The 10th story 柚愛の想い《その1》

「あれから、一年も経っているなんて思えないよね」
ぼんやりと窓の外を眺めながら呟く莱夢の声は、柚愛に答えを求めていたのだろうか。
ただ、彼女が何も言わなかったことに対して、莱夢がなんら異議を唱えなかったことは確かだった。
「こうやってお風呂に浸かると、あの頃、三人で入ったことを思い出すよ」
莱夢が懐古して呟くのを聞いて、柚愛は顔を半分湯に沈めた。
音のよく響くそこに、泡が生まれ消えていく音が響いていた。
「今は、いい思い出かな……。もう、あの時は帰ってはこないしね」
「それが"カノジョ"の選んだ道ならば、我はそれに従わん……」
僅かに水面から出した口から、柚愛は硬いセリフを吐いた。
村咲 邦春の"君が故郷"の一節の?」
「本当は"彼"だけど。なんとなく、イメージにぴったりだったから」
柚愛はそう言ってから、再び顔を湯に沈めて音を響かせた。
「……永輝くんの元が、彼女にとってトニルだとするなら、それを受け止めるのが筋だと思うよ」
「うん。彼がそれなりの器なら、何も異論はない」
「それなら大丈夫だと思うよ。彼ならきっと、任せられる」
未だ会って一日と経っていない状況でこう述べる莱夢の言葉に、何ら根拠はなかった。
ただ、少しでも早く二人が元に戻れればと思うが故の言葉だった。
「もう、"カノジョ"のことは永輝さんに?」
「それが、未徠くんに口止めされてるから、何も」
そう言って、莱夢は深い溜息を吐いた。
「未徠は、一体何を考えているんだろう……」
「えっ?」
「いや、なんでもない……。それより、私はそろそろ上がるね」
タオルを巻き、柚愛は一人お風呂から立ち上がる。
莱夢の前にはそんな彼女の背中があった。
「う、うん……」
莱夢は、お風呂から上がる彼女の後姿に微かな淋しさのようなものを感じた気がしていた。
「……未徠は、どうして"カノジョ"の記憶を危険を冒してまで戻したいのだろう」
"ハイド"をかけた柚愛は、彼らの泊まる部屋の窓が見える木に腰掛けて、一人呟いた。
「未徠と"カノジョ"は、ただ、幼馴染であったというだけのはず……。そして、私が"カノジョ"とどうあったかなんて、未徠は少しも知るはずがない……。それなのに、何故……?」
美琴にあの魔法をかける以前の柚愛は、"カノジョ"に対する復讐心ばかりがその心にあった。
一矢を報いてやりたいという気持ちばかりが増し、突然消えた彼女に再び会いたいとは思わなかった。
あの公園で久しぶりに彼女に会った時も、記憶の所在が分からないことに対して何の気持ちも抱かなかった。
ただ、魔法をかけることができたという達成感ばかりに囚われ、美琴のことなどは考えていなかった。
しかし、その美琴に永輝の存在があることで、彼女の気持ちも動いたかのように思われた。
「それに"カノジョ"も、どうして急に記憶を消してまで、私の前から消えたのだろう……」
柚愛は知らない。
その理由が彼女自身と兄の未徠にあるということを……。
「流石に、二度もお風呂に入ると疲れるよ……」
風呂から上がってきた莱夢は、そう言いながら部屋へと戻ってきた。
「大丈夫でしたか?」「あれから、お風呂に入ってたんですか?」
ベッドに腰掛ける二人は、莱夢に驚き半分でそう尋ねた。
「うん、お風呂なら誰も来れないだろうってことだと思うけど。……そういや、未徠くんは?」
莱夢は、二人が腰掛けているのとは向かいのベッドの上で寝ている聖流を見て言った。
「そう言えば、風呂で会ったきり、何処へ行ったのかは……」
言われてやっと彼の所在が分からないことに気がついたらしい永輝は続けて、
「それより、あれからどうなったのです?」
「柚愛ちゃんと?お風呂に浸かりながら、"君が故郷"の話をしてて……」
「それだけですか!?」
迫り訊く永輝に対して、莱夢は何かを思い出したかのように、
「えっ……。ああ、永輝くんは、何もそんなに逸ることはないよ。時間はあるんだから。ね?」
「確かに、そうですが……。でも……」
