10話 いること and いないこと
口実……。 何か、私一人が渡晴の家から抜け出す口実。 朝早く起きて、まるで昨日と同じように、渡晴が起きるまでに家を出るというのも一つの手だ。 でも、それではまた渡晴が、私が急に消えてしまったのかと思ってしまう。駅前までパジャマ姿で探しに行かせてしまっては、あまりにも酷だ。 あの時はただ、本当に朝の空気を感じようと思っただけ。それから、いつの日かの思い出を軽く呼び起こすために。何も渡晴にそこまでさせようと思っていたわけではない。 しかし、今回は一体どうやって一人で出てこようか。何か、具体的な理由が……あれば、それがいいけれど。でも、何も、思いつかないし。 本日は土曜日。 つまり休日であって、のんびりとできる日だ。もっとも、鈍るのはよろしくないので、朝に軽くジョギングくらいはする。あとは家でのんびりと。 美久が本当にこの世にいた頃、僕の休日の過ごし方といえば、美久のアパートに遊びに行くか、若しくは美久がこの部屋に来るか、二人でぶらぶらと暢気にデートでもしている日が多かった。彼女が部活で学校に行っているときは、僕はあまりにも暇になる。 そんなときは、本屋にでも行って、その辺のコミックを読み漁ったり、若しくは何か文庫本でも買ったりして、家でラヂオでもかけながら、だらだらと読書でもしていた。特といって読みたい本がないときは致し方なく、寝るまでだ。つまり……、ぐうたらとしていたということだ。 美久が逝ってから──つまりここ十数日前までの休日──は、やはり彼女に用があるときと同じで、ひたすらぐうたらと非力に、暇という暇を持て余していた。そういえば、何の気紛れか、電話を入れた茉子がやってきた日もあった。 彼女はベッドの上でまるでやる気をなくした僕を見て、深く溜息をついて、"何かすることはないの"と問う。僕はそれに対して、力なく空ろに、"別に"と何の着飾りもない台詞を返す。すると彼女はまた溜息をついて、"それじゃあ美久が……"と繰り返すのだった。 そんな彼女もまた、コンビニで買ってきたようなインスタントか弁当のようなものを食べようとしていた僕を引きとめて、頼みもしないのに台所に立って、軽く一品程度、作ってくれた。それは美久ほど上手いというわけではなかったけれど、何処となく、同じような雰囲気があったように思う。 さて、美久がそばにいる本日はいかがして過ごすものか……。 朝食を食べ終わり、片付けも済んだ頃。しばし、昼まで自由な時間ができて、危うくも持て余してしまいそうな流れの中。 「昼までどうする?」 何となく、僕は美久にそんな問いを投げかけていた。キャッチボールというより、半ば投げやりな感じで。つまり、自分は考える気力もなくて、全てを美久に任せてしまう、そんな風な言い方。 「デートでも、する?」 何となく、そう提案される。 「街中をぶらぶらと歩いて?」 それを僕はやる気の無さからか、軽く突っぱねてしまう。 「うん」 「それって、僕一人が散歩しているのと何も変わらなくはないか?」 もっともなことではあるが、これが一つの切っ掛けになって。 「……話し相手がいるのといないのとでは大きな違いでしょ」 「でも、いくら話しても周囲には独り言を言う怪しい人にしか見えないだろ?」 「じゃあ、一人で散歩してくればいいじゃない。どうせ、私がいても邪魔になるだけでしょ? 大衆がいる世界では、私はただの小うるさい幽霊だもんね。相手にするのが面倒って、ただそれだけでしょ?」 「何言ってんだよ」 「……ここにいても仕方ないし、私はちょっと出かけてくる。昼前には戻るから」 そう言って、彼女は座っていたベッドから立ちあがる。 「何処へ行くんだよ」 「渡晴のよく知っている人のところ」 彼女は、少し怒りながらそう言って、部屋を出ていった。 「……」 ダイニングを覗くも、彼女の姿はなく、そこにはただ、忽然と机と椅子が置いてあるだけだった。 少し無理矢理だっただろうか。私はのんびりと公道を歩きながらそう考える。どう考えても私の利己的な考えであって、それを渡晴に押し付けるのはおかしい。そんなことは分かっている。渡晴だって、筋が通っていないことくらいは分かっているはずだ。 