The 3rd story いざ参る!《その2》

翌朝。
美琴は、未徠のベッドの上で目覚めた。
ベッドの隣の床の上には、昨日未徠が寝ていた布団がそのままの形で、中に入っていたはずの未徠だけがいない状態で置いてあった。
「未徠さん……」
抜け殻を見て、美琴は自ずとそう呟いた。
その声を聞いてか聞かずか、未徠は部屋へと戻ってきて、美琴に向かって尋ねた。
「そろそろ、家へ帰るか?もうあいつも──柚愛も、来ないだろうから」
彼がそう言うのも確信があった。
彼は柚愛の目的はあれで十分果たされていると思っていた。
それに、あれだけの魔法を使えば、今日また現われたとしても彼女には魔法をかけるほどの余力さえも残っていないだろう、とも。
もう一度現われたところで、彼女には何の大それたことはできないはずだった。
「……もし、また来た時は、どうすればいいですか?」
未徠には、それは恐怖心を伴った切なる願いに聞こえた。
美琴には、柚愛に何をされたのかは分からなくとも、何かをされたことは分かっていたのだろう。
「そのときは、俺が守るから」
彼は、ベッドに座る美琴に正面から向き合って、義務感における誠意を込めてそう言った。
それこそが、未徠がここにいる所以であり、その意味でもあった。
故郷アーチェから、遠く離れたこのディーティに来ている、その理由だった。
「は、はい……」
未徠は、過去の美琴と柚愛に何があったのかを知らない。
ただ、未徠は柚愛から美琴を守るためにこのディーティにある種の仕事として来ていたのだった。
もっとも、仕事でなくとも未徠はここにこうやって来たかもしれない。
今はなき"カノジョ"への恩赦と、柚愛のしたことへのせめてもの償いのために。
"カノジョ"が"メモリーレス"で自らの記憶を消したのも、きっと柚愛のせいだろう。
そう踏んでいる彼にとって、美琴を守ることは、大いに意味があった。
美琴は不安ながらも自分のあるべき家へと帰っていた。
外で鳥の鳴き声がしている最中、彼女は自らのベッドの上で一人考えていた。
確かに、あの人が……、柚愛と呼ばれた人物が、また自分のところへ来ることに対して恐れてはいた。
しかしそれよりも、彼女には"大森 永輝"の存在が、彼とは彼女にとって何なのかが、気になって仕方なかった。
彼のことを考えると、何かむしゃくしゃするような腹が立つような煮え返るような打ちひしがれるような、形容しがたい気持ちになる。
それに対して何かしっくりとくるいい言葉があった気がするのに、それが思い浮かばない自分を腹ただしく感じる。
彼に初めて会ったとき、言いようのない深い感動を覚えた気がする。
そして、その状況を表す言葉もあった気がするのに、それが一体なんだったのか、彼女には思い出せなかった。
それが、発散のしようもない気持ちで、深く深く耐え難い心情だとおぼろげながら感じていた。
彼女はベッドの傍に立てられた写真立てを静かに手に取った。
そこには自らの姿と一人の男の姿が映し出されていて、二人は楽しそうに笑っていた。
それは、確か人で花見に行った日の帰り際で、通りすがりの人に撮ってもらったものだ。
でも、何故その写真に二人で写っているのか、何故その花見に二人で行っているのか、その理由が思い当たらなかった。
どうしてあの時、あの場所へ、花見として永輝と一緒に行ったのだろうか。
思い出そうにも思い出せず、彼と行った理由も、彼と交わした言葉も、何も浮かばなかった。
ただ、彼とは関係のない、写真を持ってもらった人のことは明確に覚えていて、確か女性の人組で、片方はポシェットを肩からかけていて、もう片方は首からカメラをぶら下げていた。
人のことは、顔も浮かんでくるのに、永輝のことは……、昨日も会った気がするのに、そこでどんな話をしたのだとか、何も思い出すことができなかった。
昨日のことだから、覚えていて当然のはずなのに、それを微塵も思い出せず、思い出そうとしてもただただ浮かばないことに対して苦悩を強いるだけだった。
何か大切なことがあった気がするのに、それが一体なんなのか。
昨日の晩、あの人と会う前の……、ベンチに腰掛けている時にはしっかりとそれを思えていた記憶があるのに、あの呪縛のような感覚の後は、何か大切なことがあったという感覚のみが残っていて、それが何であったかはすっかり忘れているようだった。
何故忘れているのか、覚えているはずの昨日のことさえ思い浮かばないのは何故か、彼は私にとって何なのか、私は彼にとって何なのか……。
彼は一体誰なのか、あの花見に人で行った理由は何なのか、そこで一体どんなことを喋ったのか、彼と初めて会ったときの深い感動は一体何なのか……。
そんなことが、何も思い出せなかった。
それは彼女をベッドの上で一人困惑させ、ただただ悩ませた。
その頃、あの公園では一人の男がある人を待ち続けていた。
ベンチに座り、ぼんやりと水面(みなも)を見ながら、その人の到着を待っていた。
ただ約束の時間はとっくに過ぎていて、その彼女の到着の遅延が彼を余計に緊張させていた。
彼が水面に飽きて穏やかな風に揺れる木々を見ながらぼんやりとしていると、その目前を約束の人が通り過ぎていくのが見えた。
永輝は、その想い人に向けて、
「美琴!」
名前を呼びかけてみると、彼女は彼の方を見た。
「永輝さん……?」
何故かその声は余所余所しく、普段なら呼び捨てで呼んでいる名前さえも"さん"づけで呼んでいたことに、永輝は些か疑問を覚えていた。
一方の美琴は、"あのベンチの下へいけば何か思い出すかもしれない"と思って恐る恐るここへ来ただけで、まさかここにあの自分を悩ます永輝がいるとは思っていなかったので、少し驚いていた。
それと同時に、彼の姿を捉えて少し安心している自分がいて、その感情の原因がわからない美琴にとっては、やはり彼のことを怪しまずにはいられなかった。
その後、彼女は自らのうちから名も分からぬ感情が湧いてきていることに妙な不安感を覚えて、その場から動けなかった。
永輝は、その場から動く気配を見せない彼女を変に思いながらも、座っていたベンチから立ち上がって、彼女の元へと歩を進めていった。
美琴は近づいてくる彼に少し威圧感と恐怖感を感じてはいたけれども、何故か後ずさりするにもできず、こちらへ向かってくる彼を拒むこともできなかった。
彼女としては、永輝は……、何かよくわからない感情の起因者であって、何故か大切な人で、自分の記憶の中に幾度となく現われるのにそのときに何を話していたのか分からない人で。
本当はよく知っているはずなのに何も知らない彼の存在は、彼女にとって謎そのものだった。
そんな美琴の思うことなどいざ知らず、永輝は彼女の背に回って、
「そんなところに立ってないで……」
などと言いつつ、彼女を先ほど自らが座っていたベンチのほうへと誘導して行った。
彼女はその勧められたベンチに遠慮がちに座って、同時にその隣へと座った永輝をまじまじと見つめた。
この男性が、何故かよくわからなくも大切な人で、自身を惑わす原因……。
彼は一体、なんだというのだろうか。
ごく普通の顔立ちをしていて、二重瞼で、鼻筋が通っていて、髪形をどちらかというとラフに決めている彼。
その人が、何故私にとって大切な人だと思えているのだろうか……、などと思いながら。

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