The 15th story 魔法回顧録《その2》

「ふう……。転位の魔法はボンとはいっても、ある程度精神を集中させないと、適当な場所に飛んでしまうから疲れるよ……」
あの丘に突如として現われた莱夢は、誰の求めもなくそうぼやいた。
ボンって?」
永輝は莱夢が何気なく呟いた独り言に対して、質問を投げかける。
莱夢は彼の思いがけない質問に対して少し驚きつつも、その答えを返した。
「えっ、ああ、魔法には大雑把に分けるとボンマウの二種類があって、マウ魔法っていうのはペナルティがあるんだけど、ボン魔法はそういうものがないの。でも転位のボン魔法トランスは、移動する場所をしっかりとイメージしないと他の場所へ飛んでしまうから、何かと疲れるの。あくまで精神的な面の話だけどね」
「ということは、あまり使わないほうが楽ですか?」
一方の美琴は、莱夢が言う"疲れる"という言葉に反応して、彼女を気遣う。
「いや、慣れた場所ならどうってことはないんだけどね。ここは来たばかりだから、イメージが薄くって」
そう言いながら、莱夢は辺りを見渡して、
「まだ来てないみたいだね。ここへ来てることは知っているはずなのに」
「……誰が来ていないのですか?」
「柚愛ちゃん……。未徠くんがいないから、来ると思ったんだけどね」
莱夢はそう言ったあと、溜息を一つ吐いて、
「来ないなら、仕方ないね……」
彼女はそう言うと、軽く目を瞑った。
数秒後、莱夢は再びその瞼を上げて、
「とりあえず、これでいいかな……」
莱夢がそういった瞬時、少し風が吹いたかと思うと、
「転移完了、と」
無表情でそう言う柚愛は、相変わらずの黒装束だった。
彼女は、莱夢の向こう側にいる二人に気づいて、少しだけ目を細め、
「また、ここに来ることになるとは思ってなかった」
「今、連絡を入れたばかりなのに、絶妙のタイミングで来るね……」
莱夢は現われた柚愛に向けて、残念そうにそう言った。
「連絡?誰に?まさか未徠?」
「いや、私は未徠くんに告げ口する気はないよ。またいざこざが起こるのも大変だしね」
「それなら……、もしかして聖流……?」
「うん……」
「そう……。まあ別に彼から逃げているというわけでもないから、いいんだけど」
「私は、できれば柚愛ちゃんに彼と会ってほしいの」
莱夢は、柚愛のほうをしっかりと見て、そう言った。
「……莱夢がそう言うなら、構わないけど」
「手間かけてごめん。じゃあ、ちょっと待っててね」
そうして、莱夢は再びその瞼を閉じて、何か思念しているようだった。
「私は、こんなに早くまた二人に会えるとは思ってなかった」
状況をただ見守っていただけの二人に対して、柚愛はそう話しかけた。
「……ああ」
永輝は、ただ簡素にそう相槌を打つだけだった。
「でも、来たくて来たんだよね?」
美琴は、柚愛の言葉と作為の矛盾を確かめるようにそう尋ねた。
柚愛はそう言う美琴から僅かに顔を逸らして、軽く頷く。
「私でよければ、いつでもあなたの止まり木になるから。ね?」
優しく紡ぐように、美琴は俯く柚愛にそう言った。
青い空を舞う鳥は、ゆっくりと顔を上げて、
「……っ、記憶がなくても、そういうところは、変わらないね」
柚愛は、何故か目に少し涙を浮かべていた。
「前にもそんなことを?」
「うん……。"カノジョ"も、美琴と同じように優しかったよ……」
そう言って、柚愛は美琴に笑って見せたのだった。
一方、永輝は、そういう柚愛をどことなく寂しそうに眺めていた。
「永輝くんは、もう柚愛ちゃんを見ても怒らないんだね」
莱夢は、美琴と話す柚愛を眺める永輝に不思議そうに問いかけた。
「うん……。彼女とは、僕らが遺跡を巡り終わるまでにちゃんと感情を戻してくれると約束したしね。とはいえ、ちょっと複雑な気分だけど」
「約束って、いつの間に?」
