0話 幸せに満ち足りた日々

なんだというのだろう。
「私の部活の友達の美久ちゃんね」
四月の中頃、所謂新メンバーと称するべきか、茉子(まこ)が突然同じサークルの友達を連れてきた。
「よろしく」
彼女は、河谷 美久さんというらしい。
「よ、よろしくお願いします」
彼女は恭しく礼をして、少し慌てつつ椅子に座った。
「そういうことだから渡晴(とせい)くんもよろしくね」
「おう」
こうして、『企画<茉子>実行<茉子と僕>』の昼食に、美久さんが加わった。ただ、そうなると、僕としては茉子がこうして昼食を共にしたかった理由が、増して分からなくなってしまった。
"一緒にお昼食べるって約束してくれない?"
"大学に入ってからもこうして友達でいたいから……"
あの頃の茉子はそんな風に言っていて、僕と離別するのを恐れた。その理由は、あの帰り道を歩く時点で分かっていたつもりだったのだけども、それからも彼女は以前と何も変わっていない。こうして念願叶って一緒に昼食を摂っているのに、彼女は特別な態度をとるわけでもなく普通に過ごす。では、彼女の恐れた離別には、どんな意味が含まれていたというのだろうか。
あの頃の僕は、少し自惚れて、彼女が僕のことを好きなんじゃないかと思っていた。そう単純に考えていたのだけれども、彼女はそれらしい態度もとらなかった。三年も一緒にいて、僕は茉子のことは何となく分かっているつもりだったけども、この肝心なところだけはいつまでも明白にはならない……。
僕はアパートに一人暮らしで、サークルは特にやってはいない。中学校から継続的に卓球をしていたのだけれども、生憎大学には卓球をしているところがなかったのでサークルの類に所属しなかった。だから特に寄るところもないので、その日の講義が終わるとそのまま大学前の駅からアパートのある駅を目指す。
電車の車内はこんな時間だから人も少なく、朝とは大違いだ。駅に着いた僕は、自動改札機に定期券を通して改札を抜け、駅の構内をアパートの方面へ向かって歩き出す。駅前のバスターミナルを過ぎて国道を歩き、それを渡り商店街に沿って歩く。道の両側に商店が立ち並んでいて、その店の隣に駐車場があり、数台の車が止まっているというところが多い。中には老舗もあって、新しい店舗は殆どない──ここは時の止まった通りだろう。
そんな商店街をしばらく歩くと、住むアパートが見えてくる。それは二階建てで、階段は鉄製。色は赤だったろうが、少し剥げていて鉄の鈍色を覗かせている。僕は階段を上って、アパートのニ階へと上がる。そこからニ部屋を越えたところ、そこが二○三号室で僕の住む部屋だ。その前に立って、静かにドアに鍵を差し込み開ける。
部屋には、トイレと風呂がついていて、学生寮より快適であると思う。テレビがない代わりにラヂオがあって、日々の情報源となっている。リビングにはテーブルと、椅子が三つ。一人暮らしで敢えて三つあるのは来客用で、稀に茉子がやってきてそれに座る。それから、姉さんと義兄さん──といっても、同棲しているだけで結婚はしていないけれど──もたまにやってくる。本来は二つだったのに、先日姉さんたちが来たときに、不便だと自分の都合で置いていった。僕としては邪魔にもならないから別にいいのだけれども、三人になるときは姉さんと義兄さんが来たとき以外にはないので、持ち腐れの感がある。
リビングの奥の部屋は自分の部屋で、部屋全体の大半の面積をベッドが占めているけれども、他には本棚やMDなどが置いてある。玄関から向かってリビングの右側にはキッチンがあるけれども、僕自身が作らないものだからこれも持ち腐れの状態になっている。そして今日も、帰り際に買ってきたコンビニの袋をテーブルの上において、僕はベッドの上に寝転がった。白い天井を眺めて、今日あったことを振り返ってみる。
本日、何か特別なことがあったかと問うならば、それは紛れもなく美久さんのこととなる。彼女は、茉子より少し背が高くて、セミロングの黒髪をしていた。一方の茉子はショートだけども、そういえば初めて会った頃はもう少し長かったような気もする。部活の友達ということは美久さんもテニス部ということだろう。
