9話 帰り道、再び電車の中で
明日は休日、土曜日だ。そんな日は学校の講義そのものは休みであって、サークルや部活だけが各々に活動している。 私は、あの頃茉子と同じテニス部で青春を謳歌していた。と、いうよりもたまたま私と茉子が同じところへ入って、そこで仲良くなったというのが正しい。 私自身は、とくに仲のよい人がいたという前提で入ったわけではなく、ただ高校でもテニスをしていたので、その延長線としてのものだった。高校からテニスを始めた私にとっても、周囲にいる人々のレベルは様々だった。ベテランのような人もいるし、大学から興味をもって入ってきた人もいる。私は教え教えられ、少しずつ周囲との距離を狭めていった。 そんな中で、茉子は私にアドバイスをしてくれた最初の一人だった。中学の頃から長々と続けているらしい彼女の方が、テニスとしては先輩であるということは、言うまでもない。 ちなみにテニス部の活動は、基本的に土日はない。たまに気紛れか何なのか、突然するときもあったけれど、それは大会前だとか、長期的な休暇である場合が多い。つまり、"大会に備えて"か"なまらないように"のいずれかの目的があるという場合が殆どだということだ。 今は、大会に備える期間の少し前。もう少しすれば休日にも練習が入ってくる可能性はあるが、今はまだないだろう。だから、明日は少なくとも学校に関しては、茉子は暇なはずだ。少し、予定でも聞いて、彼女のもとを訪れてみよう。渡晴には悪いけれども、ニ人っきりで。 「明日って、暇?」 私は、部活に行こうとしている茉子を引きとめてそう尋ねた。 「特に用事もないから、家にはいると思うよ。それがどうかしたの?」 「なら、明日行っていい?」 「うちに? 渡晴くんと二人で来るの?」 「えっ、いや……、渡晴は用事があるらしいから、私一人で行こうかなって思うんだけど」 それは単なる口実で、渡晴も暇に違いないだろうが、この際、彼がいると上手く事が運びそうにないので、何とか言い訳でもして、出てこればいいだろう。 「そう。別にいいよ。でも急に出てきたりしないでね? ほんとに、死ぬほど吃驚するんだから……」 「うん。分かってる。それじゃ、また明日」 「うん」 さて、一体どんな口実をつけようか。臨機応変、即席で考え付けば苦労はしないのだけども。 帰りの電車の車内。今日は昨日と違い、僕と美久だけだ。だからといって公然で美久と話すとなると、僕はただ独り言を言っているだけの怪しげな男となる。それは滅法ご免だ。だから帰りの車内では、僕は講義のときと同じくあまり喋らないように努めることにした。 ただ、美久はそんなことなど少しも察していないようだった。講義の時間の最後の方と何も変わらず、彼女は一本調子で長々と話を続けるのだった。 「渡晴は結婚とか、何歳くらいでするつもり?」 「結婚って……」 いきなりの質問の内容が意外過ぎることなので、僕は一瞬たじろいだ。 「私だって、もちろん、こんな状況にならなければずっと渡晴といたかったけど。でも流石にそういうわけにはいかないでしょ? 今は性懲りもなく、ここにこうしているけどさ。渡晴がしっかりして、安心できるようになればあとは任せるよ。先に逝って気長に待っているから、この世界でゆっくりしていればいいって。 私だって、上で会いたい人も沢山いるからね。それなりに退屈はしないだろうから。それで、確かにずっと私を想ってくれているのもいいかもしれないけど、流石にそうはいかないでしょ? あの葉月さんにしても、もうすぐ結婚するって言うのだから、置いていかれるわけにはいかないじゃない。 私のことは気にしなくていいから……、いや、少しは気にしていて欲しいけど、いい人見つけて、結婚してもいいでしょ? 私は寧ろ、そうしてくれる方が安心できるっていうか……、確かに嫉妬しなくもないけれど、やっぱりそれなりに渡晴には幸せになって欲しいっていうか……。だからさ、そういうのはいつ頃にするのかなって」 昨日、寝る前に言っていたことと矛盾している気もするが、何分彼女が勢いに任せて無理矢理言っているような気もしたので、僕はそのことに関して黙っておくことにする。 ただ、今の僕にすれば考え得るのはここにいる彼女のことだけで、"もし彼女が帰ってしまったら……"などと、後のことを考えるような気力もない。それに何より彼女はこの場に違和感なく存在しているので、彼女自身が既にこの世からいなくなったような存在であるということが非現実的になっていて、彼女自身はこうして僕の傍にいるということが現実的になっている。 確かに、時々彼女は何の前触れもなく消えてしまうのではないかとふと思うときもある。でもそう思うのは感傷的になったり、気落ちしていたり、予想だにしないことが起こったような時だけのような気もする。若しくは、何か現実味を帯びたことに触れた時だろうか。 