「えっ、その……、莱夢さんにならいいかな。昨日、三人が遺跡に行っている間に、彼女が来て、その時に」
「やっぱり。あの好機に来ないわけがないと思ってたよ。永輝くん、そのとき柚愛ちゃんに抱きつかれなかった?」
「えっ、いや、その……」
見事にずばりと言い当てられた永輝は、彼女の思わぬ言葉に焦っていた。
「やっぱり。柚愛ちゃんらしいといえば、らしいよ」
莱夢はそう言いながら、微笑ましげに笑った。
「で、でも、何故それを?」
対照的に、永輝のほうは少し不安げな顔をしていた。
「えっと、柚愛ちゃんと以前に、永輝くんが美琴ちゃんの彼氏として相応しいかどうかって話をしててね」
「う、うん……」
「そこで、ピープっていう魔法があるんだけど、これは所謂覗見の魔法で、人の記憶や考えてることなんかを見れるの。これを使うと、その人がどんな人か分かるから、打ってつけってわけなの」
「で、でも、あの時は未徠が魔法のかからないようにって」
柚愛があの時言っていた言葉を反芻して、永輝は逃げるように言う。
「未徠がかけたのは攻撃魔法だけを封じるプロテクトだったから、ピープは防げないの。プロテクトって魔法は何かと消費するから、何があるかわからないような遺跡に入る前に、不用意なことはできないでしょ?」
「うん……」
「それで、ピープは魔法の発動に接触が必要で、その触れる範囲が広ければ広いほど、相手のことがよくわかるの。そしたらもう、抱きつくしかないでしょ?」
「えっ! ということは僕は自分をさらけ出していたってこと!?」
永輝は驚きと恥じらいの両方で、顔を赤くしてそう言った。
一方、莱夢は至って冷静で、
「まあそういうことになるかな。でもそれほど気にすることでもないよ。柚愛ちゃんだって、深層心理まで見るようなことはしてないだろうし」
言われて、永輝は黙ることしかできなくなっていた。
「とりあえず、戻してくれるって言うんだからいいんじゃないかな」
「うん……」
「もう、美琴さんは柚愛ちゃんとは大丈夫なのか?」
気配もなしに急に声がしたことに対して二人が振り向いた先には、いつの間にか聖流がいた。
「うん。でも、来る前に一言くらい言ってくれればいいのに」
「そう言われてもな……、何かと動転していて……」
それを聞いて、莱夢は深く溜息を吐いて、
「……とりあえず、私たちは邪魔だろうから、違う場所へ行っておくよ」
「ああ、悪いな」
「いいの、私はいつまでも気にしてる聖流を見ているのが辛いだけだから。別に、聖流のためってわけじゃないからね」
投げやりにそう言う莱夢の言葉のうちに、聖流はかすかな優しさを感じた気がした。
「ああ……」
「美琴ちゃん、少し散歩でもしよう」
莱夢は、声を少し上げて、柚愛と話している美琴に届くように言った。
「あ、はい」
「じゃあ、あとは任せたよ、柚愛ちゃん」
「……うん」
そうして、丘の上には二人っきりとなった。
「こうして、二人っきりになるのも久しぶりかな……」
置かれたベンチの上に座って、柚愛は一言感想を漏らした。
「ああ、そうだな……」
聖流はそれに対して、何故かぶっきらぼうな返事しか返せなかった。
「聖流は、あれからどうしてたの?」
「しばらくは、何もする気が起きなかったな。仕事はそれなりにやってたけど、ノルマをこなせばいいって程度で、それ以上に頑張る気力も起きなかった」
「……その間、私は、恋に走っていた」
「知ってる。だからこそ、この町に来たんだよな?」
「うん。この名も知らない町にね」
「この町はディーティというらしいな」
「そうらしいね」
「……」
そこに少しだけ沈黙という間ができたのが、二人にはよくわかった。
「ところで、タイムリミットのことは知っているよな?」
聖流はその間を振り払うかのように話題を提示した。
