日と木曜日と金曜日。そのうち木曜日は美久とも重なっていて、金曜日は述べた通り美久を除いた三人が重なる。
そんなこんなで、今日は聡司としか重ならない。その聡司は少し僕を敬遠気味で、席を一つ空けて座っていた。その開いた席に美久は座り、またのんびりと黒板を見ていた。この時間中、美久は最初に一言、"講義に集中してていいよ"と言って、それからはずっと黙っていた。時々、僕を見ているような視線を僅かながら感じてはいたけれど。
それは気を遣ったのか、それとも気紛れだったのかは定かではないけれど、僕としては助かったように思う。一方の聡司は時たま話しかけては来たけれど、多少ぎこちないのはひしひしと感じていた。
三時限目。渡晴は、講義室の中央より少し右寄りに座って、始まるまでの間、一人で小説を読んでいた。私は彼の後ろから覗き込んで、何を読んでいるのかと同様に読むうちに、なんだか続きが気になって、読みたくなってきた。面前にいる渡晴にそのことを問えば、彼は少し怪訝そうな顔をして、私に本を渡した。机の上に本を載せて、さて読もうと意気込むと、突然渡晴に腕を掴まれ、耳元で彼に呟かれた。
「机の上で風も吹いていないのに、勝手にページがめくられるのはおかしいだろ」
そう言われ、私は本を机の下に下げて、目に映りにくい位置で読むことにした。しかしながら、そこは少し暗くて、読みにくいこと極まりなく、あまり気がよくなかった。それも仕方ないといえばそうなのだけれども。
結局この時間は、ずっと本を読んで過ごしていた。そして、渡晴にしか聞こえぬ声で、時たまぶつくさとものを言うと、渡晴に横目で見られ、少し肩身が狭かった。

昼食前。美久は相変わらず本を読んでいたいらしい。しかしながら、到底歩きながら読もうなどということはできるはずもなく、そのせいで美久はうずうずしている。続きが気になるのは分かるが……。

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