3話 衆人に見えぬものの存在

「つまり、私は幽霊なの」
と、彼女は人影のない路地を歩きながらそう言った。
「でも、料理作ったし、実際に僕が食べただろ?」
「あれは、渡晴の部屋の回りにあるものだけは触れるようになっているからできたんだって」
「でも……だな、僕の手も握っているだろ?」
「渡晴に触れなきゃ意味ないでしょ」
そう言って、彼女はその手をより一層強く握った。
「そうだけど」
「それに、私は歩いているように見えるけど、実際は浮いているの」
「……」
どう見ても、足には普通に靴を履いているし、地面はちゃんと踏んでいる。決して浮いているようになど見えない。
「信じられないって顔だよね」
「そりゃ、信じられるわけがないだろ」
「まあ無理もないか」
「……あとは?」
「渡晴以外の人には見えないの。確かに、霊感がある人なら少しは分かるかもしれないけど、そうはたくさんいないはずだしね」
「へえ……。じゃあ僕は独り言を言っているように見えるってわけか」
「多分そうだろうね」
「なんかそれって虚しくないか?」
「仕方ないよ」
独り言を言う僕、ここに在り……ってか。なんだかな。
「まあ、そういうことだから、これからよろしくね」
「お、おう……」
幽霊の彼女を持つことになった僕、ここに在り。でも、幽霊という確証を得たわけではないのだけれども。しかし、幽霊でないとすると、ここにいる美久は一体誰なんだということになる……。つまり、幽霊である、というしかないというわけか。
「そういや、美久って……」
「なに?」
「僕の部屋で、寝るのか?」
「私は別に寝なくても、幽霊だから平気だけど」
「じゃあ夜の間起きているのか?」
「渡晴は寝るから、私は暇になるでしょ? だから寝ることにするよ」
「どこで? ベッドって、一つしかないぞ?」
「別に一緒に寝ればいいでしょ?」
と、彼女はすんなり言った。
「……マジで?」
「……何考えているの?」
「えっ、いや別に何も……」
「赤くなっているくせに、しらばくれるの?」
「……」
「黙っているなんてずるいなぁ」
「そうは言っても、だな……」
「じゃあ、なんで赤くなっているの?」
「そりゃ、こうして手を繋いでいるから……」
「今更赤くなるなんて。今まで何十回と手なんて繋いでいたのにね」
そう言って、彼女は小さく笑った。
「い、いいだろ、別に」
「まあいいけどさ」
そう言って彼女は星空を軽く仰ぐのだった。
1LKのアパートの一室。机があるのがリビングで、ここは別の四畳半の部屋。殆ど寝るためくらいにしか使わない部屋は、クローゼットとベランダに面している。床はフローリングで、壁にポスターがあるというわけでもなく、ベッドの他には本棚が一つ置かれている程度。味気ない部屋のベッドには、丸くなっていたはずの布団が綺麗になっていた。
「お風呂どうする?」
と、ベッドに座る彼女が訊く。
「僕はあとでいいから、先に行ってこれば?」
と、壁にもたれかかる僕は言う。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
彼女はそう言って、風呂の方へと歩いていった。ただ、確かに彼女には影がなかった。好きな人と一緒にいれるって、それがどんな形であっても、幸せだといえるのだろうか。僕はそんな疑問を抱かずにいられなかった。
「今思ったんだけど、私ってこれ以外に着る服ないよね」
と、風呂上りの彼女は言った。入る前と何ら変わりのない服を着ている。あの、黄色いTシャツだ。
「……幽霊ってどんな服を着るんだ?」
「えっ?」
「だって、そりゃあれだろ。もし売っている服を買って着たら、服だけ浮いて見えるってことだろ?」
「多分ね。試したことないけど。なんならやってみる?」
「えっ、いや別にやらなくていいけど」
「まあ、どうせ他の人には幽霊の姿なんて見えないんだから、服の意味があるのは渡晴の前だけだね」
「どういう意味だよ?」
「別に着ても着なくても、何も変わらないってこと」
「……それは勘弁して」
「私だってそんなの嫌だよ」
「じゃあ、どうするんだ?」
「この服を、外用にするっていうのは?」
「まあ僕の服くらい貸すよ」
「じゃあ家は、渡晴の服で」
人が来なきゃいいけど。服だけ浮いているなんて、そんな歪なこと、見られるとまずい。
「で?」
と、ベッドに入った僕は尋ねた。
「何が?」
と、隣にいる彼女は応える。
「いや、その、あれだよ」
僕は曖昧になった言葉を発した。
「あれじゃ分かんないよ」
彼女は天井を見ながらそう答える。
「こういうのって、あれだろ?」
僕はまた、はぐらかしてそう言った。
「何なんだか。私はただ寝るだけだから」
彼女は向こうを向いてそう言う。彼女の背中は、僕の側面になる。
「……」
「あのね、やっぱり雰囲気ってものがあるんだよ」
と、彼女は向き直ってそう言った。
「この状態は?」
「もう。しつこい男は、もてないよ?」
「もてないって……。付き合って……いるんじゃないのか?」
「まあ、そうだけど。とにかく、今日は乗り気じゃないの」
そう言って、彼女はまた向こうを向いてしまった。
「……そう」
そう言って、僕は彼女に背を向けた。お互い、背中を向けて、そっぽを向いている。僕の背中は、彼女の背中にどことなく支えられているかのように触れていた。
「半月の間、何をしていたの?」
と、背中の向こうの彼女は尋ねた。
「別に……。ただ淡々とした毎日をいつも通りに過ごしていただけさ」
「強がり?」
「そういうのじゃないけど」
「ふ〜ん。じゃあ茉子は?」
「ずっと明るく振舞っている。無理しているのは傍目で見ても分かるけど」
「そう……。なら聡司くんはどうしているの?」
「あいつは相変わらず片想いのままだな。茉子が無理しているのは、あいつも気付いているみたいだけど、何も言えずにいるみたいだしな」
「えっ、聡司くんって茉子のこと好きだったの?」
「あれ、言ってなかったっけ……」
「うん」
「そうか。まあ、そういうことだ。あいつ自身は何も言ってこないけど、傍から見ていても分かるよ」
「そうなの……」
と、彼女は残念そうに言った。
「どうかしたか?」
「いや、別に何でもないけど……。ただ、意外だったなって」
と、彼女は言う。
僕はそんな風には聞こえなかったけれども。それにしても、この背中の温かみはどこから沸いているのだろうか。彼女は幽霊のはずなのに、妙に暖かい。さっき握っていた手にしても、温もりがあった。なんだか、変な感じだ。僕に言わせてみれば、幽霊って透けていて、物を通りぬけて、普通は怖いものだと。なのに、彼女は実体として見えるし、僕の手は握れるし、料理まで作ってくれる。そういうものなら、幽霊もいい感じだな……なんて。ただ、いくつか気になることも言っていたけれど。そんなことを考えながら、僕は夢の中に落ちていった。

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