三章 - 橙

翌日の夕方。露店が並び、ちらほらと明りもつき始めてきた頃。
お兄さんと何処で待ち合わせるだとかゆうような約束をしてなかったさかい、うちは恐らく祭りに来るんやったら訪れるやろう鳥居の根にもたれながら待っとった。
納涼祭は毎年、この神社の境内と神社の前の通りで行われとる。
さほど大きくもない田舎町の祭りやさかい、歩いとってもなんや見知ったような顔によう出会うんやけど、物心ついてからは一応毎年来とる。
何があるっちゅうわけでもない、この辺の地区の自治会の人らがほどほどに出店(でみせ)しとるっちゅうだけやけど、ほんわかと温こうて居心地がええとこやった。
ちなみに、浴衣やけんど、一昨年に買ったものやさかい、いつの間にか着れんなっとった。やからいうて、これは捨てられるもんとちゃうけんど。
今から新しいのを買いにいくゆうようなこともでけへんし、惜しいけんど、淡く白い薄手のワンピースでちょっとおめかしして来とる。
ええくらいの時間になったんかしらんけど、人がぼちぼち集まるようになってきとって、そんなかにお兄さんがいいひんか探してみる。
二、三分くらいそないしとったら、前の通りを薄いグレーのポロシャツに淡い紺のジーンズっちゅう昨日とあんまし代わり映えのせえへん姿のお兄さんが、きょろきょろしながら歩いてきやはった。ほれが一人きりやって、なんやほっとした。
見かけて名前呼ぼう思たんやけど、よう考えたらまだ名前さえ知らんかったんや、当然呼べるはずもなかった。
しゃあないし、お兄さんに向かって手振っとると、お兄さんがこっちを見たときに気がつかはって、手振り返してくれやはった。
なんやそれが嬉しいて、少し駆け足でお兄さんの下へと寄った。
「こんばんは」
昨日はベンチに座っとってよう分からんかったけど、見上げたお兄さんは思いの他高かった。
ほれがまた、彷彿とさせるのは、しゃあないことかもしれへん。
「うん。待っとった?」
「いんや、今来たとこやで」
「ほうか、ほりゃよかった。場所も時間も言うてへんかったから、どないしよ思て」
「ほれはほのうちが、あ、あないして帰った、さかい……」
言うてて思い出してもたさかい恥ずかしなって、だんだんと声が小そうなっとった。
なんやねん、ほんまにあのときなんで起きたっちゅうのにまだ膝の上で寝とったんやろ。
ほしたら目合うことも驚いて座ることも恥ずかしなって走って帰ることもなかったやろに。
ああ、また余計なこと思い出してもたやん……。
「ん?どうかしたん?」
どうかしたんて言われてもなあ、その……。
「あっ、そうや、これ返しとくで」
お兄さんはほう言うてうちの頭の上にポンと麦藁帽子を乗せやはった。
なんや、余計、恥ずかしなるやないか……。

昨日はあんな目に遭ったものだから(もっともおかげで彼女に会えたのだが)、今日は頑張って自転車を奥から引っ張り出してきた。
もう少しみんなが奇麗に置けばと思うのだけども、姉貴曰く、"前からこんな状態だから言っても無駄だろ"だそうだ。
要するに諦めろと。それではため息しか出ない。
ともかく、やっとのことで引っ張り出した自転車に乗って、祭りの行われる手前くらいまで来て、そこへ駐輪しておいた。
露店の立ち並ぶ通りを歩きつつ彼女がいないか探し回っていると、鳥居のふもとにこちらへ手を振っている淡い菜の花色のワンピースを着た女の子がいた。
俺が彼女へ手を振り返すと、彼女は嬉しそうな顔をしてこちらへと駆けて来た。
「こんばんは」
「うん。待っとった?」
「いんや、今来たとこやで」
「ほうか、ほりゃよかった。場所も時間も言うてへんかったから、どないしよ思て」
「ほれはほの、うちが、あ、あないして帰った…、さかい…」
弾んだように言い出して、まるでその後そのボールが地面に転がって行く様に萎縮していった。
そうして彼女は俯いてしまって、ここからではちっとも表情が見えなくなってしまった。
「ん?どうかしたん?」
彼女はその言葉にちょっとだけ顔を上げて再び俯いてしまった。
心なしか、ほんのりと上気していた気もする。
もしかして、緊張しているのだろうか。とはいえ、さっきはすんなりと話していたのに。
「あっ、ほうや、これ返しとくで」
麦藁帽子を持ってきていたことを思い出して、彼女の頭の上にそれを乗せてあげる。
こう見ると、やっぱりよく似合っている。もっとも、すっかり顔は見えなくなってしまったが。
「せっかく来たんやし、色んなとこ回りたいと思うとるんやけど、どっか行きたいとこある?」
依然どんな表情をしているのかよく分からないまま、彼女にそう聞いてみる。
彼女はそれに対し、少しだけ顔を上げたようにみえたが、やはり表情は見えなかった。
その時、祭りの喧騒の中、彼女の声を聞いたような気がして訊き返す。
「ん?」
そう言ってから、しばし間があって、
「……どこでも、ええよ」
と、彼女は小さく答えた。
どこでもいい、か。
う〜ん、どうしたものか……。

