8話 “講義中の会話”の考察

また、夢を見たい。そう思っただけ。
付き合う前は、そんな気持ちだった。真剣に考えたわけではない。また、付き合ってみてもいいかな。そう考えただけ。
何となく、昔のほろ苦い思い出も据えて。また一つ、その上に重ねるかのような思いで。こんなことを言っては渡晴に対して失礼だけれども、それが事実だった。

学校へ行く途中の電車内。辺りは少しざわついていて、混んでもいる。でも僕たちはなんとも苦労していない。いつもより一本遅くなっただけで、僕らの街の駅を過ぎるときの電車はある程度空いていた。座る場所もあって、余裕があった。
次の駅に着いてある程度人が増えると、立つ人も見受けられるようにはなったが、雑踏したとは呼び辛い。いつもなら、電車の座るところは勿論なくて、ある程度人が立っている状態で街の駅に着くのに。その差は新しくて新鮮な、小さな発見だった。そんな状況の車内で、僕は美久に朝の事情を説明していた。
「なんだ、そんなことだったの?」
「なんだはないだろ?」
「でも、流石に駅前まであの格好で行くのは恥ずかしいと思うけどな」
「それくらい、真剣だったから……」
「言っておくけど、私は渡晴に何も言わずに消えるつもりなんて更々ないからね」
「うん……」
それはつまり、いつかは消えてしまうということ。離れかけていたそんな現実に戻ったような気がして、胸がきりきりと痛んでいるのが、はっきりと、分かる。
「あのときは公園にいたの。ちょっと早く目が覚めたから、朝風に当たろうと思って」
「酒も飲んでないのに?」
それは現実逃避だろうか。僕は、少しからかうかのようにそう言っていた。
「二日酔いじゃないんだから……。何となく晴れなかったから、すっきりしたかっただけ」
「美久が公園に行ったからって、空が晴れるわけじゃないだろう?」
本日は曇天で、とても晴れるとは言い難い。そういう意味じゃないってことぐらい、分かっているけど。
「もう。何言っているの? 気分だよ、気分。空を晴れさせるような力があるなら、今頃こうしていないよ」
"こうしていない"なら、どうしていたのだというのだろう。マジシャンにでもなって、世にも奇妙奇天烈(きてれつ)な芸当を見せているとでもいうのだろうか。黒いハットに黒いマント。黒いスティックを持って、指で音を鳴らす。同時に鳩が飛んで、空は青く晴れ渡るのだ。嗚呼、なんて素敵なことだろう。
「……渡晴?」
「えっ、いや、ごめん」
「今日の渡晴、なんか変だよ?」
「……ごめん」
「はぁ……」
溜息の理由くらい、こんな僕でも分かっているつもりだった。
もし、空を晴れさせるような力があるなら。
私は運命というものを変えたい。こんな、歯痒い想いをしなくてもすむように。ただ、フツーに生きていければそれでいいと思うことも贅沢だったらしい。
フツーに、二十歳になって。フツーに、大学を卒業して。フツーに、職に就いて。フツーに、結婚して。フツーに、三十路になって。フツーに、四十路になって。フツーに、五十路になって。フツーに、六十路で定年退職を迎えて。フツーに、老後を過ごして。もちろんそれが渡晴となら、この上ないけれど。そんなことも、叶わぬまま、感じぬまま、得られぬまま。晴れ渡った空を見てみたい。そして満足したかった。
でも、そんな風にもいかなくて。残された時間さえも、刻一刻と減りゆくのだろう。

時はしばらく経って、今僕たちは講義室の中にいる。講義室の室内は、冷暖房を効かせなくてもよいほどの気温で、実に居心地がいい環境になっていた。
窓から見える外の風景には、哀愁の寂しさも感じられるように、茶色くなりかけてきた葉っぱが木にしがみついている。
前方の黒板には、筆記体の英語が並び連ねられていて、蛇でも這ったかのようになっている。もっとも、筆記体や英語というものが分からなくもないのだが、目を凝らしていないとそういう風に見えてくる。僕は、相変わらず筆記体というものに慣れられない自分が、少し歯痒く感じていた。
机を挟んだ僕の前の席には、茉子が座っている。ここから見える彼女の様子を窺う限り、難なく講義を受けているようだ。
そんな彼女の隣の椅子には、微妙に離れつつも絶妙の距離を保って聡司が座っている。触れない程度、当たらない程度、かつ離れ過ぎない程度に彼はいる。おかげで、彼にとって椅子の正しい座り方なんていうものは、皆無である。しかし茉子はそんなことに気付きそうにもなく、生真面目にしている。
一方、あの美久はというと、僕の隣の空席に座っていて、執るものもないためか、時々僕に話しかけながら黒板を眺めている。僕はそんな彼女に小声で返しつつも、板書を写している。
彼女にとっては"暇"の一言に尽きるこの状況だが、僕は結構忙しく筆を走らせているつもりである。講義もちょうど半分を過ぎた今からこんな状況だと、結構辛いものがあると思われる。
この状況における暇人の極みとは、ただ寝るか話すかノートに落書きくらいしかない。が、美久が書こうとするものならば、ペンだけが浮くだろう。それはまずい。すると、残るは寝るか話すかだ。でも美久は寝ようとするような素振りは一切見せない。理由は定かではないが、恐らく寝たところで利益にならないからではないだろうか。なんせ、疲れも感じないらしいのだから。なら僕と話している方がよほど有効なのだろう。
しかし僕としては、なんとも言い難い状況でしかない。茉子は美久の存在を知っているから、僕が独り言を言っているとは到底思わないだろうが、聡司はそう思うだろう。それは、あまりいいとは思えない。
だいたい、この静寂を保ち続けている室内で話しているというのも目立つものだ。だから可能な限り小声で話すようにもしているのだが、時々こちらを向く講師の目が物凄く気になる。先ほどからやたら見られているような気がしてならないのは、気のせいだろうか。
時間。残された時間。私に残された時間。
それは大して長くはない。こう見えても手いっぱいの状況だ。無理をしているつもりはないけれど、急いではいるつもりだ。今は無事に茉子との認知も計れたので、とりあえずは安心もできる。でも本題そのものにとって、それは単なる序章でしかない。本来の目的……。
渡晴の部屋にある冷蔵庫を開けた時には、ある程度予想もしていたけれど、唖然とするしかなかった。中に入っているものでは、腹の足しになる程度しか作れなかった。私が最後に見たときからあまり変わってもいなかったというのも事実である。だから渡晴自身が料理を教えて欲しいなんて言い出したときは、驚きつつ内心喜んでもいた。この調子なら、冷蔵庫も食も安泰だなと。
でも、本来の目的はそうでない。もっと、大切なコト。あんまり、認めたくもないけれど、渡晴のためを思えばこその目的。それを達成しえなければ、私がここにこうしている意味も、まるでなくなってしまうことになる。何がために戻ってきたのか、今こうしているからにはそれが一番大切だった。

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