そんな世界の中、彼女自身から"いい人見つけて、結婚しても"などと言われてしまったため、僕はただ、答えを先延ばししたようなことしか言えなくなってしまっていた。 「……そう言われても」 「まだそういうのは何も考えてないの?」 と、彼女は軽く僕の顔を覗きこんで尋ねる。僕はそれに対して、軽く頷いて答えた。ちなみに目線は車内の床をぼんやりと眺めているだけで、彼女は視界にメインとして写っていなかった。 「そう。じゃあ、私がいない間ずっと私のことばかり気にしていたってことだよね?」 何となく接点があるような、ないようなことを彼女は無邪気に訊く。 「うん……」 「確かに私は別れ際も何もなくて、大したことは言ってあげられなかったけどさ。それなりに渡晴には色んなもの、残しておいたつもりだったんだけどな」 彼女はそう言って、溜息をついて見せる。 「それでこうして戻ってきているのも何だか変な話なんだけどね」 と、今度は苦笑いをして見せるが、それも外見だけだということは察している。 「まあ、まだもう少し時間はあるし、料理くらいは可能な限り伝授してあげるから。せめて一人で真っ当な三食くらい作れるようにならなきゃね」 昨日、彼女が言ったことは夢だったのだろうか。まるで現実味を帯びた、彼女のような存在だったけれども。 突然だが、茉子について少し話しておきたいと思う。 茉子は僕と同じ高校出身で、奇遇にも三年間同じクラスだった、まあ、高校だけをとっていえば腐れ縁でもあったかのような人だ。 高校一年生のとき、僕と彼女は単なるクラスメイトという存在でしかなくて、もっともいろいろな活動をする上で何かと話を交えなければならないこともあったが、だからといって大して仲がいいと言うわけでもなく、お互いある程度の距離を保ちながらやっていた。僕としては、彼女は少し勝気で、健気で、どちらかと言えばもてる方だろうなというくらいの印象しかなかった。多分、茉子だってそんなものだろう。僕は大してインパクトのあるような存在ではなかったはずだ。 高校二年生のとき、僕らは再びクラスが一緒になったということもあって、お互い気楽には話せる仲ではあったが、それは決して仲がよく親密であったというわけではなくて、例えば用事があるときとか、何か分からないことがあるときに躊躇なく訊いたりできる、まあそれくらいの仲だった。例えば井戸端会議みたいに、世帯染みた話をするわけでもないし、悩みを相談したり、暇があれば話に行ったりとか、そういう関係ではなかったと思う。あくまで、まだ仲がいい方の友達。そんな見解が妥当だと思える。 高校三年生のとき、この頃から何故だか彼女の様子が変わり出して、彼女から僕に話しかけてくることが多くなった。どちらかといえば少し奥手の方だった僕からすれば、そうしてよく話しかけてきてくれる彼女は確かに女子としては親近感があったし、何の話題にせよ、気楽に話せるような仲だったのだけれども、かといって、それが恋愛感情に繋がるかといえばそうでもなく、良き友達として僕はやってきたつもりだった。 そんなあるとき、何故だか彼女はめっきり僕のもとへ話にも来なくなった。見ればずっと女友達と話していて、何となく目が合うと、彼女はすぐに顔を背けてしまっていた。数日経っても一向に話しかけてこようとしない彼女に何となく不安感を感じた僕は、彼女に直接その理由を訊くことにしたのだった……。 「見て、一番星」 と、彼女は空の遥か北の彼方を指差してそう叫んだ。 「うん」 僕は、彼女にひどく遠くから指差された星を眺めて、そう返事を返した。それから彼女の顔を同じように眺めてみた。彼女はぼうっとその星を眺めていて、同様に彼女を眺めている僕に気付く様子はない。 周囲には人気もなく、昼と夜が混沌とした夕暮れ、ほんのりと空は茜色に染まっている。いわし雲をほんのりと赤く染める太陽は、実に赤々と燃えていて、なんだか少し懐かしくもなる。染められた空は、いつの日かの、まるで僕の頬を象徴するかのようで、なんだか気恥ずかしくもなっていた。 「えっ、べ、別に理由なんて大したことじゃないけど……」 問い質すと彼女は何処となく慌ててそう応えた。 「じゃあ何なんだよ?」 「……、何だって言われても……。何も津野田(つのだ)くんが嫌いになったとか、何か嫌なことされたとかそういうことはないから……」 そう言う彼女は、僕の顔を見ずに、そっぽばかり向いている。 「なあ、どうせならちゃんと顔見て話してくれないか?」 「そう言われても……」 今度は視線を落としたので、僕からは顔が見えない。ただ、微かに揺れる黒髪だけが僕の目に写っている。 「……」 少しの沈黙。教室の雰囲気は、僕らを置いていつも通りゆっくりと流れていた。騒々しい女子の声に、男子の低い笑う声。僕らはそんな中で逸されているかのようにも感じる。 