そんな当たり前のことを考えると、ぼんやり美久さんが浮かんできて、僕は慌てて頭を振った。なぜそんなことが頭に映ったのかと不思議で、試しに茉子を想像してみる。しかしまた、気を許すとぼんやりと美久さんが浮かんできて、思わず頭を振った。
そういえば、茉子は高校のときにテニスの団体戦で全国四位になって、学校でそのことを賞賛する会があった。三年の夏の大会で、引退する前の最後の大会であったから、茉子はその結果に一頻(しき)り喜んでいた。だから茉子がテニス部に入った時は、さほど驚くものでもなかったし、寧ろそうなるだろうなと思っていた。
ただ、そこから彼女が友達を連れてきて、一緒に昼食をという展開には少し驚いたけれども、美久さんは今日話している限りでもいい人そうだから、何となく納得できなくもない。でもそれだと、茉子がこうしてニ人で昼食を摂ることを頼んだ理由が益して分からなくなるのだ。茉子は僕に対して恋心を抱いているのではなく、単に、僕が自惚れていただけなのだろうか……。
それから数日後の、ある午前中の講義にて。僕は、いつものように講義前の空いた時間に本を読んでいた。ページをめくり、読むことを繰り返して、ふと時間が気になったので顔を上げて時計の方を見ようとすると、
「それって、誰の書いた本ですか?」
と、突然横から声を掛けられ、僕はそれにたじろいだ。目の前には興味津々という顔をした見知らぬ男がいて、手に教材を持っている。容姿としては、髪は比較的短髪で、淡いグリーンにワンポイントとラインの入った服を着ていた。僕は、彼の問いに対して答えを返すと、彼はそれに反応して大いに感嘆して、
「その人の小説って、情景描写が綺麗だよね。それから登場人物の心情とかよく捉えていて」
「うん。僕もそう思うよ」
「それから、毎回独特な登場人物が出てきて、次回作が出たときにはまた違う新鮮さがあっていいよね」
「それも何処にでもいそうなキャラなんだけど、飽きが来ないっていうか……」
「そうそう……」
そんなこんなで、僕らは異様に盛り上がって、講義が始まるまでその話でもちきりだった。
その日の昼食、講義にてすっかり意気投合し、その講義の終わりに共に昼食を摂ることを約束していた僕は、食堂の入り口で彼が来るのを待っていた。そういえば、彼からは名前すら聞いていなかったような気がするし、それに加えて、自分も名前を教えていなかったような気がする。どうやらあまりに本の話に熱中しすぎていて、肝心なことを忘れていたらしい。
僕が彼を待ってから数分経った頃、相変わらず待ち続けている僕の元に、美久さんと話していた茉子が、美久さんを残してこっちへやってきた。
「さっきからそんなところに立って、何をしてるの?」
「いや、今日の少し前の講義が始まる前に本を読んでいたら、隣から誰の本を読んでいるのかって尋ねられたから、答えたんだけど、どうやら彼もその作家のファンらしくて。それですっかり意気投合したものだから、一緒に昼を食べようって約束したんだけど」
「それで、まだ来ないの?」
「ああ。まあ、時間はあるから別にいいんだけど」
そう言ううちに、食堂の出口の方から駆ける音がして、それに気づいた僕は、彼と思しき方へと振り向いた。
「ごめん、ちょっと取り込んでいて……」
走りながら彼はそう言って、言い終わると同時に到着。
「いや、お構いなく」
社交辞令のような僕の台詞を聞いた茉子は、苦虫でも噛んだような顔をしているけれど、
「と、とりあえず、早く座らない?」
と、何とか言い切って、
「は、はい」
と、緊張した彼を誘導していった。
「間藤 聡司といいます。よろしくお願いします」
彼は、美久さんよりも形式張った挨拶をして、椅子を少しひいて座った。わざわざ立たなくてもと思う僕を尻目に、茉子は早速彼に話しかけていて、
「私は、飛島 茉子。それから彼女は河谷 美久ちゃんね」
「よろしくね」
「はい」
彼はやけに丁寧にそう答えた。僕に話しかけたときとは大違いだ。
「それで、突然なんだけど、聡司くんは何部に入ってるの?」
「あ、僕はバレー部です」
「バレー部か。私はテニス部なんだけど。通学は何処から?」
「上りからです」