柚愛も、それを分かった上で、彼の示した話題を受けて、
「知らずに安易に魔法をかけたりしない。それに、その程度の覚悟は出来ていた」
「人生の折り返し地点で、魔法が使えなくなるということは、余命が分かるということだ」
「うん。少し、魔法使いって立場も疲れてきたから、その時は余生をゆっくりと生きるつもり」
ゆっくりと、どう生きるつもりなのかと、聖流は少し彼女を案じたが表には出そうとしなかった。
「……俺は、あれから莱夢と未徠の助けもあって、無気力を脱した」
「きっと、その間私は世界中を駆け巡って、彼女を探していたと思う」
今ではその彼女に抱きつきながら泣いている自分がいるとは、とても彼には言えなかった。
「うん。そして、ここにいるんだ。俺は、一人の女性と出会って、彼女と一緒にいたいと想い始めた」
「蓮香さん、だったよね」
「そうだな。今は、彼女がいてくれるから、こうしていられる」
「私は、何故か未徠に追われていた。今では、何となくその理由が分かった気がする」
「それは、今でもじゃないか?」
「まあ、そうとも言えるかもしれない……。一度、捕まったし」
聖流は鳥かごの内にいる黒鳥を思い出して、少し胸が痛くなっていた。
「俺は、キミにもう一度逢いたくて、未徠についていくことにした」
「そうだろうと思っていた。それ以外についていくような理由もないもの」
「ああ……、覇権争いが嫌になって街を出た身だから、いまさら未徠の仕事に付き合う理由はなかったしな」
「……こうして、私に会えたけど、これからどうするの?」
「何となく、二人の行く末が気になるから、未徠についていってみることにする」
「私が、愛を戻すだけ。もしかして、それ以外に何かあると思ってる?」
あるとすれば、未徠が為すことだろうと柚愛は思っていた。
これは、これだけは、美空の意に反する限り、止めなくてはならないと。
「美琴さんが、このまま過去を求めずに終わるとは思えないから。記憶を欠いていることには嫌でも気づいているだろうしな」
好奇心と、空白を埋めたくなる衝動が人にはあると、聖流は思っていた。
記憶の空白領域などは、自分のことだからこそ、尚更だと。
「私は、彼女の記憶は戻さないほうがいいと思う。美空と永輝さんが辛くなるだけだから」
そして、私も。
「……それは、美琴さん次第だと思うな」
「うん。でも一応、未徠が何をするつもりか、見ておいたほうがいいと思う」
「未徠は……、キミがしたことを、戻そうとしているだけじゃないのか?」
「いや、多分美琴の記憶を戻そうとしている。美空の気も知らずに」
そして、美琴と永輝さんと私の気も知らずに。
「……そうか。俺はこのまま手伝っていていいのかな」
「わからない。ただ、美琴がどうしたいのか、それによるかもしれない」
叶うなら、彼女には記憶を戻したいと思わないで欲しい。
きっと、その暁には辛いことしか、待っていないと思うから……。
「柚愛ちゃんは、美琴さんに何か昔のことを話したのか?」
「一つだけ。彼女が、前の名前を──美空という名前を知りたがっていたから」
「……記憶が欠けていることも、俺たちがその欠けた記憶の中にいることも、彼女は共に知っているから、そうやって気になるのは仕方がないことかもしれないな」
「うん……」
美空がしたような記憶を消すという方法に欠落があるとするならば、のちの自分がその存在を気にすることだろうと聖流は考える。
それは自分であるはずなのに自分では分からない存在で、人から聞いてもそれを信用することもできず、自分の存在と価値と過去を疑うというスパイラルに陥る罠……。
葛藤と、死活と、不安と、不信と、険悪と、嫌悪と。
それらが、一度に向かう先となって、自分というものが分かるまで襲い来る。
周囲の人にしても、知っているという言葉は何処まで信用していいものか分からないままで、口先だけの台詞ではないかと恐れてしまう。
