11話 居た場所

暖かくて、明るい、そんな空間に出くわした。温厚な地心を司るような、広くて快適な場所。
そこはひどく温かみに包まれていて、でも決して暑いと感じることはなくて、まるで寒気に暖気が出会った瞬間のような空気が漂っていた。大きくて、丸くて、広くて、暖かくて……、愛に満ちた空間だった。角のない、そんな部屋に包まれて、僕は軽く、ごく軽く目を閉じていた。
「おはよう」
私は、うっすらと目を開けて夢から覚めようとしている茉子に、そう話しかけた。
「ぉ、おはよぅ……」
彼女はそう言って、軽く欠伸をして、背伸びをした。それから、目覚まし時計を見て、
「もう、十時……?」
と、ぼやいて、眠気眼を右手でおもむろに擦った。
「うん」
「さっき時計見たときは七時だったのに……。美久はいつ来たの?」
「私は今来たばかりだけど……」
本当は八時過ぎくらいであって、ここで長らくも二時間ほどのんびりと待っていたのだった。ただ、二時間も待たせたとなると茉子も申し訳なくなって、また色々と弁解をするであろう。すると、私も茉子に申し訳なくなってしまうので、そのような事態は避けたかった。
「……玄関のドア、すり抜けて来たの?」
と、彼女はベッドを降りながらそう問う。
「えっ、う、うん」
「もう少し、来る時間をはっきり言っておいてくれれば、わざわざそんなことしなくてもよかったのに」
茉子は私に背を向け、押入れを開けながらそう言って、中から服を取り出す。そして、向き直って、私の顔を見ながら、今取り出した服を広げる。
「いや、その……」
「うん?」
「ほ、ほんとは午後に来ようと思っていたんだけど、朝っぱらから渡晴と喧嘩、しちゃって」
私は妙に慌てて、条件反射的に、嘘か本当か分からない、境目に値するようなことを漏らしてしまっていた。いつ、どういう理由で家を抜け出せるか分からなかった、だなんて到底言えないし……。
「渡晴くんと喧嘩?」
「え、うん……」
ああもう、こうなれば肯定してしまった方が楽そうだ。
「……何があったの?」
「何って……、渡晴が二人で街を歩いていてもしょうがないって」
ああ、渡晴にこんなことを聞かれていたら、何をどう言われるか分かったものではない。
「渡晴くんがそんなこと言ったの?」
と、着替え終わった彼女は首を傾げて、私に問う。
「うん……」
私は小さな声で俯いて、いかにもそうであるかのように言った。
「あの渡晴くんが……か」
と、言う彼女は真剣になんだか悩んでいるように見える。私はますます本当のことが言い辛くなっていた。

十時過ぎ。
彼女──美久のことだが──は、ドアをすり抜けることができると言っていたので、僕はアパートの部屋の鍵を閉めて、暇つぶしに外へ繰り出してみることにした。
まずは近くのスーパーへ行って、売り出し中の安くなっているものを昼食の足しにでもなるだろうと幾つか買っておくことにする。
そして一度家に帰ってからコンビニへ行って、週末になって残り少なくなった雑誌の在庫を何となく読んでみる。これといったものがないので、何も買わずにコンビニを出て──それでも"ありがとうございました"と言われるが──、街をぶらぶらと散歩してみる。
駅前までの、毎日歩いている道を、ゆっくりと歩く。すると、何故だか僕は名残惜しいような感情に捕われて、駅についた頃にはすっかり喪失感に満たされてしまっていた。
何も理由がないのに、僕はあらゆる物全てを失ってしまったかのような感覚に捕われてしまって、ちょうどあの頃を思い出しているかのようだった。いるように見えて、本当はいないのだという彼女の存在が、あまりにも儚げに思えていた。
「美久は、お昼どうするの?」
机に向かって座る茉子は、向き合う私にそう尋ねた。
「家で渡晴が待っているから、帰るけど?」
「……喧嘩していたんだよね?」
「まあ、そんなに酷くもなかったから……」
単に一方的だった、というのが真実だろうなと思う。
「美久が渡晴くんに作ってあげるの?」
「いや、なんだか知らないけど、渡晴が突然料理教えてくれって言うから、二人でやっているんだけど……」
「渡晴くんが料理……?」
「うん。私にも理由がさっぱり分からないんだけど」
「……あの、私も行っていい? その、昼食」
彼女は遠慮気味にそう言った。
「えっ、いいけど……。大したもの作らないよ?」
「うん。別にいいよ。なんだか久しぶりに渡晴くんの部屋に行ってみたくなっただけだから」
「そう……」
私は少し、期待感と嫉妬心を入り混ぜて、そう返事を返した。
「い、いや別に、何も二人の邪魔をしようってわけじゃないからね?」
「うん。寧ろ、私が邪魔なんじゃないの?」
「えっ、そ、そんな、滅相もない。だいたい渡晴とは、単に同じ高校で仲がよかったっていうだけだし、それ以上の何もないから」
「本当に? なんか焦ってない?」
「えっ、気のせいだって……」
無理しなくてもいいのに。いくら私がここにいようとも、どのみち単なる幽霊に過ぎないのだから、付き合うことによって渡晴に及ぼされる影響とは大したものではないはずだ。
私は内心でそう思いながらも、茉子の立場というものを考えてみて、軽く、同情さえも感じていたのだった。