「私と一緒か……」
そう呟く美久さんに対して、履き違えた回答に小さくぼやく茉子。
「そう言う意味じゃないんだけどな……」
それに対して、聡司くんはわけが分からずにしどろもどろしている。ちなみに僕と茉子は下りからだから、ニ人──美久さんや聡司くんとは逆の方向だ。いや、本当なら茉子は今何処に住んでいるかってことが聞きたかったんだろうけど。
「そ、そう。私は下りだから反対かな……」
とりあえずというほどに茉子は返事を返してはいるけれど、僕はなんだか今一つかみ合わない会話が続いていきそうな予感がしていた。
話は飛んで五月、ゴールデンウィーク。といっても、僕にはこれといってすることもないので、家でゆっくりと本でも読んでいようかと思っていた。それが三連休直前のニ日に突然茉子から誘いがあって、特に予定がなかった僕は彼女の誘いに乗ることにした。待ち合わせ場所は、僕の街の駅で、茉子が大学までの定期券を持っているからだ。僕は、茉子がそう言うのならと、駅前の公園で彼女を待つことにした。
電車到着時刻の五分ほど前にここに到着した僕は、公園に備え付けてあるベンチに座って、ただ彼女が来るのを待つ。電車到着前とあって、駅前にはタクシーが数台止まっていて、電車から降りてくる人を待っている。それとは別に、私用の車も数台控えていて、客人か若しくは家族が降りてくるのを待っていた。
あとしばらくすればここも人が多くなるのかと思っていると背後から電車の到着する音が聞こえた。どうも連休の真ん中であるためか、降りてくる人も少なく、割と空いているようだった。そんな中に紛れて茉子がやってきた。構内から出た彼女は、左右を向いて僕を探しているようだった。僕は、ベンチから立ち上がって、彼女の方へと駆けていく。その距離の半分くらいを過ぎたところを走り寄る僕に気がついた茉子が、僕に対して手を振っている。僕はそれに答えようと、彼女に対して手を振りかえす。いや、このシチュエーションは誰がどう見ても彼氏と彼女なのだろうが、とりあえずはそうではないと言いたい。彼女が一体どう思っているかはまったくもって謎なのだけれども。
そうして彼女と合流した僕は、再び電車に乗って、大学を越えてその向こうにある駅のデパートへと繰り出した。彼女はどうやらここで買いたいものがあるそうだ。しかし訊くところによると、僕はただその買い物に付き合うだけで、それ以外の大したことはないらしい。だから僕は買い物中の茉子の話し相手になるだとか、若しくは彼女が服なんかを選ぶ際に、その選択の補助を行うだけになるだろうと思う。まるっきりデートだなと思いつつ、それを口に出すのは躊躇われた。
デパートに入ると、そこはまるで平日のようで、連休といえども帰省している人や逆に家でのんびりしている人が多いのだろうかと勝手に推測していた。茉子は、エスカレータに向かって歩いてゆく。僕は彼女を追い、彼女に行き先を問う。
「まずは、本屋に行って……」
何やら、週刊誌を買うのだそうだ。彼女の言う週刊誌は、彼女が前々から購読している音楽関係の雑誌で、以前僕も見せてもらったことがある。まだあの雑誌を継続して購読していたのかと僕は感心しつつ、"まずは"の言葉が少し引っかかっていたりもした。当然、ただ週刊誌を買うだけでここまで来るはずもないから、他にもあるのだろうけど、"まずは"と来ると後にたくさん控えているような気がしてならない。"まず始めに本屋へ行ってそれから……"などという考えは無理やり捨てて、単に"本屋へ行く"とだけを自らに言い聞かす。エレベータを上がり終えたところで、僕は茉子の隣に並んで歩く。
「本屋の次は何処へ行くんだ?」
「とりあえず、CDショップかな。色々と見たいものもあるし」
そういうことなら、僕も単に付き添うだけで済むようなこともなさそうだ。
「渡晴くんも行きたい場所があったら言ってね。付き合うから」
「おう。まあ、今のところはどうせ暇してた身だからないけどな」
「私も暇を持て余していたうちの一人なんだけどね……」
茉子はそうぼやくが、ここは敢えて聞いていなかったことにしよう。単にお互い暇だという理由で、ここでこうして茉子とデートしているとは思いたくはない。例えば、何かお勧めのものでもあるとか、共通の見たい映画があったとか、そんな感じで来ているつもりでいたい。