美琴さんの場合は、覚めて初めて会った人が自分をまったく知らない人で、きっとその人が快くしてくれたから、ああして嫌悪に陥らずに済んでいるのだろう。
しかし、ただ自分の過去が気になることには何も変わりはなく、僕らが彼女に会った時から、一つの手がかりを得たのだと、彼女の中で何かが開けたに違いない。
そうなると、もう僕たちは彼女の前から去るわけにはいかないのだ──。
それは、彼女の希望を失ってしまうことになる。
"カノジョ"は……、それに気がついていたのだろうか。
それでも尚、記憶を消してしまいたかった理由は、何なのだろうか。
「……ねえ、聖流は、もういいの?」
急に少し今までと違った雰囲気で聖流に尋ねる柚愛の声がした。
「いいって、何がだ?」
聖流は、彼女の問いが意図するところが分からず尋ねる。
「私に、もう一度逢いたかったんでしょ?」
「……そうだったな」
少しずつ話題をずらしてきたつもりだったのに、あの時に急に戻された気がして、聖流は口ごもるしかなかった。
「何か、私に話したいことがあったんじゃなかったの?」
「……あるといえば、あるけれど、ないといえば、ない気がする」
ただ、彼女に逢いたかっただけかもしれない。
何処か遠くへ行ってしまいそうな気がしていただけかもしれない。
「聖流、しっかりしてよ。私は今、聖流と話すためにここにいるんだよ?」
思うまま、不確かでまとまりのないまま、その気持ちを言葉という形で実体化してみる。
「ああ……。その、俺は、ただキミに、もう一度だけ逢いたかっただけで」
「なんだか、聖流らしくないよ。あの頃の聖流は、もっと自分から引っ張って行ってくれてたじゃない」
らしくないのはわかっている。
でも、思うような感情は、行動や言葉となっては出て来ることをしなかった。
「そうだな。でも、あの頃の俺もキミも、もうここにはいないだろう?」
それは事実だ──でもだからといって、何の言い訳にもなっていなかった。
「そうだね。あれからもう随分と経ったから。未徠も、もう聖流が私の彼だったとは意識してないんだろうね」
忘れようとしているのかもしれない。
それでも尚追い続けることに、何の意味があるのかもわからない。
「……それでも、俺は、自分の中ではっきりとしたけじめがつけられなくて。いつまでも、よぎるんだ」
「だからといって、私には何もできないよ?」
「ああ……、これは俺の問題だと思ってる」
聖流は青い芝生を見ながら言った。
それは、綺麗に刈り取られたばかりのようで、日の光がキラキラと反射していた。
「聖流、一度ピープを使ってみる?」
それは、一つの賭けだった。
彼が知れば、少しは諦めもつくのではないかと柚愛は思っていた。
「……そうだな」
聖流は、彼女の提案に半ば受動的に了承した。
したかったわけではなく、ただ断わる理由を持ち据えていなかったからだった。
「好き勝手見るなとは言わないけど、自重はしてね」
「ああ……、わかった」
柚愛は、彼が了承するのを受けて、隣に座る彼を柔らかに包んだ。
それは、彼女と彼にとって、何処か懐かしい感覚だった。
「あとは、聖流くんがどうするか、だね」
ディーティの町を歩きながら、莱夢は二人を思って呟く。
「もしかして、昔……?」
美琴の隣を歩く永輝は、莱夢に尋ねる。
「うん、未徠くんは認めてはいなかったけどね」
「えっ、未徠が何故関係あるのです?」
「何故って……、もしかして、二人には未徠くんと柚愛ちゃんが兄妹だって言ってなかった?」
「いえ、聞いたことがありません」
「私も……」
「まあ、兄妹であって兄妹でないようなものかな。柚愛ちゃんはあまり家にいないし、未徠も仕事ばかりだから。ただ、変に妹思いなところはあるけど、柚愛ちゃんがそれに答えているかといったらそうでもないしね」