「大丈夫。私を信じて」
きっと、きっと彼女なら、あの時が来るまでに解いてくれるから……。
そう心のうちで唱えながら、莱夢は静かに言うのだった。
それから、数分後。
相変わらず未徠は帰ってきてはいなかったのだけれども、三人はそれが未徠であるからさほど心配していなかった。
彼なら、今頃どこかで平然としているだろうと、三人は三人ともそう考えていた。
「莱夢さん、"君が故郷"ってあの村咲邦春の?」
永輝の向こう側に座る美琴は、先ほど出た名前を尋ねた。
一方の永輝は、それを聞いて少し驚いたようだった。
「うん、三年位前に流行った本だけど……。知ってるの?」
「はい。図書館で借りたことがあって」
「ああ、図書館って手があったか……」
永輝は一人、なにやら納得した風にそう呟いた。
「永輝くん、どうかしたの?」
「どうして美琴が三年前の既に廃刊になってしまった本を、知っているのかと思って……」
「えっ、あの本って、もう廃刊になってるの?」
美琴は永輝の言葉に驚いて自ずと聞き返していた。
まさかそんなことになっていようとは、思ってもみなかったのだろう。
「うん、二年前に。売れ行きはよかったんだけど、出版会社が不祥事でつぶれたから……」
「そう……。今度買って、持っておこうと思ったのに」
残念そうに言う美琴を見て、莱夢は何か思い出したらしく、
「ああ、そういえば、"カノジョ"も買っていたはず。ちょっと待っててね」
そう言うと、莱夢は軽く手を振って、その場から静かに消えた。
「"カノジョ"って……?」
永輝は、残された言葉に思い浮かばない人物を見て、自然と問うていた。
「ん……」
一方、未徠はあれから寝てしまっていた。
本人はそれを相当不覚だと思っているが、他の五人からは大して心配されていないのが悲しい。
彼がその重いまぶたをゆっくりと開けると、目の前にはあの鳥かごが置いてあった。
この町に入った時に、あえて買ってきたものであるのだけれども、その有効性については乏しいかと思われた。
購入の目的としていた彼女の捕縛も、未徠の打算的な意見によって失敗に終わっていた。
「……」
彼は視界に鳥かごを捉え、それを持って少し考えると、それをその場から消した。
正確には、自分のアーチェでの家へとトランスで転移させた。
そしてベッドから起き上がり、軽く部屋の外を眺めた後、部屋から出た。
廊下は整然としていて、誰一人として歩いてはいなかった。
部屋の扉は全て閉ざされ、そこからは人の気配を感じさせなかった。
未徠は、そんな空間を自らの宿泊予定の部屋の前へと歩んだ。
「誰のことなんだろう……」
「さあ……」
勿論、美琴がその答えを知るはずのなく、問われども相槌を打つ他なかった。
「知りたい?」
そんな二人の前に、いつの間にか柚愛がいた。
「えっ……」
その存在に気づいた二人の時間が、ほんのしばらくの間止まった。
「"カノジョ"っていうのは、私の幼馴染で、未徠や莱夢、それから、聖流ともそう」
求められてもいない答えを述べて、柚愛は近くの椅子へと座った。
「そんなことより、早く美琴の魔法を解けよ」
永輝は柚愛の前でいきり立ち、彼女を見下ろしてそう叫んだ。
一方の美琴は、突然現われた彼女を多少の恐れと共に興味深そうに見ていた。
「……ごめんなさい。今はできない。もう少し、時間が欲しい」
椅子に座ったまま、柚愛は少しだけ永輝に頭を下げてそう言った。
「時間?」
「うん……。まだ、面影が重なって見えるから」
「面影って、誰のだよ?」
「柚愛、性懲りもなく、また彼女の前へ来たのか」
扉の開く音がしたかと思えば、入り口のところには未徠がいた。
柚愛は彼を一瞥すると、永輝のほうへと向き直り、続けて、
「もう、ここには居れない。でも、永輝さんには話したいことがあるから、また、何処かで会えればそのときに」
そう言って、再び音もなくその場から消えた。

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