「まあ、私は別に用がなくても、渡晴くんとこうしてのんびり店内を散策してるだけでいいかな……」
「僕と?」
「うん。なんとなくそう思うの。いや別に、深い意味はないんだよ?」
「うん……」
僕はこの状況が悲しくなって、進行方向を直視することができなかった。深い意味のないことを軽く否定されたことではなくて、暇でこうしていることについてだ。
その時ふと美久さんの顔が浮かんできて、僕は思わず隣を歩く茉子を伺ってしまう。彼女はちゃんと進行方向を見据えていて、僕が見ていることに横目で気づくと、軽く首をかしげて見せた。いや僕も、こうして茉子と歩いていることはまったく悪い気はしない。寧ろこうしている方がいいかなと思うし、彼女にもそう言いたいのだけども、それはあくまで親しい友人としてであって、住み始めて間もないアパートより落ち着くとか、そんな意味合いに近い気がする。そんな自分が、なんだか寂しく悲しく感じてきてしまっていた。
懐かしい空気と雰囲気のする茉子を、まるで故郷か何かのようとでも思ってしまっていたのだろうか。彼女にそんなことを話せば、まるで笑われてしまうだろうけど、少しあの頃が恋しいのは確かだろう。
「買い物が終わったら、うちのアパートに来ないか?」
自ずと彼女にそんな誘いをしている僕がいた。
「渡晴くんがそうしたいって言うなら、そうするよ。私だって、こうして付き合ってもらっているんだしね」
彼女は"ご恩と奉公"のように僕のアパートに来るのかと、そう考えているうちに、いつの間にか本屋についていた。
「それじゃ、私はその辺りをぶらぶらしてるから、何か用があったら言ってね」
レジの向こう側へと向かって歩いていく茉子の背中を見ながら、僕の頭の中には鎌倉時代のことがぼんやりと浮かんでいた。
連休折り返し地点、昼食。本日のメニューは、オムレツ。
デパート内の飲食店街で、僕らは空いていそうな店を探し、たまたま入った店がここである。店はファミレスのようで、茉子は店を選んだ僕に、"別にファミリーじゃないんだけどね"とか言っていた。血縁関係のないものが家族になる可能性といえば、養子か結婚しかありえないじゃないかと密かに心の中で突っ込んだことは、あくまで秘密だ。
ともかく、そのファミレスの案内された席に座り、やってきた店員に、例のオムレツとコーヒーを頼んだ次第である。一方の茉子は、相変わらずメニューを眺めていて、店員はその答えをただ待ち続けている。店員側からすれば、注文内容を即答した彼氏となかなか言わない彼女だろうが、いや決して付き合っているわけではない。断固として否定するのもなんだけど、少なくとも僕はそのつもりでいるし、多分今後も茉子と付き合うことはないだろうなと思う。確かに、これはデートだけど。
何もデートというものはあくまで男女間の会う約束というだけであって付き合っている必要性はまったくないのだ。ただ、僕らはゴールデンウィークにおける三連休の中間を、友達として謳歌しようと考えているだけである……はずだ。しかし何故美久さんでなくて、僕なのかという点に関しては本人に追求もしていないけれど──美久さんは僕らのように暇人ではないのかもしれない。友人の誼(よしみ)でというなら、納得はいくけれど、本当のところはよく分からない。
店員が茉子からようやく注文をとり終えたのか、注文内容を反復して僕らに確認を取る。茉子がそれに了承して、やっと茉子から開放された店員が、厨房の方へと歩いていった。
「オムライスだったよね?」
「ああ。しかし茉子はサンドイッチって、そんな軽食でいいのか?」
茉子はサンドイッチとレモンティーだった。
「えっ、うん、まあ……。別にダイエットとかしてるわけじゃないんだけどね」
「そうか。まあ、深くは訊くつもりはないけど」
「いや、夜に控えておこうと思ってね」
「夜?」
はて、夜とはもちろん夕食のことであろうが、何かあっただろうか。
「あれ、夜って渡晴くんのところで食べるんじゃないの?」
「……初めからそのつもりで?」
