12話 彼女がために説教

「じゃあ茉子、今から昼食作るからそこの椅子にでも座って待っていて」
彼女は、あたかもここが自分の家であるかのようにそう言って、台所の方へと入っていった。
「うん……」
茉子は、家に来たときから相変わらずで、いつもの元気が何処へ言ったのかと思うほどだった。僕は、そんな茉子が多少心配ながらも、通常通り、美久の後を追って、台所に入ろうとした。
「あの……、渡晴くん」
急に茉子に呼び止められた僕は、何かと思い、振り向く。
「美久と喧嘩したって本当?」
「喧嘩……なのかなぁ」
そう言う僕に、彼女は軽く首を傾げて、説明を促す。
「いや、今日は土曜日で休みだろ? だから、何しようかって美久に訊いたんだけど」
僕はそう言いながら、先ほどまで座っていた椅子を再び引いて、そこに腰かけた。
「うん」
「デートでもしようかっていうから、それじゃ僕が一人で歩いていても一緒だろ……って」
「美久にそんなこと言ったの?」
彼女は驚きながら、そう言った。
「う、うん……」
「それじゃ、怒って当然だと思うんだけど……」
「でも、街中で美久と話しても、周りからは独り言を言っているように見えるだろ?」
「そうだけど……。でも、美久は相当ショックみたいだったよ?」
「あぁ、うん……」
「私は……、渡晴くんのこと、ちゃんと分かっているつもりだけど……」
彼女は、うっすらとそう呟いた。僕はその真意が今一つ理解できず、訊こうとした矢先、
「渡晴、ちょっと来て!」
「美久が呼んでいるよ?」
「う、うん」
そして、僕は仕方なく台所の方へと入っていった。
一介のアパートでも、"台所"という場所があるというのは、一つの定義だろう。もっとも、"それが有効活用されているか"は、人によって様々であるとしか言えない。
この部屋にあって"台所"と称されるものは、現在は機能的に働いている。朝はブレイクファーストの欠片もないので、湯さえも沸かさないものの、夜は機能を駆使して動かされている。……それも、ここ数日の話だ。
しばらく前、つまり美久がこうしていなかった頃は、台所は湯を沸かすくらいの、単なる一つの道具に過ぎなかった。うちには生憎ポットと称されるものはなくて、湯が欲しければその都度沸かす他ない。余ればやかんに残されて、必要なときに再沸騰されている。台所はそのプロセスを為すだけの場所であって、他には大して活用されていなかった。料理をしなければ、調理もしない僕にとって、水道とガスコンロ以外は飾りと称しても支障がなかった。
そんな折、美久がこうして戻ってきて、再び台所は活用されるようになった。彼女もいずれは帰るだろう。あまり事実として認めたくはないけれども。
……彼女が帰った後、台所はせめても昔よりは使われるようになると思う。今こうして、僕が彼女から学んでいる限りには。……若干足手まといになっているような気もするが、気のせいだろう、多分。
「お待たせ」
私は、そう言って完成した昼食を茉子の座る前に差し出した。
「ありがとう……」
彼女は何故か静かにそう言って、しかし台所の方を空ろに眺めたままだった。
「やっぱり、渡晴が気になるの?」
「えっ、いや、そういうわけじゃないけど……」
「はぁ。私が、ここに長々といられるわけがないってことは分かるでしょ?」
「分かるけど……、それがどうかしたの?」
「私が帰ったら、渡晴は一人じゃない。ああして料理したいっていうから、食生活にコンビニばかり利用するようなことはなくなるだろうと思うけど。それでもやっぱり、ここに一人で置いておくのはなんだか心配なんだよね……」
「……いいよね、渡晴くんは。そうやって、心配してくれる人がいて。なんだか羨ましくなるよ」
「何言ってるんだか……」
茉子だって、ちゃんと私が渡晴を心配するみたいに、想っていてくれる人はいるんだよ。ただ、茉子がそれに気がついていないだけで。
でも、そんなことは私が言い出すことでもない。寧ろ言ってしまうと私としては事が運び難くなるだけでしかない。何も茉子のことを考えていないわけではないけれども。
「私も渡晴くんは心配だけど……」
「渡晴だって、そう思っているよ、きっと」
「えっ?」
茉子がそう言ったのとほぼ同時に、渡晴が台所から出てきた。
「お待ちどうさま」
