2話 来たるものは地につく彼女

アパートの階段を一つ一つ、空ろに上る。別に目が悪いというわけではないけれども、階段の先はうっすらとぼやけて見えていた。なんだろう、涙なんてあれから数えきれないほど溢したのに。今更、ここで流すような涙もないはずなのに。
この涙の理由はなんなのだろう。そう言えば少し眠いような気もする。もしかすると、知らない間に欠伸でもしていたのだろうか……。
僕はアパートの扉を静かに開けた。そして、玄関の横にある電気のスイッチをいつものように押した。
「きゃっ」
今、何か声がしたような気がしたけれども、この部屋には誰もいるはずがない。多分隣だろう。僕はそう思い、いつも通り靴を脱ぎはじめた。そして、気付いた。つけたはずの電気はついていなかった。おかしいなと思い、僕はもう一度スイッチを押した。するとあの雑多な部屋が明るく照らされた。僕は安心して脱ぎかけた靴を完全に脱ぎ、スリッパに履き替えて部屋へと上がった。そして混沌とした部屋の椅子に腰掛けて、
「はぁ」
と、今日何度目か分からない溜息をついた。あれから一体何度溜息をついただろうか。茉子に見つかる度にまたかと言われるけれども、それは彼女にしても同じだ。
茉子だって、あれから溜息ばかりついている。外見は明るく振舞って、相変わらずファッションにも気を遣っているみたいだけど。内面はそれに反して大分疲れて、寂しそうだ。確かに僕も聡司もいるけれど、美久がいないということはあまりにも大きすぎるらしい。あのタフな茉子がそんな調子だから、到底僕は元気でいるはずがない。あの頃と同じように振舞えたら、僕らもきっと大学を楽しく過ごせているのに。
そんなことを考えていると、突如肩に妙な重みを感じた。
僕は吃驚してとびあがり、膝を見事に机に打ちつけた。机は片側だけ軽く上へ持ちあがり、そしてまた床に落ちた。辺りにはどんと軽い振動を感じさせる音が響いた。
「何もそんなにびっくりすることないのに」
突然背後からそんな声がして、僕はまた吃驚して振り向いた。するとそこには黄色いTシャツがあった。不思議に思い、顔を少し上げると……。
そこには美久がいた。
……。
時間が止まった。ついでに僕も止まっていた。いや、正確にいうと驚きすぎて身動きが取れないだけだ。そんな状況下で彼女は構わず軽く笑みを投げかけてきた。僕はそれを見て、
─ドゴン─
また、驚いて今度は腰を机にぶつけた。
「オーバーだなぁ、もう」
彼女(?)は暢気にそんなことを言う。僕は痛いのと、そこにいるのが本当にあの彼女であるのかが信じられなくて声が出せなかった。
「久しぶりに会ったのにひどいよ」
彼女(?)はそう言って、奥のキッチンへと歩いていった。
僕はただ、それを呆然と見ているしかなかった。
机の上には、料理が並べられた。
「これくらいしか作れなかったけど」
と、彼女は言った。
「……」
僕はただ、椅子に座って運ばれてくるものを呆然とみることぐらいしかできなかった。
「何で?」
僕は支離滅裂な展開に困惑とし、それくらいのことしか聞けなかった。
「何が?」
と、彼女は尋ね返した。
「何がって……、どうしてここにいるんだよ?」
「どうしてって言われても……。それはまた、あとで説明するから。とりあえず食べようよ」
そう言って彼女はいただきますと元気よく挨拶して一人で食べ始めた。僕はそんな彼女を半ば特異な目で見ていた。
確かに、容姿は美久だけど……。でも、一体、どうして、ここに? 彼女は……、いうなれば土に還ったはずなのに。
「ねぇ、早く食べないと冷めちゃうでしょ」
「う、うん……」
目の前には、冷蔵庫にあったような気がするものが見事に調理されていた。皿の手前には、綺麗に箸が置いてある。僕はその箸を取り、皿にあるものをぎこちなく挟んで、恐る恐る口へと運んだ。
美味しい。
なんだか久しぶりにそう思えた気がした。
料理が上手いことは、彼女の特技のうちの一つだった。幼い頃から両親が共働きで、弟妹が三人もいる。その姉であった彼女は、面倒見がよくて、料理も弟妹の分まで作っていたらしい。おかげで上手くなったのだと、彼女はそう言っていた。
寮暮らしだった彼女は、ちょくちょくここに泊まりに来ていた。彼女が言うには、ここの方が居心地がいいのだそうだ。そんな彼女は、泊まりに来る度に冷蔵庫にあるものでいろいろと作ってくれていた。ちょうど今、机の上に乗っているような感じのもの。
彼女が初めてここに来て、そのときに作ってくれた料理の味は今でも忘れない。冷蔵庫にあった、たったあれだけのものでこんな美味しいものが作れることに驚いた。もちろん、それをやってのけた彼女にも。僕がその料理を絶賛したその日から、彼女は増してうちへよくやって来るようになっていた。
出された料理を食べ終わり、目の前には綺麗に中身のなくなったお皿が並んでいる。彼女は相変わらずゆっくりと食べていた。まあ、前々からそうだったから今更そのことに関して何も言うことはない。
でも、それ以外のことで、まず一つ聞きたいことがある。いや、聞いておかなければならないことだ。
「どうしてここにいるんだ?」
「心配だったから。それ以外に何もないよ」
と、彼女は顔を上げてそう言った。
心配? 僕が?
「冷蔵庫にあるものからして、どうせろくなもの食べてないんでしょ?」
「う、うん……」
見事に図星だ。あれから、すっかりやる気をなくしてしまった僕は、日々を淡々と過ごし、朝はパン、昼は安めの学食、夜はカップラーメンというまるで栄養価も何もない生活をしていた。美久が心配がって来るのも無理はないような三食だ。
「それに……、まあいいか。言ったところでどうにかなることでもないもんね」
「なんだよ、言い掛けておいて」
「聞いてなかったことにしておいて。私が言うより、流れに任せた方がいいはずだから」
「はぁ?」
「いいの、いいの。このことは忘れて」
なんともよく分からない。前からだけど、彼女は仄めかしておいて最後まで言わないことがしばしばあった。今に至って、何のことだか分かったこともあるけれど、未だに謎なこともある。僕はその度に首を傾げ、必死に何のことだか考えてみるけれど、いつも分からず仕舞いという状態だった。
それも、近くて遠い、できれば思い出にはしたくない、過去の記憶なのに。今になって、また……、思い起こされたかのようで。うっすらと、今が過去と重なってゆく。
「ねぇ、外に歩きに行かない?」
食べ終わり、キッチンで片づけをしているとき、彼女はこんなことを言い出した。
「どうしたんだ?」
「何となく、ゆっくりと話したくて」
「歩きながらの方がいいのか?」
「うん。夜風に当たる方が心地いいしね」
「そう言うなら、洗い終わってから行くか」
というわけで、僕らは夜の町に散歩にいくことになった。
でも、僕はまだ肝心なことに気がついていなかった。

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