「うん。こういうところでは、あまりゆっくり食べようって気にはなれないしね」
だから、うちでゆっくりとたくさん食べようという寸法か。
「それなら、帰りに食料品売り場に寄らないと……」
「もしかして冷蔵庫に大したものは入ってないの?」
今、恐らく冷蔵庫なんぞは空っぽだろう。
「使わないものをおいておいても仕方ないだろ?」
「それはそうだけど……。でもたまには何か作った方がいいよ?」
「分かってはいるんだけど、どうも何を作ればいいんだか分からなくて。キャベツに食物繊維が多いとか、ニンジンにビタミンAが多いとか、そういうのが身体にいいことは分かるんだけど……」
「つまり料理の仕方が分からないのね」
言ってしまえば、つまりそういうことになる。
「じゃあ、今日は私が腕によりを掛けて作るから。食費は割り勘でいいから、とりあえず楽しみにしてて」
茉子の腕によりを掛けて作る夕食か。楽しみといえば楽しみだけど、何だか茉子に悪い気もしていた。僕も、せめて必要最低限は自分で作れるようにはならないと。
その後買出しに行った結果として、本日の夕食は野菜サラダとクリームシチューとなった。数日の間、作ることなく保持することのできるシチューを選んだのは、茉子の考慮だと思う。そんな茉子に感謝しつつも、作っている茉子に対して何の手伝いもできないという自分の能力があまりにも情けなかった。所詮は、作り終わった野菜サラダを今座るテーブルまで運んでくるだけが僕の仕事で、その程度のことしかできない。茉子は、台所の奥でシチューを煮ていて、その具材を切ったのさえ全て茉子だ。野菜サラダにしても手出しができない状態で、僕はそのことに危機感を覚えていた。
シチューを作り終えた茉子が、ニ人分をお皿に入れて、リビングへと運んでくる。僕は、慎重にと力を入れている茉子の、片方の腕に持つお皿を取り上げて、進んでテーブルへと置いた。それに対して礼を言った茉子は、もう片方のお皿をテーブルへと乗せた。それから、奥へ駆けていった彼女は、スプーンと箸を持ってきてお皿に添えた。僕らは椅子について、お互いにいただきますと挨拶を交わして、彼女が腕によりを掛けて作ったシチューを食べた。
それは、久しぶりに食べる懐かしい味がした。
食後、寝室にて。僕と茉子は共にベッドに座って、のんびりと(暇人の集大成において)語り合っていた。
「どうせ、明日も今日と同じように休みで、大してやることないよなぁ」
「私も。特に課題も出ていない状態だし」
「課題はあるにはあったけど、もう一日目の時点で終わったからな……」
「ニ人とも、暇か……」
「そうみたいだな。僕は適当に本でも読んでいようかな……」
「私は今から家に帰ってからさえも、どうせ寝るだけ……」
僕も、あとは風呂に入って寝るだけだった。やはり暇には変わりなく、やれることといえば、本を読むかラヂオを聞くか程度だった。
「……ね、よかったら今夜泊めてくれない? 渡晴くんも今夜は暇でしょ?」
「えっ? 暇だけど、でもどうして?」
「いや、別に深い理由はないけど……。ああ、もう外も暗いから帰るのも面倒だし、ニ人の方が楽しいかなって」
確かにニ人の方が楽しいってことは分かる。でも普通、急に異性のうちに泊めてもらうって言うのはどうかと思うけれども……。僕がそう思うのを知ってか知らずか茉子は慌てて付け加えて、
「べ、別に変な意味があるわけじゃないよ!?」
「うん。……あ、でもうちにはベッドは一つしかないしソファもないけど、いい?」
僕は、その事実があることを意味することに、言ってからやっと気がついた。
茉子を家に泊めるということは、つまりは同じベッドで寝るということを意味するのだ。それは、つまり、あれであって。
「ん〜。でも相手は渡晴くんでしょ?」
「えっ、まぁ……、他に誰もいないし……」
「なら私は、別に渡晴くんと同じベッドでもいいよ。大丈夫、渡晴くんなら」
大丈夫と言われた本人は、自分の立場はと考える。いくら茉子が自分にとって大丈夫であると判断しても、それは僕にとってどうであるのだろうか……。
「大丈夫って言われても……」
「渡晴くんの隣なら安心して寝られるって、渡晴くんを信用してるっていう意味だよ?」