昔は、柚愛ちゃんもしょっちゅう未徠くんの後をつけていたのにと、莱夢は懐古していた。
「もしかして、未徠がディーティに来たのもそれで?」
「うーん、それもあるけど、それだけじゃないかもしれない。未徠くんも気にしてたから……」
「気にしていたって何を?」
「えっ、あっ……」
莱夢は、どうやら自分で自分の尻尾を踏んでしまったようだった。
「莱夢さん?」
「ごめん、その、以前に私たちが美琴ちゃんのことを知ってるって言ったでしょ?」
「もしかして、美空という人ですか?」
美琴は、知っているその名前を曖昧にされるのが嫌で、敢えて自分からそう言った。
「何故それを……? あっ、もしかして、柚愛ちゃんから聞いたの?」
「はい……。でも、未徠さんには言わないでほしいんです、彼女から聞いたって」
「柚愛ちゃんがそんな口止めするようなことを言ってたの?」
「……私からもお願いします」
永輝は、美琴が柚愛擁護の立場に立ったことに少し複雑な気持ちだった。
美琴とのこういった状況を作ったのは柚愛自身なのに、彼女に同情するのもどうかと思っていた。
しかし、そうあるにも関わらず、永輝は少しばかり柚愛の境遇を気にしていたのだった。
「じゃあ、未徠くんには黙っておくことにするね」
「はい、ありがとうございます」
「いやいや、そんなに大それたことでもないけどね」
苦笑いを含めて、莱夢は美琴にそう言った。
「それで、その美空ちゃんのことを未徠くんが心配していたのもあったから、彼がディーティへ来たんだと思うよ」
「一つ、気になることがあるんですが」
永輝は、急に改まった風にそう言った。
「うん、何?」
「その美空という人も魔法が使えたんですか?」
「……使えたよ」
少しの沈黙を置いて、彼女はそう答えた。
「使えたけど、彼女はあまり使いたがらなかったな。どうしてなのか尋ねても、彼女はそれを言おうとはしなかったけどね」
「と、いうことは美琴も……」
その台詞に、疑問はなかった。
ただ確信しているといった雰囲気に近い言い方だった。
「……」
一方の美琴は、彼がそう言ったことに対して少しだけ目を細めた。
しかしながら、永輝と莱夢はそれには少しも気づかなかった。
「どうだろうね。自分が魔法を使えるかもしれないなんてこと、思ってもいなかったでしょ?」
「えっ……、はい」
「元々魔法が使えていたわけだから、やろうと思えばできるかもしれないけど、そのやり方は忘れてるかもしれないね。どう、試しにやってみる?」
「……はい」
「人にかける魔法はどうなるかわからないから危険だし、今は止めとくけど、飛翔の魔法なら……」
莱夢はそう言ったのち、彼女のほうを向いて、短く言葉を唱えた。
その言葉が終わったと同時に、美琴のいた場所には一羽の綺麗な白色と緑色の鳥がいた。
「シジュウカラだったかな。試しに羽ばたいてみて」
莱夢の言葉を受けて、その四十雀は翼を左右に開いた。
そして、その翼を羽ばたかせたかと思うと、四十雀はゆっくりと宙に浮き上がった。
ちょうど目の高さのあたりで一旦止まったかと思えば、そのまま前へ進んで永輝の肩の上で止まった。
「……」
そうして止まられた永輝は、少し苦い表情をしていた。
「……永輝くんも練習してみる?ちょっと時間かかるけど、やってできないことはないと思うよ?」
「はい……」
「美琴ちゃん、私の肩に来て」
言われて、四十雀は永輝の方から離れて、至ってスムーズに莱夢の方に止まった。
「うん。それじゃ、永輝くん、いくよ」
莱夢が再び先ほどと同じ呪文を唱えると、今度は青色の鳥が現れた。
「ん、永輝くんはオオルリかな。飛べる?」
その大瑠璃は、翼をゆっくりと広げて、それを覚束なく羽ばたかせた。
すると、その体は静かに浮き上がり、五センチほど浮き上がったところで落ちた。