彼は用意していたうちの、私が持ってきたもの以外を手になんとか乗せている。私はゆっくりと歩いてくる渡晴の腕の上に乗った皿を取り、渡晴の負担を軽減する。渡晴は"ありがとう"と言って、僅かながら歩くスピードを早めた。受け取った皿を、先ほど茉子の前に置いた皿よりも、茉子から少し遠ざかるような位置に置く。
しかしながら、渡晴は相変わらず慎重に歩いていて、左右の手に乗った皿はそのおかげで安全を保障されている。そんな渡晴に気を遣ってか、茉子はすっと立ち上がり、彼の左手に持つ皿を掴んだ。

なんだろう。何か、不思議な感覚だった。時間がゆっくりと流れて、スローにでもなっているかのようだった。
彼女はゆっくりと立ちあがって、僕の左手に持つ皿をやんわりと優しく包んだ。……いや、掴んだ。僕は不意を突かれたかのように静止し、しばらく周りの空気が止まっていた、ように見えた。
「ありがとう……」
「えっ、いや、お互いさまだって」
と、彼女は軽く振るまい、受け取った皿をテーブルの上に乗せて、座っていた席に座ろうとした。しかし、僕が未だに(一人で勝手に)止まっているのに気がついて、右手に持っていた皿も手に取り、テーブルの上に乗せた。それから、彼女は机の上に食器が足りないことに気付き、台所の中へと入っていった。
「……渡晴?」
と、美久は硬直している僕に尋ねる。
「えっ、ああ、ごめん……」
僕はわけも分からず謝っている。台所からは、茉子が戻ってきて、三つの取り皿と、一つの割り箸と、二つの箸を持ってきた。僕はぎこちなく自分の椅子に座り、美久もそれに合わせて椅子に座る。茉子は椅子に座りながら皿を各人の前に置いて、箸を渡していった。
まずは自分の皿の上に割り箸を置き、美久に愛用の──彼女がうちで料理を作るようになってから、いつの間にか定着してしまっている箸を渡す。
「はい」
そう言われて、僕も茉子に差し出された箸を受け取る。黒い漆塗りの箸。
「ありがとう」
「いえいえ」
彼女はそう言って、軽く手を合わせる。
「いただきま〜す」
「あっ、いただきます……」
一つ、調子が遅れたらしかった。
高校三年生、僕が初めて茉子の家に行ったときの話。
取りつけた(?)約束からしばらく経った土曜日の日、僕は茉子の家へ行くことになった。この日にはたまたまお互いのスケジュールも一致したので、心置きなく行くことができた。
僕は電車に乗って、以前教えてもらった駅で降り、ホームを出て、東口の駅前へと出た。
エスカレーターを降りた先は、バスターミナルになっていて、タクシーの止まる場所も設置されており、数台が待機していた。バスの旋回のための広々とした空間に雨避けの屋根があり、周囲にはレンガの歩道があって、その道へと続いている。軽くアーケード調になった駅前の商店街は、いくらか閉鎖している店もあるものの、まだまだ人に溢れている。
僕は東口から左側へ折れ、バス乗り場の前を通り抜けたところで、今しばらく茉子が来るのを待っていた。
二分ほど経っただろうか、駅の上り方面に沿う道から、一台の自転車がやってきて、僕の前に止まった。
「お待ちどうさま」
「ああ……。あのさ、もしかして、飛島さんの家まで自転車に乗っていくのか?」
「えっ、何かまずいことでもあるの?」
「いや、その……」
つまり、自転車に乗っていくということは、僕が運転しない場合、後部の荷台に乗ることになり荷台を掴むか茉子に掴まるしかなく、僕が運転する場合、茉子はこの間と同じようにまた僕の腰に掴まろうとするに相違ないのだ。どっちにしろ、何かと不便な状態であって、可能なら、歩いて行きたいというか……。
「うちまでは……、歩くなら十五分くらいかな」
と、茉子は言った。
「十五分……」
判断には微妙な時間だ。
そういえば、自転車そのものは茉子のものだから、僕が運転するということは、茉子の自転車に乗る……ということになる。それも、なんとも形容し難い状況だ。
「私は別に歩いてもいいけど……?」
「じゃあ、その……、それでお願いします……」
「乗りたくなったらいつでも言ってね」
「う、うん」
「じゃ、時間も勿体ないし早く行こう」
そうして、僕らは十五分の道のりを歩いてゆっくりと行くことになった。
「自転車に乗らずに、こうしてゆっくり歩くのもいいよね」
「うん……」
嫌味か、はてまた単なる感想なのだろうか。
僕らはただ、自転車を蔑ろにして、空を仰ぐは南中過ぎの太陽を背後に、ゆっくりと歩いていた。
「なんだか、こうして歩いていると、カップル……みたいだね」
「ま、まあ、見えなくもないな」
「……今更こんなこと聞くのもなんだけど、津野田くんって、彼女いるの?」