十二時前。
正確にいうと十一時二十五分か六分というところ。
ぶらぶらと街中を歩いて、帰ってきたら、こんな時間だった。
一時間半も、一体何処をほっつき歩いていたのだろうかと、自分でも不思議になるくらいだった。
そのとき既に空腹を感じていたけれども、美久が帰って来るのを待とうと思い、僕は何気なくベッドの上に寝転がった。
「はぁ」
僕はあの頃と同じような溜息を吐いていた。すると何故だか茉子の顔が浮かんできた。
茉子は僕より少し背が低くて、並んで歩くと兄妹に見えても不思議ではないと思う。でも僕たちが一緒に街を歩く機会はあまりなくて、どちらかというと学校での付き合いが殆どだった。
そういえば高三のときに──あの事件(?)のあとすぐくらいだが──、彼女がまた突然、僕の家に来たいと言い出して、その場の成り行きから、彼女はその日にうちに来ることになってしまった。僕としては、家にまで彼女を呼ぶつもりは更々なかったのだけれども。
ピンポーン……
そんな音が響いてからしばらくして、部屋のドアは渡晴の手によって開けられた。
「えっ……なんで茉子が?」
彼は私の隣にいる茉子を見て、思わずそう呟いた。
「久しぶりに来たいっていうから、連れてきたんだけど……」
「こ、こんにちわ……」
「ああ……。まあ、とりあえず中に入れよ」
「う、うん」
なんだか、茉子の様子がおかしい気がする。ここへ来る途中で、あんな話をしていたせいだろうか。だとしても、意識し過ぎだと思うけど……。

その日はたまたま水曜日で、部活もなく、親もいなく、つまり僕が家に帰るということは長々と留守番することを意味していた。そんな日に、僕は自転車の荷台に茉子を乗せて、ゆっくりと帰路についていた。
彼女は、荷台をもっていればいいのに、何故だか僕の脇に腕を回して、僕と共にゆっくりと自転車に揺られていた。僕は緊張して赤くなって、恥じらいを感じながら、ひっきりなしに話す彼女に相槌を打つのが精一杯の状況だった。
そして気付けばいつの間にか家についていて、ポケットから取り出した鍵で玄関を開けて中に入った。
部屋には僕と茉子だけ。家には僕と茉子だけ。
一種の密室として形作られてはいたけれども、そこに二間の緊張というものがあるわけでもなく、静寂が漂うこともなく、ただ部屋がどうだとか、家がどうだとか、クラスの友達がどうだとか、そんな話だけで途切れることなく終わっていった。
一時間半くらい会話を交わしてから、僕は再び駅まで茉子を荷台に乗せて──相変わらず脇に手を回されたままで、僕はそれを拒むことも疑問として投げかけることもできなかったが──、送っていった。
別れ際に、僕は軽い気持ちで、"今度は茉子の家に行っていい?"なんて、訊いてみた。すると茉子は少し悩んだのち、"是非"だなんて、返してきた。そして僕はそれに対して反射的に、"じゃあまた今度"と返した。
僕にとっては、それはただ、一人の友達としてそういう約束を交わしただけだった。茉子は何も、婚約者でもなければ、恋人でもなくて、彼女でもなければ、好きな人でもなかったから。

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