私がただ、自己中心的に、思うことをぶつけてしまっただけ。幽霊として、渡晴が望みもしないのに勝手に戻ってきたのは私自身なのに。 ……喧嘩? 僕はしばらく立ち竦(すく)んだまま動けなかった。目の前の事の運びに唖然としていた。ここにいても仕方ないようなこと、言っただろうか。確かにそれは、美久が幽霊であるが故の悩みであって苦難であるのだけれども。かといって、街中の大衆の中で独り言を言っているのはあまりにもおかしな光景だ。そこに茉子がいれば、何ら支障はないのだけれども。 そういえば、美久は"僕のよく知っている人のところ"へ行くと言っていた。現状で、美久が話せる相手は僕と茉子しかいない。僕はここにいるから、美久は茉子のところへ行ったのだろうか。確か茉子のいる寮は、ここからそう遠くは離れていなかったはずだ。気軽に行けるようなところだけども、寮には一度しか行った覚えがない。 まだ美久が同じ大学にいるという、その存在に気付いてもいない頃、ただ単に、今まで通りに遊びに行っただけ。何故だろう、茉子とはあんなにまで親しい仲なのに、どうも恋心を抱けず、茉子にしてもそんな素振りは見せなかった。別に男女間に友情というものが存在してはならないと否定するわけではないけれども。 茉子とは、出会った頃から妙な親近感があって、確かに当初は女子として意識していたからあまり上手くは話せなかったけれども、次第にそんな感覚はなくなってきて、ごく普通に、ありきたりな友になってきた。今となっては、誰よりも信用の成る友達であって、それこそ親友と呼ぶに相応しいかもしれない。 美久のことにしても、親のことにしても、それからクラスメイトのことにしても、安心して相談できるのが茉子であって、茉子も同じように形(なり)振り構わず色んな事を訊いたり相談してきたりする。 美久はそれほどまでに仲がいい僕達二人に、妙に嫉妬心も抱いていたようだけども、本人から直接聞いた覚えはない。聡司は、それをどう思っているのかは知らないけれども。 気付けば、渡晴がいないこの状況。私は一体どのようにして、茉子の元へ行くべきだろうかと考える。寮の茉子の部屋のドアの前に浮き、止まる。入るのは簡単だ。単に扉をすり抜けてしまえばいい。でも茉子には急に現れるなと言われている。 しかし、物に触れられないのでは何も合図することができない。可能な手段といえば、声くらいしかない。 致し方ないので、不法侵入もさることながらやはりドアをすり抜けることにする。この感覚はどうも慣れない。身体の中に、悪寒が通りすぎてゆく。なんとか玄関に降り立つ。 そこから、また手に力を込めて自分を実体化させてみる。少し何かに達しきれていないような感覚が付きまとうも、これ以上はどうしようもない。それから、奥に向かって叫んでみる。 「茉子、来たよ〜」 返事はない。仕方なく、もう一度叫んでみる。 「茉子〜?」 相変わらず返事はない。辺りはしんとして、何かの緊張でも醸し出しているかのよう。仕方がないので、私は廊下を過ぎて茉子の部屋へと入ってみる。 そうすると、予想通りといってはなんだが、彼女はベッドの上で寝ていた。近くにおいてあった目覚ましは、止められているのか止められてしまったのかは定かではないが、今は時計として置いてある。布団は彼女に上から程よい重さを与えていて、差ほど乱れてもいない。彼女自身は横向きに寝ていて、部屋の中央に対して顔を向けている。 私は少しその寝顔に微笑ましさを感じながら、彼女が目覚めるのを待ってみる。おおよそ、茉子のことだから寝ていてもここに私がいるという気配くらいは感じているはずだろうから、何か嫌な夢でも──自分で言っておきながら、少し心外だ──見て、起きるであろうと思われる。 私にしてみれば、ここに流れる時間はあまりにも大切なものだけど、無理に起こして機嫌の悪い茉子に出会うよりはいい。それで話を聞いてもらえなかったら元も子もないのだから。 私は茉子が起きるまで、ただ刻々と過ぎる時間を、部屋を何となく見回しながら、ゆっくりと感じてみる。部屋は何処となく閑散としていて、本棚とCDコンポとCDラックと小さな机、それから壁にカレンダーが掛けられているだけだった。