7話 いないこと and いること

今日も僕はいつものベッドの上で目を覚ました。ゆるやかに鮮度を増してくる光景と音を感じながら、上半身をゆっくりと起こす。
外では電線に止まった雀が鳴いている。カーテンの向こう側が明るくなっている。
けれども、僕は何か異様なものを感じながら、ベッドから降りた。それから僕はダイニングへ行った。いつものように牛乳を一杯入れる。ラヂオのスイッチを入れ、パンの袋を掴む。そして椅子に座り、袋の口を開けた。パンの袋の口に手を入れて、中からロールパンを一つ取り出す。ラヂオから流れてくる音楽に耳を傾けながら、侘しくもパンを口に運んだ。
侘しい……?
……!
彼女がいないことにやっと気付いた僕は、パンを口へ無理矢理詰めこみ、台所を一見してから、部屋を飛び出した。
アパート前の道路をしばらく行ったところに公園がある。小さいながら、生前、渡晴とよく来た思い出のある場所だ。朝靄(あさもや)がかかる中、そんな場所で、私は一人ブランコに腰掛けて、ぼんやりと薄暗い空を眺めていた。
できることなら、強く抱かれていたい、抱いていたい。
ここにあるのかどうかも定かではない心の中に、唯一絶対だと決めこんだ彼。私はあらん限りの全てを尽くして、包み込んでいたと思っていた。
でも実際のところ、それは途切れてしまうと何の意味も持さなくなる。残るのはただ、そこにあったという事実のみ。身勝手だけど、私は彼の中にずっといたいと思っている。少なくとも、彼だけには覚えていて欲しいと思っている。消えて、本当の意味でなくなってしまわないように。
でも、だからといって、私自身の意思が存在するわけでもないのだ。ただ、亡者の未練たらたらな願いでしかない。そんな私が、こんな状況で、彼を本当に包み込んだとしても、またそんな思いだけを残していくに違いない。寧ろ、それがより強くなって、残っていたいと思うかもしれない。そんなことは、道理として通るはずもないのに。

駅まで来て、僕はふと、もしかしたら帰ってきているかもしれないと思い、家へと戻ることにした。今思えば、僕は寝間着姿であって、服装も乱れ、些か滑稽でもある。そんなことに気づいたことも影響してか、突然侘しさと恥じらいを感じて、僕は思った以上に急ぎ足で家へと向かった。
アパートに着き、淡々と階段を上がる。金属を靴で叩く音が、辺りに響く。慣れ親しんだ、馴染みのある音。
霜が降り、辺りの空気は湿っぽい。階段も少し濡れて、滑りやすくなっている。そんな上を、慎重に歩いていく。いや、歩く速度が遅いだけに違いない。別に転ぶまいと意識しているわけではない。これが今の、自然な状態だろう。
階段を上りきり、平坦な道が前へと続く。木の上を歩く音が、辺りに響く。少し軋んだ、年を重ねた音。鳥が鳴き、辺りの雰囲気は艶っぽい。でも、僕の気分は少しも楽しげではない。
部屋の前に立ち、何となく、鍵を探してみるも、まずポケットがなかった。気付けばドアは少し開いていて、泥棒でも招くかのようだった。重い扉を開けて、僕は自分の居城へ入ろうとする。緩やかに開くドアは、何物も拒まず、素直に開いていった。開ききったドアから部屋の中に入り、靴を脱ぎながらそれを閉めた。
部屋の中の空気は、出てくる前と何ら変わっておらず、穏やかに流れていた。廊下をゆっくりと歩き、ダイニングにつくと、何故だか口を開けたままだったはずのパンの袋は、定位置へ戻っていた。もちろん、その口をしっかりと閉じて。それにラヂオも切られていた。僕は不思議に思いながらも、空虚感を感じて詮索する力もなく、椅子に腰掛けた。ぼうっとして、視点も定まらず、視界さえ明白でなかった。
そのとき、偶然時計が目に止まって、僕ははっと我に返った。気付けば、いつも家を出る時間だ。幾らこうもやる気が出なくても、このままではなるまい。動かなければと、僕はゆるりと立ちあがり、ベッドルームへと行った。そして何気なくベッドの上に目をやると、そこには探していた彼女があの黄色いTシャツを着て寝ていた。僕は少し唖然とし、身体は思い出したかのように走った疲れを感じていた。
幽霊は夢を見るか。果たして、明らかなこととは言えない。ともかく、寝ている間に何となく思い浮かんだ過去のことを連ねてみることにする。
私と渡晴は別々の高校出身だ。茉子と渡晴は同じ高校出身だ。聡司はその何れとも同じ高校ではない。そんな中で私と渡晴が出会う切っ掛けを作ったのは、茉子だった。
大学に入ってから、私は茉子と友達になった。茉子と渡晴は大学に入ってからも、友達として付き合いがあった。私と茉子が友達となった数日後から、三人で昼食をとっていた。
それから渡晴は聡司と友達になった。聡司は私達三人に引き込まれた。しかしながら、四人で話すようになってからの聡司の存在は薄かった。四人が揃うのは、こんな感じだった。そこで、一体どうして私と渡晴が付き合うようになったのか。それはまた、機会があれば。

僕は、ベッドで寝ている美久を軽く揺すった。彼女は僕が着替えている最中も、相変わらず小さな寝息を立てて、のんびりと寝ていた。僕の苦労はなんだったのだろうとも思うが、ともかくそれは彼女が起きてから訊くしかない。
三十秒もしなかっただろう。彼女はゆっくりと目を開けて、覗き込む僕をゆっくりと眼に写していった。
「おはよう」
僕は彼女に向けて、静かにそう言った。
「ん……、おはよ」
彼女は僕に眠そうにそう返した。
「今から学校に行こうと思うんだけど」
「もう、そんな時間……?」
起き上がった彼女は、尋ねる。
「ああ、一本乗り遅れたけどな」
相当走ったから、多分今日は早めに腹が減るだろうと思いつつ。
「えっ、なんで?」
「それは電車の中で話すから」
「う、うん……」
美久は、ベッドの上で軽く同意した。

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