「僕は……いないけど……」
緊張じゃなく、単なる恥じらい。
「じゃあ私と一緒か……」
少しばかり、期待するかのように彼女はそう言って、一つ溜息をついた。
「僕は別に、誰かと付き合いたいって思っているわけでもないよ。確かに周りにはカップルが多いけど、今だって、受験生でもあるんだし……」
そんな風に、僕は言い訳がましく、自分に彼女がいないことを誤魔化していた。少し、本音がなかったわけでもないけれども。
「……津野田くんの志望校って私と一緒でしょ?」
「ああ」
話題の転換に、少しホッとして、僕は肯定の意を相槌として返す。
「もし、二人とも受かったら……、一緒にお昼食べるって約束してくれない?」
「へっ?」
近いようで遠い未来の、"昼食を共にする"なんて約束、聞いたこともないが……。
「別にいいでしょ? お昼くらい」
彼女は、相変わらず自転車をひきながら、少し顔を上げて、僕に潤んだような目でそう尋ねた。
「ああ。受かったら、な」
「うん。約束だからね」
彼女はそう言って、少しだけ歩くスピードを早めた。
「ごちそうさま」
私はそう言って、自らが考案して作った料理を完食した。
「流石は美久って感じだよな」
「うん。今日も変わらず美味しかったよ」
と、二人は感想を述べた。
「いや、それほどでも……」
「私も料理はするけど、美久には及ばないよ。こんなに美味しいもの、作れないもの」
「そんなことないって。今日はその、渡晴が買ってきてくれていたおかげなんだし」
そうそう、冷蔵庫には私が茉子のところへ行く前にはなかった具材が調達されていた。渡晴に尋ねたところ、私が出かけている間に買ってきたらしい。質はともかく、買い揃え方はよく、それなりにバラエティに富んだものを作ることができたように思う。
「適当に安いもの、買ってきただけなんだけどな……」
などと、渡晴がぼやいているが、この際聞いていなかったことにしよう。

茉子の家では、相変わらず二人で適当に会話して、何となく時間は過ぎていった。
そこが茉子の家であるなどということは、大して意識のうちにもあらず、単なる教室での会話と比べても大差ないような気もする。いや、いつもよりも少しばかり盛り上がっていたような気もしたけれど、だからといってどうこうというものでもない。
茉子の部屋は、彼女の印象通り律儀に整頓されていて、いつでも客人を招けるような状態だった。かかるカーテンも、ほのかなライトグリーンの目に優しい調子で、実に印象がいい。
部屋にはCD/MDコンポと、MDの入ったケース、それからCDの入ったボックスに、木目調の本棚、薄いピンクカラーのカバーのベッドに、ブラウンの衣文(えもん)掛けなどが置いてあった。
見得る限りで、CDはJ-POPにR&B、洋楽に演歌まで種類は様々。それも結構な量で、彼女に尋ねたところ、他に押入れに入っているものもあるらしい。
僕自身は、あまりCDは買わない方で、どちらかというとレンタルしてダビングする方が多い。だからパッケージなどというものはなくて、曲名の書いたインデックスの入ったCDケースが多々とある。
……茉子ほど、多くないけれども。
とにもかくにも、茉子とはCDのこともあって、話の大半は音楽のことだった。彼女の知りうる範囲は結構広いらしく、僕の知らない曲の話題をふられると、まるで相当な返事が返せなかった。
そんな、茉子と二人で過ごした折の帰り。彼女は自転車をひきながら、僕と並んでゆっくりと歩いていた。
「なあ、なんで大学入ったら昼食一緒に食べようだなんてこと、言い出したんだ?」
と、僕は傍らを歩く茉子に気になっていたことを尋ねてみた。
「やっぱり、大学に入ってからもこうして友達でいたいから……」
彼女は細々とそう言って、軽く俯いた。
「わざわざ、そんな約束しなくてもいいのに」
「でも……」
「分かった。結果がどうであれ、住むところが決まったら住所くらい送るから、いつでも連絡して来いよ」
「うん……」
そんな風に彼女が想うのはなんとなく分かっていた。でも、僕は相変わらず、茉子を一人の友達としか見ることができなかった。欠かしたくはない、ずっと友達でいたい、こんな関係のままで保ち続けていたい。それは、恋心とは何故か程遠く、しかし強くて抱えきるのに精一杯の思いだった。

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