1話 失意に満ちた分からぬ毎日

あの世ってどんなところだろう。消えてなくなった先、そこには何があるというのだろう。三途の川。天国。羽をつけて、リングを浮かせた天使が空を舞う。宇宙よりも遠くて、家よりも近い世界。そこに何があるのだろう。そこに誰がいるのだろう。そこにどうしているのだろう、あの人は。
まだ視界がぼやけ、頭が朦朧としてすっきりとしない朝。僕はベッドからようやく抜け出して、冷蔵庫から牛乳を出してコップに注いだ。コップの中では、並々と注がれた白い牛乳が歩調に合わせ小刻みに揺れている。テーブルの上にそっと置き、僕は椅子をひいて座った。
「はあ」
今日もこうして一日が始まる。牛乳を軽く飲み干し、コップをテーブルに置いたまま、近くにあった袋からパンを取り出す。そして席を立ち、パンをトースターに入れる。帰り際にラヂオのスイッチを入れ、僕はパンがトーストとして焼きあがるのを、壁をぼうっと見つめながら待っていた。しばらくするとチンッと音を立てて、パンが飛び出てきた。でも僕はそれを取りに行く気にはなれなかった。目の前には底に少しだけ牛乳の残ったコップが置いてある。口を閉じていない袋も置いてある。ラヂオからは威勢の良い声が響いていた。僕は軽く目を閉じ、今度は大きな溜息をついた。
「はあ」
今日もこうして何か足りない一日が始まった。
手にはかばん。服装は私服。上はTシャツ、下はジーンズ。モノ調にすると、上下が白と黒に分かれてしまうような色。まるで工夫も見られない映えない服装で、僕はアパートを出る。前の通りを抜け、信号を曲がり、国道を渡り、駅へ着き、定期を通し、電車に乗りこむ。早朝、通勤ラッシュの真只中である車内では押し合い圧(へ)し合いの状況だった。
三駅ほど過ぎた頃、都市を抜けた電車の車内は少し余裕ができていた。僕の掴まるつり革の近くの座椅子には、通勤途中のサラリーマンが座っていた。スポーツ紙のページをめくり、次のページを開くスピードがひどく遅く感じていた。
「はあ」
つい声に出して溜息をついてしまった。僕は窓の外をぼうっと空ろな目で眺めた。
「おはよっ」
そう言われて、僕は背後から肩を叩かれた。やる気も沸かず、ゆっくりと後ろを振り向くと、そこには茉子がいた。
「おう……」
「どうしたの、また大きな溜息なんてついちゃって」
「……理由なんて、訊くまでもないだろ?」
「まあ、そうだけど……。でもあれからもう半月ほども経ったのに、まだそんな調子じゃ美久だって安心できないじゃない」
「仕方ないだろ。どうやって忘れろっていうんだよ……」
「別に忘れろというわけじゃないけど……」
「じゃあなんなんだよ?」
「せめてもう少しポジティブにいこうとか思わない?」
「全然……」
「少しも?」
「そう思ったところでどうにかなるってもんでもないだろ」
「そりゃ、そうだけど……」
何をどう、明るくいこうって気になれるのだろう。今はただ、平凡な一日が淡々と過ぎていくばかり。半月ほど前の、あの愛と夢に満ちた日々とはまるで正反対。彼女がまだこの世にいた時には、こんな状況は考えられなかった。今からしてみれば、あの頃は幸せだったな……なんて。
虚空に満ちた心には、あらゆるものを排出する穴があるようで。そこから何もかも外へ出ていってしまって。無の空間だけで、何もない。その小さな空間には、もう何も残ってなんかいない。そこに何かが欲しくても、それが得られてもすぐに吐き出されてしまう。そんな感覚が、ずっと続いている。
もう……何もない。
「だからと言って、いつまでもそんな調子でいるわけにはいかないでしょ」
「そうだけど、何もやる気も起きないし……」
「そう……」
そういう茉子は、僕に比べて随分元気だと思う。同じように感じているはずなのに。代えられない悲しみを。
「……どうして茉子はそうやって元気でいられるんだよ?」
「別に元気ってわけじゃないよ。ただそういう風に見えるだけ」
つまり無理にそうしているってことか。だからと言って何かが変わるわけでもないのに。でも、こうしている僕も彼女と同じようにとても虚しく感じた。

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