The 37th story 未徠と柚愛《その1》

「一体、どういうつもり……?」
未徠の家で、ソファの前に未徠と向かい合わせに立つ柚愛は、彼をしっかりと眼前に据えて言った。
「美琴さんにかけた魔法も解いたのだから、もういいでしょ?」
「……一つだけ、訊きたいことがある」
未徠は、静かな部屋の中で、少しだけ俯いて、ぽつりとそう呟いた。
「うん……」
「もう、何も言わず勝手にどこかへ消えたりはしないな?」
そう言う未徠の目はちゃんと柚愛を捉えていたが、それは淡い消えそうな色を含んでいた。
柚愛にはまるで、今にも降り出しそうな空のような、今にも泣き出しそうな子どものような、壊れそうなくらいの繊細さを含んでいるように見えた。
どうしてそんな質問を未徠がするのかを、柚愛は分かっている。
ただ、未徠が不器用なだけだということも……。
「うん」
柚愛がそう答えた次の瞬間、彼女の目の前には未徠の厚い胸板があった。
彼女は驚いて反射的に身じろぎするも、それが兄の抱擁なのだと知ると、黙って彼に身を預けたのだった。
一方、莱夢の家には、莱夢と聖流がいた。
一台のテーブルを挟んで椅子に座る二人の前には、それぞれ一杯のレモンティーが置かれていた。
「美琴ちゃんが記憶を戻したいというのも、きっと私が魔法を使えるということを教えたせいだと思うの」
言う莱夢の視線の先には、自らの用意したレモンティーがあるだけだった。
ぼんやりとそれを眺めて言う莱夢に対して、聖流は比較的穏やかに、
「いや、きっと"美琴さん"として彼女が在ったときから、過去の記憶がないことを気にしていただろうから、莱夢のせいだということはないだろう。ただ、俺たちが"過去"を紐解くための切っ掛けを与えただけに過ぎないと思うけどな」
「そうだと、いいのだけど……」
「会った時から、永輝くんがずっと気にしていただろう?美琴さんはそれ以上に気になっていたはずだから」
「確かにそうだけど……」
「そんなことを莱夢が気にしても仕方ないだろう?美空が記憶を消したときから、何れこうなることはわかっていたからな」
「……うん」
莱夢は、置かれたレモンティーを手に取り、それを口に運ぼうとして躊躇し、再び元の位置へと置いた。
「でも私は、記憶の戻った美空ちゃんが一体どうするのか、不安で」
「美空も、恐らくは記憶が元に戻るという可能性を考えていたはずだ。それに美琴ちゃんも、自分の意志で戻そうとしている。だから、問題はないと思うけどな」
そうして、聖流がレモンティーを持ち上げ、飲もうと口元まで運んだところで、莱夢が言った。
「ううん、そういうことじゃないの。記憶を消す前の、美空ちゃんの考えていたことが読めないから、永輝くんや柚愛ちゃん、それに、未徠くんに対して、どうするのかわからないことが、心配で……」
「ああ、そういうことか。それなら俺はそこまで気にしてはいないな。永輝くんはああして覚悟したからには、思うとおりにいかなくても自戒するだけだろう。それなりの思いはあるはずだ。未徠は俺たちがついていれば大丈夫だと思う。柚愛ちゃんだっているから、安易な行動に出ることもないだろう」
「私も未徠くんは大丈夫だと思うけど……。でも、永輝くんは今まであれほど気にしていたのに急に変われるとは思えないから」
「そうか?俺はもう安心してもいいと思うけど。あと、柚愛ちゃんは……、もし何かあれば俺が何とかする。そもそも、ああなったのも、元はといえば俺のせいだからな……。ただ、蓮香ちゃんには、申し訳ないけど……」
「柚愛ちゃんのことを聖流がそこまで気に病む必要はないと思うよ。気に掛けてあげれば、それだけで十分だと思うから……」
「ああ……、まあ大丈夫だとは思うけどな」
「うん……」
莱夢がそう言った後は、二人とも黙ったまま、ただレモンティーに手をつけるだけだった。
「いつまでこうしているの?」
柚愛は、未徠の腕の中に収まったまま、彼に尋ねた。
「ああ……」
自分のしていることにやっと気がついたのか、未徠は細くそう言って柚愛を引き離した。
「……おかえり」
むすっとした表情のまま顔を逸らし、投げやりに言う言葉の裏には、どんな気持ちが隠されていたのだろうか。
「ただいま」
そう思いながら、柚愛はただ、その言葉に実直な返事だけを返した。
「その、これからどうするつもりなんだ?」
相変わらず未徠は柚愛を見ずに呟いた。ただ、その視線は泳いでいる。
「少し気になることがあるから、ついて行ってもいい?」
「好きに、すればいい」
「ありがとう。でも、美空の記憶を戻すことには、反対だから……」
未だに美空が記憶を消した理由は分からなかった。
それでも柚愛は、美空がした自らの記憶を消すという決断を無駄にはしたくなかったのだった。
「それは美琴さんに言えばいい。俺はただ彼女を手伝うだけだ。俺にとやかく言っても意味はない」
背後にあったソファにやっと腰を落ち着けて、未徠は言った。
「本当に、彼女に何も言ってないの?」
柚愛もそれに倣ってソファに腰掛けた。そのソファの感覚は随分と懐かしいものだった。
「ああ。俺はただ、トランスを教えただけだ。俺が知らない間にあの二人が何かしているかもしれないが、初めて美琴さんに会った時から彼女は過去のことを気にしていたから、こうなることも遅かれ早かれ必然だったのかもしれない」
「そう……」
言って、柚愛は一つため息をついた。
「……私も、何処かで覚悟を決めないといけないのかな」
「美琴さんが記憶を戻すことを?」
「うん……」
「そもそも、何故記憶を戻したくないんだ?」
「前にも言ったでしょ。彼女が──美空がそれを選んだのだから、そうしておいた方がいいと思うって」
柚愛は、今度は深くため息をついて言った。
「何を思って記憶を消したのかは分からないけど、少なくともそんな手段を選ばなければならないほどの状況だったんだと思う。それにも関わらず記憶を元に戻しても、また彼女を苦しめるだけでしょ?」
「なら、美琴さんは過去が分からないまま悩んでいてもいいというのか?」
「えっ、いや……」
そう言われて、柚愛は返す言葉がなかった。
当事者である美琴がどのように思い、どのように考えているのかということを、殆ど、いや一切考えたことがなかったからだった。
「俺が勝手を働いたときに、美琴さんのことを考えていなかったのは確かだ。しかし今、美琴さんが記憶を戻したいと言った限りは、柚愛が勝手なことを言っているようにしか聞こえないだろう」
それを聞いて柚愛は思う。
果たして、美琴さんはどういう気持ちで記憶を戻したいと思っているのだろう、と。

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