The 8th story 未徠と黒鳥《その1》

「……夢、なのかな?」
感覚の麻痺した動的な世界で、柚愛は自らの思考の中にそんな考えが浮かんだ。
目の前には"カノジョ"がいて、彼女の家の一室で、話している光景が過(よ)ぎる。
もう、"カノジョ"はいないのだから……、これはきっと、夢なのだろう。
でも……、夢なら、覚めないでほしい。
彼女に会えるのは、ここぐらいだから……。
「ん……」
目が覚めると、そこはゲージの中だった。
止まり木が一本ある、至って普通の鳥かご。
それが置かれている環境に目をやると、どうやらそこは宿屋の一室のようだった。
「あれから、どう……?」
顧みるに、彼らの上を飛んでいたところまでは覚えていた。
そうしたら、急に眠くなってきて……と、そこで記憶は途切れていた。
スリープ……か。ということは、私は迂闊にもテキに捕まったのか……」
本人には、自分がどこか抜けているという自覚がなかった。
もっともその性格のおかげで、未徠が、彼女に対して敵対心をむき出しにできていない。
いや、理由は勿論それだけでなくて、妹であることも含まれているけれども。
彼女がそんな調子なのだから、兄も彼女を放ってはおけないらしく、意外に世話を焼いてしまっていたりする。
……それも、本人にはまるで自覚というものがないのだけども、莱夢には見抜かれている。
あの茶屋で、未徠が否定できなかったのもそのためだった。
「囚われの身、か……」
彼女がそう鳴く部屋には、誰もいなかった。
その空間は不思議なくらい静かで、彼らの所在はまるでつかめそうになかった。
彼女は、サモンで召した鳥に任せておけばよかったと今更ながらに思っていた。
魔法の発現ができないようにプロテクトのかかった鳥かごの中で。
「旅館は温泉、か……」
彼女がそう呟く風呂には、美琴がいた。
「温泉に入れるくらいの、旅費があればいいのですが……」
ある程度の広さのあるお風呂の中で、二人は旅館より広く、効能のある温泉に憧れていた。
「……やっぱり、贅沢は言えないね。本当はトランスがあるから、お風呂も自分の家に帰ればいいんだけど、スリープが解けるまで待つ間暇だから、こうしてるんだしね」
旅のはずなのに、まるで泊まる必要性がなく、ただ行ったことのない場所へと行けばいいだけ。
美琴は、思いのほか簡略的なこの旅に、自分の命運がかかっているとはとても思えなかった。
一方の莱夢は、温泉に浸かる美琴をぼんやりと眺めながら、昔歳(せきさい)の日々を懐かしんでいた。
あの頃も、こうやってお風呂に入ったな、と……。
「旅行は温泉、か……」
彼がそう呟く風呂には、未徠と永輝がいた。
「あの頃は、よかったな……」
何を捉えているか分からないようなぼんやりとした表情で、聖流は呟いていた。
「あの頃って、もしや……」
一方の未徠は、その目に聖流の姿を捉えてそう言ったものの、彼には聖流が彼の言った言葉を聞いていないことがあからさまにわかっていた。
「思い出すくらいなら、やはり来ないほうがよかったか?」
無駄だと思いつつも、未徠はそう尋ねてみる。
それに対して、聖流からはまるで当然のことのようにその返事はなく、彼はぼんやりと虚空を見ていた。
「今の彼女のことを、忘れるようなことはないな?」
その問いにも、依然として聖流の返答はなかった。
「……何を言っても無駄と言うやつか」
未徠はそう言って、傍らに置いたタオルを持って一人風呂を出て行った。
「……聖流さん?」
永輝がその名前を呼んでみるも、当の本人からは何の返答もなかった。
「未徠……」
黒鳥は、鳥かごの中で目の前にした兄の名を呼んだ。
「やっと、目が覚めたか」
兄はそう言って、鳥かごをゆっくりと開け、中から黒鳥を取り出そうとした。
しかし、かごに手をかけたところではたと止まり、何を思ったのか急に鳥かごを持ちあげた。
「!?」
黒鳥は、予想もしない未徠の行動に対して反応しきれずに、止まり木から落ちた。
それから未徠は、そのまま部屋を出て右へと折れ、誰もいない部屋を見つけるとその中へと入っていった。
これ以上、こんな状態を続けていくことは、とてもできそうにないと、"カノジョ"は思っていた。
それは、あの人の彼女を想う気持ちを、うっすらと感じていたからだった。
それは、あの人の彼女を想う気持ちを、しっかりと感じていたからだった。
どちらも自分にとって大切で、どちらも自分にとって邪魔だった。
どちらへと傾くか、その葛藤の結果としてとった防衛反応は、逃避。
自分自身の境遇から、自分自身を逃げさせる、唯一で最良の方法だと彼女は思っていた。
でも、その行動があの二人を新たな方向へと駆り立てていた。
今の彼女には、それがどういった結果をもたらしたのか、知る術は何もない。
風呂からあがった二人は、男湯の前を通って、取った部屋へと戻る。
「いいお風呂だったよね」
「はい」
「温泉じゃなくても、やっぱりお風呂って上がり心地がいいよ」
抑揚の気持ちを込めた莱夢の声は、実に気分がよさそうだった。
「お風呂ってこの感覚が醍醐味なのよね」
そう言って、莱夢は軽く伸びをして、部屋に備え付けられているベッドの上へと寝転がる。
「えっ……」
「ん、どうかしたの?」
莱夢は、美琴の声に反応して、頭を軽く上げて美琴のほうをうかがった。
「あの鳥かごが、ないんです……」

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