「せっかく来たんやし、色んなとこ回りたいと思うとるんやけど、どっか行きたいとこある?」
お兄さんにほない言われて、顔上げよ思たんやけど、やっぱり無理やった。
未だ着てはるシャツの襟元さえ見ることが叶わんかって、なんや歯痒い。
何か恥ずかしいんや、あの顔を見んのが……。
「ほの……」
せめて返事だけはしよと思たんやけど、ほれでさえ小声になってしもうてた。
「ん?」
昨日といい今日といい、なんや妙にお兄さんのことを意識しとる。
下手に意識したかて、何もええことはあらへんっちゅうことは分かっとるはずやのに。
せやかて、止まんもんは止まんのや、しゃあないやないか……。
「……どこでも、ええよ」
ほして、どっから行くかさえ決められへんかった。
ほれだけを言うので、精一杯やったんや。
「ん〜、とりあえず、歩こか」
結局、お兄さんを困らせてしもとる。
こんなんやったらあかんてわかっとるんやけど、なあ……。

仕方がないので、境内の中をのらりくらりと歩いていた。
彼女は殆ど喋ることがなかったが、俺が歩く後をちゃんとついてきていて眺めるものも同じように眺めていた。
ある程度歩いたところにあったりんご飴屋の前で、彼女が何やら欲しそうに見ていたので、持って来ていた財布からお金を出して、りんご飴を二つ受け取った。
彼女は一連の動作を見ていたようで──"ようで"というのもやはり表情が見えなかったのだ──、俺が手渡すと小さくこくんと頷いてそれを受け取った。
その時に麦藁帽子の下から微かに覗いた口元の表情が嬉しそうだったので、俺はほっとした。
別に怒っているわけではないらしい。楽しむところは、楽しんでいるようだった。
それから二人して備え付けてあった木のベンチに腰掛けて、りんご飴を齧りながら祭りの賑わいを言葉を交わすことなく眺めていると、その視界の中に見知った顔を見た。
他でもない、姉貴である。
しかも何処にしまってあったのか知らないが、黄色い花柄の浴衣を着ていた。
そのまま通り過ぎてくれればと思ったのだが、向こうも俺を見つけたのか、
「おっ、翔じゃん、こんなとこにいたのか」
と、よりにもよって絡んできた。
「一人で先に行くからどうしたのかと思ってたけど……」
姉貴はにやにやしながらそう言って、隣に座る彼女を中腰で覗き見た。
「……あの」
彼女はそれに困惑しているようだった。
とりあえず、不本意ながら姉貴を紹介しなくてはならない。
「うちの姉貴の──
「裕子や。よろしくな」
……はあ。
「あ、麻衣です」
今更ながら、彼女は麻衣ちゃんというらしい。
すっかり訊く機会を失ってしまって、訊くに訊けなかったのだけれども。
「麻衣ちゃんか。うちの翔はこんなんやけど、よろしくな」
姉貴は俺の頭の上に手を乗せて髪の毛を乱しながら言った。
まったく、気恥ずかしいから止めて欲しい。
「……はい」
「翔もしっかりしろよ。それじゃ、うちは邪魔やろうから行くわ。またな」
邪魔だけしに来た姉貴はそう言って来た方とは逆の方へ歩いていった。
「……そういや、麻衣ちゃんて言うんか。ごめんな、今まで訊けんで」
姉貴が見えなくなってから、俺は隣に座る彼女に言った。
横から見た彼女の顔は、被っている麦藁帽子のつばの陰で薄暗いものの、随分と落ち着いた雰囲気だった。
「……うん、そないなこと気にせんでええて。あ、ほれより翔兄さん、りんご飴、おおきにな」
彼女はようやく正面から顔を見せて、はにかみながらそう言った。
やっぱり、可愛い。あの姉貴とは違って。