「いや、それは分かるけど……」
「ちょっと狭いかもしれないけど……、まぁその辺は、ね、うん」
いや、そういう問題ではなくて、気まずいと言うか、隣に居るとなったときの心理状況が……。
「……何も、そんなに気まずそうな顔をしなくても。少しくらい嬉しそうにしてもいいのに」
普段の茉子なら到底言いそうにないことを口走った彼女は、そのまま背面へと倒れた。
「はぁ……。大学へ来てから、あまり実家にも帰れていないし、寝るときはいつも一人だから、なんだか寂しくて。渡晴くんなら信用できるし、懐かしい雰囲気もあるかなって……」
つまり、僕が考えていたこととあまり差はないのか……。
「ホームシックっていうのかな。何だか懐かしいものが恋しくて。別に実家に帰ればいいんだろうけど、やっぱり帰り辛いじゃない?」
確かにホームシックっていうのは、僕にも分からなくもないし、共感もできるけれども。
「僕でよければ、それに付き合うけど……。でも、一緒に寝るっていうのはちょっと……」
そう言い終わる前に、僕は茉子によって背面へと引かれていた。両肩を掴まれて背後へと倒れていくのはあっという間で、すぐに茉子の顔が隣となった。
彼女は、自分が引いたことも気にせずに、僕を一瞥したあと、ただただ天井を眺めていた。
「そんなに気を遣うことも緊張することもないのに。私だって、軽率にそう言ったわけじゃないよ?」
少し僕の方を向いてそう言う彼女の目は、いつになく真剣だった。
「う、うん……」
「私は渡晴くんだからそれでもいいかなって思ったんだけど。渡晴くんが嫌なら仕方ないから帰るよ……」
「えっ、いや、別にいいよ。泊まっていっても」
そこには少し焦っている僕がいて、知らず知らずのうちに了承してしまっていた。それも、隣にいる茉子を直視しながら。
「ありがとう」
天井を見ながらそう呟いた茉子の目は、一瞬だけ、何故か少し寂しそうに見えたような気がした。
隣では、茉子が微かな寝息を立てて寝ていた。僕はこの状況に置かれて、最初の方は茉子との会話で何とか気を紛らわせていた。しかしこうして茉子が寝てしまっては、その相手もいなく、ただ只管に寝ようと努力していた。しかし隣ですやすやと寝ている茉子に、僕自身は尋常でないような気さえする。
彼女の言うとおり、ベッドの上は少し窮屈で、茉子との密着度が高くなっている。それも、一つの要因となっているのかもしれない。落ち着かなく、茉子に対して挙動不審になっている。彼女が寝返りを打つ度にびくびくしていては、到底話にもならないと分かってはいる。しかし、こんな状況で普通に寝ていられる方がどうかしているとも思えてしまう。
この狭さが精神的に圧迫しているのかもしれないと思い、半身をベッドの下へと投げ出してみるも、今度は違和感があって、何も取り繕ってはくれなかった。
行き場を失ったかのようで、やはり断わっておくべきだったかと、今更ながら彼女を泊めたことを悔やんだりもしてみた。かといって満ちるわけでもなく、無意味なのは言うまでもない。仕方なくぼんやりと宙を眺めて、必死に寝ようとするのを自然とそうなるのに任せてみることとした。そんな状態でぼんやりとしていると、次第にゆっくりと周囲の認識が朦朧としてきた……。
明白としない視界の中、ゆっくりと周囲の様子を確認すると、いつの間にか僕の片腕は茉子の下にもぐりこんでいることに気がついた。つまり僕の腕に、彼女の頭が乗っていた。腕の上で寝る彼女は重いとも軽いともつかず、そこにそうして触れていることを微かに感じさせていた。彼女はこっちを向いていて、頬が僕の腕の上にある。僅かながら吐息が腕に当たっていて、それが少しだけ緊張感を醸し出している。彼女はすっかり安心しきった表情をしていて、まるで、ここに僕がいてその僕が男であるということすら無視しているような雰囲気だった。外は明るくて、時間も午前九時前とそれなりの時刻を指している。微かに小鳥のさえずりが聞こえ、風が窓に当たって音を立てている。