「……まあバランスをとるのが難しいのは確かだから、それは慣れるしかないよ」
大瑠璃は、体勢を立て直して、再び羽ばたいてみた。
そして、ゆっくりと浮き上がった体は、今度は膝ほどの高さまで上がって、また落ちた。
「とりあえず、肩くらいの高さまで上がれるようにならないとね」
莱夢が言う目の前では、大瑠璃が再び飛ぼうとしていたのだった。
聖流には、自分の中に魔法が通過していくことが分かっていた。
了承していなかったから、自分の内側を見せることに反対することもできたのだけれども、彼はそれをしようとはしなかった。
それは、自分が彼女の内面を垣間見ることの代償としてではなく、彼女自身にも自分を知ってもらいたいという単なる欲からだった。
もっとも、そうすることでどういったことが得られるのか、彼にはわからなかった。
ただ、自分を知ってほしいという自己顕示欲に囚われているだけかもしれなかった。
それでも彼は、彼女が同じように魔法を使ったことを快く受け入れていた。
聖流は、自分の心のうちで長く深呼吸をしてから、彼女と同様の魔法を彼女に向けた。
使い始めて、ゆっくりと彼女の感覚・感情・過去が自分の中へと流れ込むような感覚を覚える。
そうして、まるで自分自身の過去を振り返るかのように彼女の過去を顧みる。
そこには、柚愛が聖流と別れた後の記憶があった。
公園のブランコに腰掛けてただ涙する彼女の前に美空が現われて、彼女は事情も聞かずにただこう言う。
" 私でよければ、いつでもあなたの止まり木になるから。いつでも私の元へおいで "
その言葉で、柚愛の心は揺れている。
別れたことへの代償行動ではなく、そこに確かな優しさがあると彼女は思う。
そして、彼女は求められてもいない今の状況を彼女へと話す。
美空はその言葉をただ頷いて聞き、柚愛の話の収拾がつくまで隣のブランコに座っていた。
柚愛が話し終わってしばらく、美空はその場から立ち上がって、ブランコに座りながらすすり泣く柚愛を包み込むようにする。
柚愛はその身を彼女に預けて、腕の中ですっかり安心している。
それでも尚、感情の抑制はならぬまま、彼女は徒に美空の中で泣き続けるのみだった。
聖流は、そこから時間をゆっくりと進める。
そこには、彼の知らない柚愛がいて、彼女の傍にはいつも美空がいた。
美空の隣で微笑ましげに笑う彼女、美空の前で楽しげに話す彼女、美空の後ろで胸躍らせ騒ぐ彼女。
それは、聖流が見たようで見ていなかった彼女の表情で、自分の知る彼女よりもより輝いて見えていた。
「……やっぱり、こういうのは恥ずかしい。想われている自分を見るなんて」
自分に向けられた台詞かどうかはっきりしない言葉に、彼は何も返さなかった。
それから間が多少あって、
「聖流は、別れたあの時と何も変わってない。蓮香さんに出逢って、彼女を想う気持ちがあっても、それは私に向けられたものとは別物だと思ってる」
「……そうかもしれないな」
「いや、そうなの」
曖昧に返事を返した聖流に、柚愛は少し厳しい口調で肯定の意を向けた。
「私もそんな感覚に覚えがある。美空に恋心を求めるようなことは、自分でもありえないと思っていたから、それは聖流に向けられて残っていた感情とは別物だと思ってた。でも彼女に確かなものを認めたとき、同じ感情だって気がついたの。……聖流がどう思うか分からないけど、それだけは確かなことだから」
「もしかして、俺は逃げているのかな」
自問自答をする聖流の問いに、柚愛からは何も答えがなかった。
ただ、聖流のうちには相変わらず魔法の入り込む感覚だけが流れ続けていた。
「蓮香さんって、聖流に勿体ないくらいいい人だね」
「……彼女が、そうやっていい人だから、俺は未だにこんな状態の自分に引け目を感じる」