翔兄さんのお姉さん、裕子さんが見えなくなった頃、お兄さんが向き直って、
「……そういや、麻衣ちゃんて言うんか。ごめんな、今まで訊けんで」
と、うちの名前を呼ばはってから、謝らはった。
「……うん、そないなこと気にせんでええて」
今更そう呼ばれるんは恥ずかしかった。
なんや、むず痒い。やけど、悪い気はせんかった。
寧ろ、ほれが心地ええんかもしれん。
頬はりんご飴みたいに赤うなってしもとるやろけど。
「あ、ほれより翔兄さん、りんご飴、おおきにな」
ふと思い出して勢いでそない言うたけど、なんや、今更名前呼ぶんも恥ずかしいて、頬が緩んでしもた。
目の前にいるお兄さんも、おんなじように緩い表情をしてやはった。
あかん、余計緩んできよる。
「ええて。ほれより、次何処行きたい?」
またさっきみたいなこと言うてあないな状況になりたないし、もう迷わへん。
どこでもええやなんて、適当なこと言わへんから。
「金魚すくいがええな!」

彼女に金魚掬いをリクエストされた俺は、その屋台前に立って、おじさんに二回分のお金を払いポイを二つ受け取る。
一つを彼女に渡し、水槽に浮いている水色の深めのボールを傍に添えて、泳いでいる金魚に目を向ける。
そこには、大きい金魚から小さい金魚まで、種々のサイズの金魚が所狭しと泳いでいた。
狙い目は小さい金魚。 まずは一匹を確保して、後々大きい金魚を狙うときの担保とするのだ。
水中を悠々と泳いでいる金魚を見て、この時期にこんなことをしている場合かと思いつつ、祭りなのだからいいだろうと思いなおす。
勉強しなければならないなあとぼんやり思いながら、金魚を狙う。
一匹の比較的ゆったりと泳いでいる金魚に目をつけ、そのあとをゆっくりとポイで追いかける。
今だ!
勢いをつけて水中へ飛び込んだポイは、金魚に跳ねられる間もなく破れたように見えた。
「……おじさん、もう一枚!」
「はいよ!おおきに!」

うちがお兄さんに買(こ)うて貰(もろ)たポイを片手に、水中を泳ぐ金魚をぼんやりと眺めている中、お兄さんは早速一枚のポイを破ってしまわはったようやった。
「おじさん、もう一枚!」
「はいよ!おおきに!」
おじさんは嬉しそうに破れてしもうたポイとお金を受け取らはって、代わりに新品のポイをお兄さんに渡さはった。
お兄さんは受け取ると勇んで水中の金魚と向き合い、また睨めっこを始めやはった。
うちはその眼中にない。一体何をムキになってやはるんやろ。
ほれが気になって、お兄さんとお兄さんの手元、ほれから追いかけられとる金魚を代わる代わる見る。
お兄さんは真剣な顔つきをしてやはって、狙われた金魚はゆったりと泳いどる。
ほれだけ見とったら金魚も案外あっさりと捕まりそうなんやけど、
「もう一枚!」
「おおきにな!」
見ての通り全然あかん。
お兄さんはまた真剣な顔をしてやはる。ほれがきりりとして格好いいんやけど、一方の金魚はゆったりとしとる。
このギャップ、なんやろな……。
「男は時々童心に返って、大したこともないことにムキになるもんや。まあ、ほやから商いできるっちゅうもんやけどな」
おじさんはそう言いながらけたけた笑ってはる。
そんなこと……、あるわ、なんか弟が時々意味もないことにムキになっとることがある。
まあええけどな。ほの方がこない真剣になってはるお兄さんをゆっくりと見てられるさかい……。

