15話 不快な嫉妬気分

辺りはまるで薄暗く、ちょうど、昼間にあらん限りのカーテンを閉めたような、そんな雰囲気の部屋に私は佇んでいた。渡晴と寝るベッドは、月明かりを受けて、薄暗い中に月溜りを作っている。渡晴は開いた窓から外を眺め、何かに黄昏ているかのように見えていた。
「月が綺麗だね」
私は外を見つめる渡晴の背後から、彼にそう話しかけた。
「うん……」
見惚れるかのように月を見る彼。私は、そんな彼の見つめる月に、嫉妬してしまいそうだった。
「私、あの二人にずっと憧れてたんだ。ああして一緒に住めて、いつも一緒に居て、"好きだ"なんて言わなくても、想いが通じるような、そんな二人に」
あれから、三人はその日の夕飯を食べていた。私はただ、それを見ているだけで、あまりにも暇だったので、途中からは渡晴のベッドの上で寝ていた。二人は私の知らないうちに帰っていたが、私が起きたときも、渡晴は依然として、落ち込んだままだった。渡晴も、まだまだ、私が必要なのだろうと、そう痛感したのは、正直辛かった。でも、私は彼に何も言葉をかけてあげられなくて、ただ己の無力感に浸るばかりだった。
「僕は、そんな二人に嫉妬してたよ。自分たちばかりって」
語るかのように呟く彼の目は、月明かりに照らされて、まるで涙ぐんでいるかのように見えた。
「でも、単に、僕が勝手に二人を羨ましがっていただけなのかもしれない……」
見る影もなく彼の顔は月明かりが当たらなくなってしまい──何を思ったのか、方向を変えてしまったのだ──、私からは彼の表情を伺えなくなってしまった。
「渡晴も、見つけてよ。一生一緒に居られる人を。いつまでも、愛し合える人をさ」
「僕は、美久以外にいないって、そう思っていたのに、こうなってしまって……」
沈痛な表情をしているのだろうと思われるけれども、私からは何も見えなかった。ただ、その口調から伺うことくらいしかできない。
「ごめん……」
原因は私にある。渡晴に悲しい思いをさせている原因は私以外にない。
「いや……、別に美久は悪くないから……」
「でも……」
「そんなことより、早く寝よう。なんだか、疲れてしまって」
ストレスってやつだろうか、そんなものがたくさん詰まっているに違いない。ならば、その原因は何だというのだろう。それは、多分……。
「ごめん……」
私はまた、今度は無意識に渡晴に謝っていた。
「もう、そんなに謝らないでよ。なんだか申し訳なくなるだけだから……」
「う、うん……」
それこそ、私の方が渡晴に対して申し訳なかった。本当なら、こんな想いなんてしなくてもいいのに。辛い思いをさせてしまった原因は明らかに私にあるのに。あの二人に嫉妬なんてしなくても、私たちはそれなりに幸せにやっていけたはずなのに。
ただ、渡晴から私がいなくなるということは、あまりにも影響が大きい。それほど渡晴が私を必要としていたということだけれども、それは少しも喜ばしいことだとは思えない。おかげで、渡晴はまるでボロボロだ。出会ったときの明るい雰囲気とは、まるでかけ離れている。私が彼ならと気を許したときとは、甚だ違いが大きい。知らない空間に来たときの孤独感を、まるで映し出したかのようになっている。これから、私が思うようにしたところで、それは叶うのだろうか。私はなんだかそれが心配になってきていた。