「そう考えるのは、分からなくもないけど……。彼女も薄々気がついてるように見える。私は、しばらく彼女に会わないほうがいいかもしれない」
「気がついてる?彼女が?」
「うん……、私にはそう見えるよ。女の勘ってやつかな。きっと聖流の細かい動作とかに出てるんだよ」
「……そうか」
聖流は、勿論そんなつもりではなかったけれども。
「でも、わざとらしく振舞ったりすると、余計に怪しまれるからね?自然体でいればいいの。ありのままの聖流でいれば」
言われて、聖流は柚愛が自分と付き合っている頃の記憶──そこには、柚愛に映る"ありのまま"の自分がいただろうと彼は思う──を垣間見ることの決心をした。
それを見て、彼女をより愛しく感じるかもしれない。
それでも、彼は自分がその領域を避けていることが嫌だった。
逃げているだけでは何も始まらないのだと、そう思っていた。
彼は、記憶の時間を次第に戻していった。
そこには、あの頃の自分とあの頃の柚愛が自分の部屋にいた。
一方、柚愛は聖流と蓮香の様子を見ていた。
彼女に対する彼の行動とその行動に対する彼女の反応を窺う。
そこにある関連性と、彼女の行動の帰結する感情を読む。
そうして、聖流の、蓮香との関係における位置を探っていた。
柚愛は、彼に蓮香と別れてほしいわけでも、自分を忘れて欲しいわけでもなかった。
それどころか、こうして相変わらず自分に固執している聖流のことを少し愛らしくも感じていた。
それは、恋愛感情ではなく、年上であるはずの彼に向けられた母性本能とでもいうのだろうか。
基、彼が蓮香という女性と別れてしまうようなことになると、自分が少し負い目を感じることを予期していた。
他方、自分を忘れるようなことになると、自分が僅かながら寂しさを感じる気がしていた。
どういった状況が理想的かとなると、彼とは旧仲として友達、そして幼馴染という関係であり続けることだった。
きっと彼もそれを望んでいるであろうと、彼の記憶を垣間見て彼へのアドバイスを探していた。
そんな折、彼は急に軽く呻き声をあげて、力を抜かれたかのようにぐたっとした。
「だから、自重してと頼んだのに。もう……」
柚愛は頬を赤く染めながらそう言って、自分にもたれかかる彼を少し起こした。
「……聖流?聖流?」
軽く揺すって呼びかけても彼からは何の反応もなく、その瞼を閉じたままだった。
「はあ……」
溜息を一つ吐いて、彼女は再び聖流の中を覗き見るのだった。
一方莱夢は、相変わらず浮こうとしている大瑠璃を前に、元に戻った美琴と話していた。
「記憶を消す魔法をメモリーレスっていうんだけど、美空ちゃんはそれを自分に使ったの。理由はわからない。誰にも心当たりがなかったし、彼女は何も残していかなかったからね」
「はい」
「そして、記憶がなくなった後の姿が美琴ちゃんってわけなんだけど、永輝くんがいたおかげで、記憶がなくてもそうしていられるんだと思うよ。普通は、記憶がないとなると不安で不安で仕方がないのだろうだけどね」
「不安は、ないわけでもないですが……」
「でも、四六時中悩まされるようなものでもないでしょ?」
「はい……、ぼうっとしている時、たまに感じるくらいです」
「周りに自分を知っている人がいると、その不安っていうものに陥る可能性が高いみたい。過去のその人との関係性を疑って止まなくなるのだと思うよ」
「美空という人と、莱夢さんとはどういった関係だったんですか?」
美琴の口からは自然とその質問が出た。
でも、名前が違うからか、美琴にはそれが自分のことのように思えていなかった。
「私は少なくとも仲のいい友達だと思ってたよ。でも、誤解しないでね?別に美琴ちゃんと美空ちゃんを比べてみているわけでも、無理に重ねてみているわけでもないから。少なくとも今は別人だと思ってるよ」
「他の三人は、どうなんでしょうか?」