……お札を一枚使い果たしてやっと手に入れたのは、一匹の金魚だった。
本当はもっと早くに手に入れて、それを彼女にさらっと渡すつもりでいたのだけれども。
それでも、俺がようやく一匹取り終えたときの彼女は、嬉々としていた。
彼女は、中に小さくて丸い橙の金魚が泳ぐ青いボールを持ち上げて、それをまあるい瞳でしげしげと見つめてから、おじさんに手渡した。
「お疲れさん」
おじさんはそう言って金魚を水と共にビニール袋に入れて、俺に手渡した。
「来年もよろしくな」
来年か。来年はここにいるかどうかさえ分からない。
受かっていれば。若しくは、また来年もここで同じように頑張ることができれば。
でも、親は姉貴の家に俺を置いてまで受かって来いと送り出してくれたのだから、俺はそれに応えなければならない。
だからこそ、来年も今年と同じようにできるとは思えないし、思いたくもない。
受からなければいけないのだ。仮定でなくて、結果として。
そうであると分かっていても、受かれるのかどうかと言われるとそうだとは言えない。
来年また、ここへ彼女と来れるかどうかも、自信がなかった。
俺はそんなことを思いながら受け取ったビニール袋を掲げて、その中にいる金魚を眺めた。
金魚は、いいよな……。
「どうかしたん?」
彼女に声を掛けられて、俺はようやく我に返った。
その彼女はそんな俺を心配そうに見ていた。
「えっ、いや、どうもせえへんよ?」
「ほんまに?」
彼女はそう言って俺の顔を覗き見た。
近い、近いんだけど……、俺は彼女とこんな距離にいてていいのだろうか。
「う、うん。ほれより、はい」
俺は、その金魚を彼女に差し出す。
彼女は一瞬きょとんとしていたが、意図したことを察して、
「うん、おおきに」
と微笑みながら言って、金魚の入ったビニール袋へと手を伸ばした。
その手が、ビニール袋と共に、微かに俺の手に触れて……。

「!」
お兄さんから受け取ろうと思て伸ばした手が、図らずもお兄さんの手に触れて、うちは思わず手を引っ込めてしもた。
「……」
もう一度、うちは恐々と金魚の入ったビニール袋へと手を伸ばした。
さっきのときと違(ちご)て、お兄さんが持っとるていうことをやけに意識しとった。
伸ばしとる手が少しだけ震えとるのがよう分かる。やけどそれは止められそうにもあらへんかった。
「……」
手がビニール袋に触れ、ほれを親指と人差し指で掴む。
ほれでも、手はちょっとだけ震えとった。
「……離してもええか?」
お兄さんの問いかけに僅かやけど頷く。
ほれを受けて、お兄さんは持つ手をゆっくりと離さはった。
「青春やねえ」
金魚屋のおじさんがそない茶々入れやはったけど、そないなことは些細な問題に過ぎんかった。

金魚屋を離れて、俺たちは神社の奥の方へと進んでいった。
そこは一定間隔に飛び石が置かれていて、その間は砂利で埋めてあった。
奥の方には、祠らしい建物があって、その手前にお賽銭箱が置いてあるようだった。
彼女はあれから再び言葉少なになって、金魚の入ったビニール袋を目の高さまで上げて、中の金魚を眺めながら歩いていた。
「なんやろなあ……」
彼女がぽつりとそう呟いたので、聞き返す。
「ん?」
「へ?もしかしてなんか言うてた?」
彼女は驚いたようにこっちを見て言った。
どうやら彼女自身自覚なしに言っていたらしい。
「うん、なんやろなあ、て」
「ほうか……」
そう言うと、彼女はまたビニール袋に入った金魚をぼんやりと見ていた。
「……どうかしたん?」
「ううん、なんでもあらへんから……」
そう言われるとこれ以上訊くことも憚られるが、かといって放っておくというのもな。
ただ現状では、彼女が俺のことを意識しているようだということくらいしか分からない。
でも、俺はそれに応えられるのだろうか、俺でもそれに応えていいのだろうか。
と、そのとき、
「あっ!」
突然彼女がそう叫んだので、俺は驚いて彼女を見た。

