4話 憑く彼女を見得る人

そして、私が目覚めると朝だった。部屋に置かれた本棚の目の高さくらいの段に置かれた時計は、六時を差していた。まだ彼が大学へ行くには時間があると判断した私は、向こう側を向く彼の胸に軽く片腕を回して、彼に抱きつくような格好で、今しばらく彼が起きるまでの間、再び眠ることにした。
目覚ましがなっている。そんな音で、薄っすらとした意識を伴って僕は目覚めた。手を伸ばして時計を止めた僕は、いつも通りに立ちあがり、ベッドから出ようとした。
すると僕は少し浮いて、ちょうど二度寝でもするかのようにまたベッドに戻ってしまった。わき腹の辺りに異様な重さを感じ、いつもと同じ力では立ちあがれなかった。その妙な重さの原因が分からず、僕は自然に、自分のわき腹の辺りを見てみる。
そこには、美久の腕が乗っていた。
僕は一瞬驚くも、昨日の出来事を思い出して冷静を取り戻した。それから僕は彼女を起こさぬよう、静かに彼女の腕を脇に置き、いつものように冷蔵庫から牛乳を出してコップに注いだ。
彼女はここにいる。僕のこのベッドの上で、一人すやすやと寝息を立てて、非常に無防備な格好をしている。満面の笑みとも言いがたく、かといってポーカーフェイスというわけでもない彼女の表情。少し笑っているようにも見えなくもないけれど、万人はそうは思わないだろうというくらいの些細な笑み。
僕はそんな彼女の顔を、中腰になってベッドに肘をつきながら眺めていた。半月振りの彼女の寝顔。なんだかほんわかとした安心感をもたらしてくれる。
でもその一方で、彼女は実は幽霊なのだという確信を得ない事実が何処となく僕に空虚感をももたらしていた。確かに今までも彼女がいないという空虚感はあったけれども、それとはまた違う感覚だった。このままずっと一緒にはいられない、何れ別れが来るのだろうなという心配は止むことはなかった。
久しぶりに彼女に会えたことはすごく嬉しい。でもあの時とは違い、彼女は幽霊であって、このまま付き合い続けることができないのは分かっている。
彼女が僕のためを思ってわざわざ戻ってきてくれたのも嬉しい。でも僕に、彼女が心配しない程度の安定した食事ができるようになれば、彼女は還ってしまうのだろう。それは心配がなくなるということになるのだから。
でも、だからといっていつまでも彼女に頼ることができないのは分かっている。きちんと自立して安定して、僕一人でも生きていけなければ。彼女がここにいなくても。
視界は明白でなく、磨りガラスを掛けたかのようにぼやっとしていた。それがゆっくりと明白になるにつれ、自分が何処にいるのかを思い出していった。
でも、目の前に彼はいなかった。私は上半身を起こして、見回してみるものの、彼の姿は捉えられなかった。ぼうっとした意識の中に袋を探る音が響いてきて、彼の居場所を知った私はベッドから降りた。

「えっ、朝ってパン一枚だけ?」
と、彼女は寝ぼけ眼にして、驚きながら挨拶もせずにそう言った。
「そうだけど……」
と、僕は椅子に座り、パンをかじりながら相も変わらず平然と答えた。
「起こしてくれれば朝ご飯くらい作ってあげたのに……」
と、彼女は残念そうに言った。
「でも気持ち良さそうに寝ていたから……」
と、僕は最後の一切れを口に放りこみ、あの寝顔を思い出しながら言い訳した。
「別に気にしてくれなくていいのに」
と、彼女は応えてくれた。
でも。
僕としては気持ち良さそうに眠る彼女を起こしたくなかったのもさることながら、本当は彼女に頼りたくなかっただけだ。このまま習慣になってしまうと、逆に辛くなるだろうと思って。彼女はもしかすると僕の心配をして毎食作るつもりでいるのかもしれない。でもそれでは彼女は延々と安心して還ることができない。ならばどうするべきか。
僕が彼女から料理を学ぶべきだ。そして自分一人だけでも、普通に生活していけるように。彼女がいなくなったことを落胆して、いつまでも沈んでいるのではダメだ。おかげで彼女が心配して来てくれるようなことになったわけだから。僕がしっかりしないと。茉子にしても、聡司にしても、そしてもちろん美久にしても、安心してもらわないと。いつまでも、心配かけるわけにもいかない。
僕はそんな風に、自分に対して決意表明をした。
「……あのさ、僕に料理教えてくれない?」
「えっ? どうしたの、急に?」
「他人に頼ってばかりじゃいられないだろ?」
「別に教えてもいいけど……。包丁も触ったことないでしょ?」
「そんなことはないけど……」
「……もしかして、調理実習とか?」
「う、うん……」
「はぁ。先が思いやられるよ」
彼女はそう言って、大きな溜息をついた。
「私もついて行っていい?」
僕が着替え終わった頃、彼女はそんなことを言い出した。いつの間に着替えたのか、あの黄色いTシャツを着ている。効果があるのかどうかは知らないが、一応洗濯機にかけたものだ。
「なんか久しぶりに講義受けたくなって」
「いいけど……」
どのみちこの部屋には鍵を掛けなければならないのだし、こんな密室に彼女を一人でおいて行くのは、何処となく心配だったから、そうするつもりだった。でも、彼女から言い出すとは思わなかった。
学校の校門。玄関まで歩く道のりを、僕らは歩いていた。かばんには一応僕も手伝った──と、言っても少しだけだが──彼女お手製の弁当が入っている。僕は独り言だと思われるのが癪なので、一応小声で彼女に返事することにしている。
「ここに来るのもなんだか久しぶり」
「僕はもう見飽きたけどな……」
「そんなこと言わないでさ」
「まあ講義は新鮮だから別にいいか」
「そういう問題じゃないと思うけどな……」
そんな他愛のない会話をしていると、背後から僕の名を呼ぶ声がした。
「渡晴くん、おはよう……。もしかして……、心霊スポットにでも行った?」
聞き覚えのあるその声は、あまりにも元気のなさそうな茉子のものだった。

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