ベッドの中は冷たく、それはまるで世の中の不条理を表しているかのようだった。それはしばらくして、ゆっくりと暖められて、ほんわかとした感じへとなっていった。美久は背中の向こう側で、軽く寝息を立てて僕に抱きついていた。僕はその温かみを感じて、ただただ異様に深い悲しみを消そうとしていた。でも、それは消すどころかますます広がっているような感じだった。かき消したい感覚を覚えて、僕はひたすら楽しそうな思い出を思い浮かべようとしていた。
浮かび繰る思い出は、なぜか幼少時代のものが多くて、そこには不思議とあの姉さんがいた。
例えば、一緒に自転車に乗る練習をしたことや、やっと乗れるようになった自転車に乗って二人で遠くまでサイクリングに行ったこと。そのときは、いつの間にか辺りには知らない風景が漂っていて、道に迷って……、結局交番に行って、親に迎えに来てもらったのだった。二人して、迎えに来てくれた親に泣きついて、ものすごく寂しい思いをしたのを今でも明確に覚えている。知らない街は、全てから圧迫感を受けるような感覚に包まれていて、孤独感の唯一の助けは傍にいる姉さんだけだった。警察の人を信用していなかったわけではない。ただ、彼らは僕にとって遠い存在であったし、とても親近感など沸かなかったのだ。だからこそ、近い距離にいる姉さんは助けであって、それは唯一無二の存在だった。
何故だろう、今更そんな記憶が出てくるなんて。それにどこかもの悲しい気持ちになっている理由も分からない。自然と頭に浮かんできて、何故だか鮮明な記憶を呼び覚ましたのだった。僕は、その浮かんできた記憶に疑問を抱きながら、それを懐かしんでいた。すると次第に虚ろとしてきて、僕はゆっくりと夢へ引き込まれていった。ただ、頬に冷たい感触を残して。
夢の世界。それは不思議な世界で、物事は自然の摂理に反して存在することができる。先日などは、夢の中で生前の美久に逢うことができたし、そして今日もまた、何が起こるか分からない。
それは時折、目の前に存在している現実と呼ばれる覚醒時に見ることのできる世界よりも、よりリアルに見えることがある。そして、今目の前にあったという認識はあっても、それが一体どういうものであったか思い出せないときもある。それは何処に存在しているのか全く予想のつかない世界であって、何故か現実と密接な関係にある。自らの真意を突いたような内容から、全くもって予想だにしなかった組み合わせの生成まで成し遂げる。それは未知で既知で、本当の自分自身なのかも知れない……。
目の前に広がるは、青い海。足元に広がるは、白い砂。頭の上に広がるは、淡い空。そして、隣に座るは、茉子。……少し、疑問を抱いて、僕は隣にいる茉子に話しかけている。
「海、綺麗だね」
何気ない、当然の事実を、それが特別なことであるかのように話す。
「そうだね」
彼女は、それがあたかも周知の事実であるかのように同意する。僕は、自分の意思に反して、自分の手をゆっくりと茉子の肩に回す。その動きには全く違和感が無くて、極々自然に動き、茉子もそれに対して動じず、時は静かに過ぎてゆく。漣(さざなみ)は寄せては返し、僕らの数十センチ前の砂を濡らしてゆく。
僕は、茉子の肩に乗せた手を少し引いて、茉子を自分の方に引き寄せる。茉子はそれに従って、僕の肩に首を預ける。僕はそんな茉子の温もりを感じて、少し虚ろ虚ろとしている。ただ、感ずるは、波の音と、茉子の温もり。その感覚に全てを預け、僕は夢の世界へと解け堕ちてゆく……。
見え得るは一面の銀世界だった。そんな中で、僕たちはゆっくりと歩いていた。傍らにいる茉子は、僕の寒く冷える手を握り、仄かな暖かさを提供してくれる。歩くたびに雪の軋むような音がして、冬の醍醐味を語っている。見渡せば山など見えず、一面がだだっ広い平地だった。雪は止んでいて、静かな風が吹いている。それは冷たく、この寒い冬の景色を助長しているようだった。
「もうどれくらいになるかな?」
僕は尋ねる。でも、一体何がどれくらいなのか、何も分からない。
「あれから、二時間くらいかな……」
そんな風に茉子は返す。でも、質問した当人は、一体何のことなのか分かってない。
「そうか……。なら、もうそろそろだろうな」
「うん、多分ね」
ああ、分からないということは、だからこそ気になるというものだ……。
そこは、辺り一帯人に満ちていた。あちらこちらで歓声が上がり、ボールの跳ねる音が聞こえ、時たま悲鳴にも似た声がする。そこは、市民プールであり、水の跳ねる音が飛び交っている。
前方には、少し離れたところに水着姿の茉子がいて、僕に向けて手を振っている。僕は彼女に対して手を振り返し、駆けてゆく。ゆっくりと茉子の姿が近づいて、程よい距離を保つと、
「行こ!」
と彼女は言って、僕の手をつかみ、無理に引っ張ってゆく。僕はそれにつられ、彼女の引くままについてゆく。
そして……、彼女は急停止した。
僕は止まりきれずに彼女に激突し、手にやんわりとした感触を感じたかと思えば、彼女は僕に押されて、バランスを崩した。僕は慌てて手を伸ばし、彼女を包むと、茉子は少ししかめっ面をして、次の瞬間、僕の方に向かって、彼女の掌が飛んできた。僕は思わず目をつむり、来ると思われる衝撃に耐えようとした。
しかしながら何もなく、僕はゆっくりと目を開いた。彼女の手は、僕に当たる寸前で止められていて、彼女はそっぽを向いている。よって、彼女の顔は見えず、まるで表情など伺うことができなかった。
「もう……」
そう言った彼女は、僕の顔を横目でチラッと見て、一人でプールの中に入っていった。そして僕はそのあとを追う……。
うっすらと視界が開けてきた。気づくとそこは自分のベッドの上で、背後には相変わらず美久が寝息を立てて寝ている。僕は目が覚めたというものの、辺り未だ暗く、僕自身もまだ少し眠かった。僕はその眠気に任せて再び寝ようとした。すると、背後から、
「渡晴……」
何やら呼ぶ声がする。僕は顔だけを振り返って、彼女に問う。
「何……?」
虚ろとした声が頭に響くが、目に映ったのは寝ている美久だった。"なんだ寝言か"と思い、僕は再び眠気に任せて、夢の中へと入っていった。

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