そこは丁寧にものが片付けられていて、いつでも人が呼べるような状況だった。 ふと、茉子が何かを言ったような気がしたので、軽く彼女の顔を覗きこんでみる。茉子は少し眉間にしわを寄せて、何か言いたげに軽く口を開けるも、声が出ているとは思えない。それこそ本当に悪い夢でも見ているのかと、私はしばらく彼女の顔を見てみる。 「ん……」 彼女は再びしわを寄せて、軽くそう呻く。それから、また軽く口を開けて、何かを呟く。 「……と……ぃ……」 聞いていて、まるで意味が分からない。そして彼女は寝返りをうって、私からは顔が見えなくなる。 「はぁ……」 私は二人なのに一人しかいないこの部屋で、独りでに漏れた溜息に気付き、思わず口を押える。そして、茉子の方を心配そうに見て、彼女が起きていないことに一安心する。 間を置いて、私は茉子に起きてもらわなければならなかったことに気付いて、少し恥ずかしくもなる。それから今度は自分が幽霊であることにも気付いて、何をしているのだろうと自分に自分で唖然とする。それが影響してか、私はまた、同じように。 「はあ……」 自分に対する溜息をつく。すると茉子がぴくりと動いたような気がして、私はそれに驚く。そしてまた自分は幽霊だったのだと改めて思い直し、何も驚くことはないではないかと自分に言い聞かせる。しかし茉子には私が見えているのであるから、このため息も聞こえるのだろうと思い、再び焦る。 「……とせ……く……」 また、彼女が寝つつも何かぼやく。これもまた、何なのかよく分からない。一体、茉子は何の夢を見ているのだろうか。何となく不思議になって、向こう側を向いている彼女の顔を無理して覗いてみる。 「……とせ……い……くん……」 彼女の息が微かに当たった気もする。 それにしても、"とせ……い……くん"とは渡晴くんであって、あの渡晴のことだろうか。"茉子の夢にまで出てきて寝言で呟やかれる渡晴"とは、何か私の知らない空間の住人のような気がしてならない。 彼女はまた、私の知らない渡晴を知っていて、これからも先、私の知らない渡晴を見ていくのだろう。何処となく、そんな事実に嫉妬心を抱きつつも、自らがそのことを願ってもいるので、なんとも言えない複雑な気分になる。 ……彼女には押し付けがましいかもしれないけれど、これから先の渡晴を守って欲しい。私は利己的にもそんなことを思っている。 僕はただ、自分の部屋のベッドの上で、空虚な柄の天井を眺め、空心に満ちていた。つまり、何もせずにただぼうっと、天井ばかりを眺めていた。 美久は茉子のアパートにいる。それは何となく分かる。 茉子ならそこに美久がいても大丈夫だと言う確証が持てるから、僕は敢えて茉子のところへ行くのは控えておくことにする。昼前には戻ると、美久もそう言って出ていったのだから、十二時前くらいには必ず戻ってくるはずだ。なぜそうも確証をもって言えるのかと問われたとしても、特に理由はないけれど。 僕の知る限りでは彼女はそんなに気紛れでもなくて、時間に遅れて帰ってくるならば、事情があったに相違ないと言えるだろう。おおよそ、出ていく前の口論(?)にしても、彼女は少しばかり無理していたようであったし、何も本気で言っているようには聞こえなかった。 ただ、何処かにはそういう風に思っている面もあるのだろうということは安易に想像できるけれども、僕からしてみればそれはどうすることもできない一つの事実でしかなくて、何の解決の策も見出すことはできそうにない。 ただ、茉子がいる空間か、僕と美久の二人しかいない空間でしか、僕が美久に自信を持って普段通りに話すことができないのは正直僕も辛い。いつまでもいるはずのない彼女だからこそ、もっと長々と話していたいし、もっと沢山話したいことがある。落ちこんだとき、気分が高まったとき、悩んだとき、嬉しいときに、掛けてあげたい言葉がある。掛けてもらいたい言葉がある。 僕らは、まだまだ多くのことをやり残して、一つの終焉を迎えてしまった。もっと長く、もっと多く、もっと高く、もっと深く、付き合っていたかったな、なんて。せめても、無理して戻ってきた彼女には、それなりに後悔なく戻って欲しい。僕は、現にそんなことを願いながら、空ろな幻想の世界へと誘いこまれていった。 |