辺りの風景は、まるでストップモーションのように流れていきよった。
ほれと同時に、手に持っとったはずの金魚の入ったビニール袋がその手を離れて前の方へと飛んでいきよる。
あかん、このまんまやとあれは地面に叩きつけられてまう。
ほしたら、ほしたらあの金魚は──。
うちは、手を前へ思いっきし伸ばして、不安定になっとる足にちょっと痛いけんどめいいっぱい力を入れて、少しでも前へ跳躍しようとした。
やけど、どうしてもあれには届かん。
あかん、もう、無理や……。
そう思たとたん、やっと自分がこけとるっちゅうことに気ついて、うちは怖なって目を閉じた。
……
気付いたら、うちはお兄さんの手に支えられとった。
「大丈夫か?」
ほう言うて、うちを起こしてくれやはった。
「うん……」
実は転んだせいで足がちょっと痛いんやけど。ほれより、
「ほやけど、金魚は?金魚はどないなったん?」
「姉ちゃん、これやろ?」
声のするほうを見ると、そこにはあのビニール袋を差し出したうちの弟、拓海がいよった。
「う、うん……」
ビニール袋を受け取りながら、ほう言う。
まさかこないなとこで会うなんて、思とらんかった……。
「で、姉ちゃん、こないなところで何しとん?」
「へ、ほの……」
何しとん言われてもなあ……、ほの、これもデートていうんやろか。
お兄さんも、ほう思とってくれやはったら、ええんやけど。
せやけど、所詮他人やしなあ……。
「まあ、ええけどな。どうせ昨日あない──
「え、や、ほないなこと、お兄さんの前で言うたらあかんて!」
──やったから、こないなことやろ思てたし」
うちの必死の抵抗も空しく、拓海はそれをすんなりと流してしまいよった。
なんやねん、突然現れたと思たらそないなこと言うて!
と、うちはすっかり拓海に金魚を助けて貰(もろ)たことを忘れとった。
「ほれよりお兄さん」
拓海は何や真剣な顔して言うて、うちの隣に居やはる翔兄さんの方へと向き直りよった。
何や、今度は一体何言うつもりなんや。
「うちの姉ちゃん泣かしたら承知せんからな」
「え……、うん」
お兄さんは一瞬だけ困った顔をしやはった後、優しく微笑みながらそない言わはった。
きっと、拓海はお父さんの代わりでもしとるつもりなんやろな……。
「まあ、お母さんには黙っといたるから、安心しとき」
拓海はほう言うて、うちらが来た方へ歩いていきよった。
一丁前(いっちょまえ)に、よう言うわ、ほんま……。

「痛っ」
歩き出そうとしたところ、彼女はそう言いながらしゃがみこんでしまった。
「大丈夫か?」
「うん……」
彼女はそう言って、再び立ち上がろうとするも、
「っ!」
「無理せんときや?」
「うん……、やっぱり無理みたいやわ」
これはつまり、またあれということか。
彼女は浴衣を着ていないから、さしたる問題はないけども。
「しゃあない、負ぶったるわ」
俺はそう言って、再び彼女の前にしゃがんだ。
「え……、うん、ありがと」
金魚の入ったビニール袋と腕を俺の首に回すと、彼女は背に体重を乗せた。
……やっぱり、慣れないな。
そう思いつつも、彼女に合図して立ち上がる。
「やっぱり、思てた通り高いんやな、ここ……」
「ほうなん?」
「うん……」
そう言うと、彼女は背から俺に抱きついてきた。
やっぱり彼女はそうなんだろうなと思いつつ、俺はそのことをプレッシャーに感じていた。
親と姉貴と、そして彼女に、応えられるのだろうか、と。

結局、また背負われてしもた。
あの感覚から気紛らわすために金魚ばっかり見とって転んだんやから、自業自得やて言われてもたら、それまでなんやけど。
ともかく、こうやって改めて乗ったお兄さんの背はやっぱり高かった。ほのことはうちを余計に懐かしい気にさせてた。
ほれにぎゅっとすると温こうて気持ちいい。今くらい、思い出しながらこうしとってもええやろ、なあお父さん……。
やけど、このまんましとったら寝てしまいそうや……。やっぱりここ、落ち着くんやな……。
お兄さんは家(うち)が何処にあるか知らあらへんから、少し抵抗しとるんやけど、なんか危ういわ……。
「なあ……」
「うん?」
「もし、寝てもたら……、あれやし、これ渡しとくな……」
あかん、ほんまに眠うなってきよった……。
とりあえず、これ渡しといたらどうにかなるやろうし……、まあ、ちゃんと起きてればいいんやろうけど、このままやったら、落ちてまうやろからなあ……。
ほれでうちは、何とかポケットから携帯電話を取り出して……、お兄さんの胸ポケットに入れたんや……。
とりあえず……、これで、なんとか、なる……、やろ……。
ああ、もうあかんわ……、寝る、寝てまう……。