ただ不自然なのは、いつの間にか腕枕をしている状態になっていたということ。あれから、なんとか瞼の重みで寝て、それからいままで起きた覚えはないので、僕自身がそうしたとは思えない。すると、これは茉子の仕業なのだろうか。彼女は隣で少し寝息を立てて寝ているし、もし彼女がそうしたならば僕が寝ている間ということだろうけど。
でもその腕枕となっている手を抜くわけにもいかないし──そうすると彼女は起きるだろう──、どうしたものだろう。しばらくは、このまま彼女を僕の腕に委ねているしかないのだろうか……。
彼女は単に、僕に懐かしさがあって泊まっているだけだというのに、何故腕枕などしているのだろうかと考える。僕自身に思い当たるような記憶がないので、恐らくは茉子自身がやったことなのだろうと思うが、その意図が定かではない。かといって、今こうして寝ている茉子を起こす気も起きないし、起きても問い質す気になれなかった。ただ、できることならこの席は……に……、などと思い、思わず首を振って気を紛らわし、突如浮かんできたその意味を考えても、思い浮かぶ理由がなかった。
そういえば昨晩は隣に茉子が寝ているということに言いようのない緊張感があったにも関わらず、今に至ってはこうして茉子が腕枕をしようと何故か昨日より自然でいられる。腕の上に茉子がいることに対して違和感がないことに違和感を覚え、昨晩のことを思い出してみるも、やはり自分は自然体でいられてしまっていた。その理由はいくら問うても見つからず、思い当たるものさえなかった。
仕方なく、再び茉子の様子を伺ってみる。相も変わらず僕の腕を枕としているものの、その手が少し僕の腕に触れていた。彼女の寝顔は、人はそれをかわいいと呼ぶのであろう状態で、口が僅かながらに開いていた。そこから漏れているのであろう吐息は、僕の腕に当たっていて少しくすぐったい。
僕は、外で鳴く鳥の声も含めて幸せだなと、どことなく感じていた。"これで僕と茉子が付き合っているというシチュエーションなら益して"と思いつつも、それが自分の気持ちに反していることに何となく気がついていたのだった……。
瞬時の志は高く、しかしそれもいつの間にか喪失し、僕は結局夕食を作るところまでは行き着いていなかった。相変わらず、帰り際に買ってきたコンビニの弁当が机の上に置かれていて、耳にはラヂオの音声が聞こえていた。
机の上に広げられた課題を片付けながら、その声に耳を澄まし、ゲストと司会者のトークを聞く。こんなときは、時々ぼんやりと美久さんが云々と思いながら──別に茉子でも聡司でもいいはずなのに──、それに気がついて首を振っている自分が最近よくいたりする。そこでなぜ美久さんが登場するのかはよく分からないけれども、最近は昼食のときも何故か以前とはその雰囲気が異なるような気がする。
茉子は相変わらず、美久さんと話しつつも、時々聡司に話を振りながら、その均衡を保っているようであったし、僕もその茉子が中心となるところへ思い思いのことを言って、会話に貢献しているつもりでいる。ただ、聡司や茉子とは直接話せても、どうも美久さんにはそういうわけにはいかず、何か突っかかるものがある。それにも関わらず、脳裏に自然と彼女が浮かんでくるという現象は、まったくもって理解できなく、今のところは一つの謎として放置されるに留まっている。別に、ぼんやりと浮かんでくることには、さして罪悪感などは抱いてはいないけれども、僕と彼女の間に何があるのだろうと、僕自身もそのことが気になって仕方ない。
僕は片付け終わった課題を、カバンの傍に置いて、一人ベッドに寝転がった。何故か、ここが僕の一番安らぐ場所で、気楽にしていれる場所である。することがないときは、よくここにこうして寝そべっていたりする。寝るには早いし、外に出るには遅いという時分で、確かに読める本はあるけれども、それを読もうという気はあまり起きなかった。
ぼんやりと放心状態にあると、やはりそこには自然に美久さんが浮かんできていた。やはり理由は分からない。ただ、妙に会いたいような気もするし、逆に今会っては気まずいような気もしていた。もちろん会えるはずもないのだけれど、何処となく寂しくて、それは何となく故郷を思うそれにも似ているような気がしていた。
「どうしたの?」
「えっ、いや、な、なんでもないけど」