「……あんまり、気にしすぎると深みに入るから気をつけたほうがいいよ。抜けるのも大変だからね」
「はい、すいません……」
「いや、謝られても困るんだけどね……」
そう言いながら、莱夢は髪を軽くなでた。
「そうだ、昨日美琴ちゃんに渡した本があるでしょ?あれは、その美空ちゃんのものなの」
「えっ……」
「いうなれば、本人に返したってところなんだろうけど、私には何か違う気がするよ……」
言われて、美琴は背負うリュックに気をかける。
「美空さんの本……」
「うん。たまたま、彼女が持っていたことを私が覚えていたってだけなんだけどね」
「……そうですか」
「あんまり深く考えても仕方ないよ?そればかりは、思い出そうとしても絶対に思い出せないから……」
「何か、元へ戻す方法はないのですか?」
彼女のそのセリフで、いままで飛ぼうと必死だった大瑠璃は、その動きを制止して美琴を見た。
「えっ……、ないこともないけど……」
莱夢は、そこまで言って口ごもり、あとの言葉を続けることを躊躇った。
今、彼女に戻す方法を教えると、それは未徠の行動に繋がっていきそうな気がしていた。
彼女は困ってふと目の前の大瑠璃を見ると、彼と目が合った。
「……」
大瑠璃は何も言わなかったが、ただ莱夢のほうを見つめていた。
「……そうだね」
何かを察したかのようにそう呟いた莱夢は、短い文語を唱えた。
唱え終わると同時に、大瑠璃は永輝へと姿を変えていた。
「美琴、記憶を戻すなんて、その後残された僕はどうなるんだ?」
「ごめんなさい……。でも、美空さんがどういう人だったのか、気になって……」
「それは、僕も気になるけど、でも……」
「美琴ちゃん、記憶を戻したとしても、その時同じように永輝くんを想えるとは限らないんだよ?今は、ただでさえ柚愛ちゃんにその感情を封じられているのに。それに、美空ちゃんは……」
莱夢は、そこまで言ってまた口ごもり、それから静かに瞼を閉じた。
「莱夢さん……?」
永輝に問われて、莱夢は静かに目を開けた。
「ううん……、その、ごめんなさい、なんでもないの。とにかく、記憶を戻すのは止めたほうがいいよ。彼女が──美空ちゃんが、自分で記憶を消すという道を選んだのだから」
「……はい」
「美琴、もし、その美空さんに好きな人がいたとしても、記憶が戻った時にまた僕といてくれると言える?」
「えっ……」
言われて、美琴はその言葉の意味がわからなかった。
家族のようなものだと言われたものが、何故美空さんの"スキナヒト"と関係があるというのだろうか。
それに、"スキナヒト"とは、何なのだろうか……。
「ごめん……。今のキミに言っても、あの魔法があるから、わからないんだね……」
美琴にはただ、そう言う永輝が悲しそうな表情をしていたことしかわからなかった。
「ん……、俺は、あれから……」
呟き、自分が柚愛に体を預けていることに気がついて、やっと今の状況を把握した。
「だから、自重してって言ったでしょ?それなのに……」
言いながら、柚愛はこれまでになく頬を赤らめていたが、聖流にはそれが見えるはずもなかった。
「ごめん……、見始めると目が離せなくなって……」
「それって、ずっと見ていたってことじゃない……。もう……」
そうして、軽い溜息を吐いた後、彼を自分から離した。
「今日はこれまでね。もう、なんだか気分が乗らないよ」
「ごめん……」
「いいの、気にしないで。それじゃあ、もう行くよ。三人によろしく言っといてね」
「うん、また……」
聖流が言い終わるか終わらないかのうちに、柚愛はその場からいなくなっていた。
「俺は、あの時、彼女と永遠を約束していたのか……」
呟かれる空間には、聖流以外誰一人としていなかったのだった。

←…14th  16th…→

タイトル
小説
トップ