「……放課後じゃ、駄目?」 「放課後?」 「うん。う、うらにわ……で」 裏庭とはまさに、学校の中で一番目立たない、校舎の棟と棟のつなぎ目の隙間のような存在で、人目に付かないと言えば、告白なんかにはもってこいの場所だった。 「裏庭……」 僕はその言葉を繰り返して、その意味を考えてみる。そう言われれば、何となく、理由が分からなくもないけれど……。 「待ってる……から」 彼女は、そう言って自分の席へ戻って、机に伏せて寝るかのようにしていた。僕は何故だか、しばらくその場に立ち竦んでいた。 「今晩は何が食べたい?」 と、彼女はこれから出勤するところを見送るかのように言った。でも今は夜だ。 「う〜ん……、ハンバーグ」 「台所にグリルなんかあった?」 「そういや、ガスコンロに電子レンジくらいしかなかったな……」 「できること、限られてくるよね」 「それなら、おでん」 「おでんか……。出汁(だし)を取らないとすると、大分楽になるけど?」 「いいんじゃない。たまにはゆっくりできる時間が長くても」 「たまにって……、まだ三日目でしょ」 「そうだっけ……」 なんだか、そんな実感がなかった。あれからもう、三日も経っているなんて。 あの日の放課後。 しんとした授業時間・やかましい休み時間と違い、放課後は威勢のある声が響いている。廊下には残って勉強をしていた人や、部活の人が行き来するのが目立っている。校舎は一つの熱気に包まれて、大会に燃える熱き闘魂も感じられる。 そして、僕も別の意味で熱くなっている。これから行く予定の、学校の裏庭で、一体何がこんな僕を待っているのか。そんな風に書いてしまっては大袈裟も知れないが、場合によっては今後さえも左右する。まさか彼女から僕に告白してくるなんて想像もしなかったので、僕としては如何なる返事をするべきかと迷っているのが現状だ。とにもかくにも、今はその約束の場所へ行くしかない。こんなところで迷っていても、仕方ないのだ。 僕はそう心に決めて、ようやく堅い足を動かし、裏庭への扉を開いた。空は霞が掛かり、幾らか太陽の光も届きにくい状況だ。果たして、僕の心もそんな空の雰囲気に巻かれていくのだろうか。確かにそれは楽かもしれないけれど、それではならないはずだ。せめても、納得の行く判断をしよう。心にそう固く決めて、僕は広くなったその場所ヘと向かう。校舎の角を曲がれば、そこには先に茉子が来ていた。 「遅くなってごめん」 僕は彼女に対して、頭を下げる。敷き詰められた石が、何となく目に入ってきた。 「いや……いいよ、別に。私も今来たところだから」 「そう……?」 「うん。それで……、理由っていうか、その、あれなんだけど……」 彼女は手のやり場に困ったのか、前で組んだり、後ろで組んだりを繰り返す。 「うん」 「ほんとうは、もう少し後でちゃんと言おうって思っていたんだけど……、実は私……」 僕は生唾をごくりと飲んで、それから次に出てくる言葉を待っていた。 「津野田くんと……、その……、話していると……、何だか妙な気持ちに駈られて……。楽しいっていうのは、当然なんだけど……、なんだか胸が締めつけられるように苦しくなって……。自分でも、よく、分からないんだけど……」 「うん……」 「なんて言えばいいんだろう……。本当はもっと津野田くんと話していたくて……、でも、なんだかその妙な気持ちが気になって仕方なくて……。あんまり上手く話せないっていうか、実際こうしていられるのはすごく嬉しいんだけど、歯痒い何かがあって……」 「うん……」 「こんなこと訊くのも変だけど……、最近何処かいつも行かないようなところに行ったりしてない?」 「えっ?」 何かが違う。そう察した瞬間、妙な緊張は見事に切れてしまった。 「だから、変わったところとかに行ってない?」 「いや、最近はずっと家にいるけど……」 「そう。おかしいな……。じゃあ何なんだろう……」 彼女は何か思案するような表情で、そう言った。 「……」 僕は何か、得体の知れないひどい虚しさを、感じていた。 今思えば、あれは多分僕に霊か何かが憑いていたのだろうと思う。この数日前に、祖父が亡くなったばかりだったから、心配して傍にいてくれたのかもしれない。それから一月ばかり経った頃には、彼女はすっかり僕にそういう気配がなくなったと言っていた。 そのあとはまた、彼女は僕の元へよく来るようになって、今まで通り、二人でのんびりと、休み時間なんかを過ごしていた。ただ、何故そんなにも彼女が僕の元へ来たのか、それだけは未だに謎のままだけども。 まあそんな経緯で、茉子は友達としては大いに信頼の置ける存在だ。友達として、それ以上にもそれ以下にもならない平衡状態を保ち続けている。多分、これからもずっとそんな関係のままだろう。僕はそんな風に思っていた。 |