五月十一日、昼休み。ぼんやりとしていたら、突如美久さんに具合を聞かれ、思わず慌てる僕。視界には、不思議そうにしている美久さんが映っている。僕は、自身の視線が悟られてはいないかと、あたふたするばかりだった。
「そう? それならいいんだけど。何か悩み事でもあるんじゃないかと思ってさ」
悩み事は大いにあるけど、ただそれを美久さんに言うわけにはいけない。いや単に言えないだけかもしれない。言ってしまうということは、つまり、告白となんら相違ない。
ただ、傍に居られるだけでいいとは何か違うと思う。傍にも居たい、そんな感じだと思う。傍に居たいと思うならば、この昼食の時間に彼女の横に座ればいいだけだ。ここには四人しかいないし、いつも最後に来るのは聡司だから、どう考えても彼女の横は空いている。でも、僕は敢えて茉子の横にばかり座っていて、自分に素直でないなと時々思うことがある。何も、向かいに座らなくとも、彼女の横は十分に空いているのだ。そこに座ればいいものを、自分はそれさえもできやしないのだ。自分で自分が嫌になってくることも、もうどれほどあっただろうか。
とにかく、この日も僕は彼女の向かいに座っていて、隣には座れていない。僕の右側が茉子で、左側が聡司。隣にすら座れなく、いやたとえ座ったとしても多分まともに言葉さえも交わせないだろうと思う。今であれ、向かいに座っていてさっきみたいな状況であるのに、それが隣となってしまっては一体どうなることだろうか。でも、自分はこのままではならないとも思っている。こんな状態のままで昼食を過ごしていて、普通にいられる気もしない。やはり、悩みの真意を彼女に伝える必要があるだろう……。
五月十一日の放課後、メインホール。そこには、僕と美久さんがいて、ニ人でそこに設置されているベンチに、少し距離を置いて座っていた。辺りには静寂が漂っていて、吐息さえも聞こえてしまっているのかと思えてしまうほどだった。
茉子は美久さんよりも先に部活に行っていて、ここにいる美久さんは僕によって待機させられている、とでも言うべきか。
ともかく、昼食のときに、放課後のアポをとっていて、だからこそこうして僕は美久さんと共にここにいる。僕としては、今こうして、ここにニ人でいるという事実だけで既に満ち足りているような感覚もあるけど、実際はそんな目的のために彼女を呼び止めているというわけでは決してなかった。
「今日はちょっと話したいことがあって……」
「うん。ああそうそう、別に時間は気にしなくていいよ」
そうは言われたものの、やはり気になってしまう。その気がかりのせいか、逆に次の言葉が出てくるのに時間がかかってしまっていた。
「それで、その……」
「うん」
心拍が自棄に早い気がするのも、気のせいではないだろうけれども、それよりもこんなときだというのに、いやこんなときだからこそ、美久さんを直視できていなかった。
「そ、その……、僕と、付き合ってください!」
急に進みだした時間は、またゆっくりと、いや寧ろ止まっているかのようだった。辺りには再び静寂が漂い始めていて、僕の中は緊張と緩和が入り乱れていた。美久さんは僕の頼みを聞いて、思案顔になっていた。僕はただ、ジェットコースターでこの後落ちるというところを延々と上っているような感覚だった。さっきに比べれば、まだ落ち着いた方だとは思うけれども、それでも何処かしら無駄な力がかかっているように思う。しばらく経って、美久さんはようやく顔を上げた。
「私でよかったら、その相手になるよ」
彼女はそう言って、片手を僕の前に差し出した。僕はその意図が分からず、思わず首を傾げてしまった。
「握手しない?」
「握手?」
「うん。友好のしるしに」
「う、うん……」
僕は恐る恐る手を差し出した。彼女はその手に優しく触れて、それからゆっくりと手を握った。
「……」
頬に先ほどよりも増して熱がこもっているのが認識できた。外から見れば、恐らくは、赤くもなっているだろう。
それは恥じらいと妙な嬉しさが辺りを包んでいて、まさに不思議な感覚だった。

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