The 33rd story 美空の存在《その3》

一方、永輝と美琴は、一冊の本を前にして椅子に隣り合って座っていた。
「美空さんの日記、か」
「うん。これを読めば、何か知ることができるかも知れない」
美琴はそう言って、目の前に置かれた日記帳を手にする。
両脇から包むように持って、机の中央から少し自分の方へと引き寄せる。
それは、白くあまり特徴のない見栄えに、一言"日記帳 その十七"とだけ書かれていた。
左開きの表紙を持って、ゆっくりと開けてゆく。
そこにはただ、日付と共に短い文が書き連ねてあった。
「二年位前からだな……」
「うん……」
「『今日も彼女が私のところへ来た。ここ一週間ほどずっと彼女はここへ来ている。』」
日記の字を指で追いながら、美琴は書かれていることを読み上げる。
「翌日、『やはり今日もやって来た。私は構わないが、彼女は何を思ってこんなところへ来るのだろうか。』。この"彼女"って、誰のことなんだろう」
「これだけでは、分からないな。これの前の日記があれば、何か分かるかもしれないけど」
「その十六、か……」
表紙を確認して、呟く。
「私があそこで見つけたのはこれだけだったけど……。探せば、他のものも見つかるかもしれない」
美琴はそう言って日記帳を閉じてから立ち上がったものの、しばらく考えあぐねていた。
見かねた永輝はそんな美琴に、
「どうかした?」
「もう夜だから、今から行けば電気をつけることになるから、止めた方がいいかなと思って」
「たしかにそうだな。明るいうちに行ったほうがいいかもしれない」
それを受けて、美琴は再び椅子へとつく。目の前に置いた日記帳を再び開いて、
「……『彼女は今日も私の元へ顔を出した。いつもの事ながら、嬉々としてやって来る。それに加え今日は珍しく未徠くんが来た。しかし、結局何の用があったのか、適当に話してから帰っていった。』、と」
「普通の、日記だよな」
「うん……。何か分かればいいんだけど……」
「……なあ」
「うん?」
こちらを向いた永輝を伺って、美琴は言いかけた彼に問う。
何処か困ったような表情で彼女の視点を受け止めた永輝は、そこにしばらくの間をおいてから、
「結局、美琴はどうしたいんだ?」
美琴の目をじっと見て、言う。
彼女は目を逸らすわけにもいかず、ただ、
「その……」
と、呟いて、自らに"私は、どうしたいのだろうか"と問いかけるのだった。
永輝と気まずい雰囲気のまま、半ば逃げるようにして帰ってきた美琴は、一人家のリビングに腰掛けて、考え事をしていた。
彼女の今持つ記憶は、見たこともない公園のベンチで永輝に起こされたところから始まる。
ここは何処だろうかとまず思い、何故ここにいるのかと次に考え、そもそも私は誰だったかと顧みる。
そうして、何も思い出せないことに気が付き、その場で人目も憚らずに困惑した。
それを聞いた永輝は、行く宛のない彼女を一度自分の家の空き部屋へと落ち着かせ、村の長へ申し入れて空いていた家を彼女のために宛がってもらった。
その後彼女は、自分が何者で、何故あの場所にいたのか分からないまま、ディーティで生活していくこととなる。
美琴の家が決まってからも、永輝は彼女に世話を焼き、その結果として二人は互いに惹かれあう仲となり、あの日に至る。
あの日には当然、プロポーズを目前にしてこんなことになろうとは、思ってもみなかったことであった。
しかし、美琴の記憶に関しては、何れは解決しなければならないものとして二人のうちにあった。
それが魔法で封印されていようとは、思いもしなかったであろうが。
……彼女が思うのは、そういった過去の上にあるこれからのことだった。
記憶がただ魔法によって忘却されたものではなく、魔法によって意図的に封印されているものと分かった今、この記憶を思い出すか出さないかは自分がどうしたいかによるということを念頭において、美琴は考えてみる。
思い出したくないなら、もう旅を続ける必要はないのだから、ここで止めればよいと、彼女は思っていた。
封印された感情も戻って、神に会う必要性はなくなった。
何も特別なことをしなくとも、今までどおり、自分が何者なのかはっきりとしないまま──つまり過去には関心を持たずに、暮らしてゆけばいい。
永輝のしたプロポーズに関しては、何も支障がなく、寧ろ喜んで受けたい。
あの前日に、彼の家で銀色の箱を見て中身を確認したときからそれは決めていた。
ただ、今までと変わるところがあるとすれば、いくら思い出そうとしても決して記憶が戻らないということが分かったことくらいだろうか。
でも……、それで平然と暮らしていけるのだろうか。
今、こうして追い求めている衝動を、忘れ去ることができるだろうか……。
いや、きっと、この旅を終えてしまったとしても、何処かでまた"カノジョ"を追い求めて、あの家へ行くことになるのかもしれない。
一方で、思い出したいなら、この旅の目的を変えて、記憶を戻す方向に進めばよいだろう。
そのことに対して、あの三人が同意してくれるかどうかはわからないが、きっと何かしら協力はしてくれるだろうと思う。
もし、三人が美空さんの記憶を消した理由を隠しているとすれば……、また話は別かも知れない。
でも、そういう事態はあまり考えたくはなかった。
ただ……、記憶を戻すことを永輝が快く思うだろうか。
少なくとも、表立ってはよしとしてくれるだろう。
それでも、恐らく、内心ではあまり快くは思わないかもしれない。
私も、記憶の戻った私がまた同じように永輝のことを想えるかどうか、自信がない。
この気持ちが消えなくとも、それに勝る何かがあるのだとすれば……。
そうであっても……、いやそうであるからこそ、私がしっかりと何処へ向かうのか、彼に示しておきたい。
今のように、はっきりとしないまま、ただ"カノジョ"の影を追い求めるだけでは、それに長々と彼を付き合わせることになってしまう。
そして私もきっと満足することがないだろうし、その探求が終わることもないのだろうから……。
どれだけ長く、深く、詳しく調べても、なくした記憶が戻ることはない。
きっと私の求めるものは、何かによって映し出された"カノジョ"ではなく、"カノジョであるということ"なのだろう。
いくら人から聞いても、"カノジョ"の記したものを見ても、それが満たされるわけではない。
求めても求めても、それは形骸化された何かで、ただの写し身でしかないだろう。
飽こうと思うなら、私自身が"カノジョ"であるようになるしかない。
そうすることに、恐れがないといえば、それは嘘になる。
自分でない意識が、自分のうちにあるという感覚──今の自分からすれば、そう表現されるだろう。
それが、記憶の戻ったときには、自分でない意識こそが自分となる……。
そのことに対して、恐れを抱かないはずがない。
でも、いつまでもこうして"カノジョ"の姿を追い求めているだけでは、きっと、何も得られないし、何も変わらないだろう。

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