彼女を背に乗せてから、俺はしばらく神社内をうろうろしながら彼女と話していた。
さっきの男の子が彼女の弟で拓海という名前であること、その弟が最近妙に冷たいこと、そのせいかどうも弟に素直になれないこと、とか。
彼女は結局弟の話ばかりしていた気がする。
俺はその話を、嫉妬なのか兄貴分なのか、何ともよく分からない気持ちで聞いていた。
そんな折、どうも彼女が眠そうにしているなと思ったら、彼女は"もし寝てしまったら"と俺に携帯電話を渡してから案の定寝てしまった。
ただ、金魚はちゃんとその手に握られていた。
これはつまり、電話をしろということか……。
俺は一先ず彼女をベンチの上へと降ろしてから、彼女の携帯を手にとった。
……いや、渡されたといってもこれは彼女の携帯なわけだから、まずは一度彼女を起こそうとしてみる方がいいだろう。
そう思って、俺の肩にもたれ掛かる彼女を軽く揺する。
「……んん……、ん?何、どうしたん……?」
彼女は眠た目を擦りながら、細目で俺を見た。
とはいえ、その目はとろんとしている。
何だか和むなあ……って、そんなこと思っている場合じゃなかった。
「寝られてもたら、困るんやけど……」
「ん……、ほや言われても、もう眠うて……。適当に、拓海でも呼んでくれればええさかい……」
彼女はそう言って、(俺の努力も空しく)また寝てしまった。
「……呼ぶしかないのか」
許可は出たけれども、どうも彼女の携帯を触るというのは気が引ける。
だけど、このままではどうしようもないしな……。
俺は意を決して、その携帯を開いた。
するとそこには、一面のコスモスをバックにした家族四人の写真があった。
それからアドレス帳を開いて、家族の欄を選ぶ。
お母さん、拓海、と書かれてあった。
一瞬、そのことに疑問を感じるも、それが何故か分からなかった。
そうして、選び、受話器を上げる。
コールの音が何度か響いた後、
「姉ちゃん、何か用?」
と、不機嫌そうな声が返ってきた。
確かにこれは冷たいと言われても仕方ない。
とはいえ、自分にも覚えがあるから、責めることもできないけども。
「いや、お姉ちゃんやないんやけど……」
「ああ、お兄さんか……。どないしたん?」
それから、斯く斯く云々(かくかくしかじか)と状況を説明すると、
「ああ……、わかった。今何処にいるん?」
「鳥居のとこから少し入ったとこにあるベンチの上やけど」
「ん、行くで待っとって」
そうして、ため息と共に電話は切れた。

それからしばらくして、先ほどの拓海くんがやって来た。
彼は、俺にもたれ掛かって寝ている麻衣ちゃんを軽く──いや結構激しく揺すってから、
「あかんわ。こうなってもたら、家(うち)まで背負てでもして帰らなしゃあないな」
「ほれやったら、送ろか?」
「ん?ええわ、うちからお母さん呼ぶさかい。お兄さんも、顔合わし辛いやろ?」
まあ、確かにそうだけど。
「ほれより、お兄さん今携帯持っとる?」
「あるけど。ほれがどないしたん?」
「ん、どうせ姉ちゃんアドレスも訊けとらへんのやろ?お兄さんも訊けそうな気、せえへんしな」
失礼な、と思いつつも図星だから何とも言えない……。
「やから、俺が代わりに訊いといてあげよて言うてんねん。さ、はよ出して」
言われて、ポケットから携帯を出してふと思う。
俺はこのまま、彼女と付き合っていけるのだろうかと。いってもいいのだろうかと。
「何してるん、はよ貸しいな」
それに少し迷ったけれども、とりあえず拓海くんと交換しておくに越したことはないかと、俺は携帯を差し出した。
……麻衣ちゃんはあんなこと言っていたけども、やっぱり拓海くんはいい弟だった。
不器用なだけなんだろう、覚えがあるだけに。
俺は拓海くんと携帯のアドレスを交換したあと、未だ寝ている麻衣ちゃんを彼に預けて、一人帰ることにした。
鳥居を出て、自転車を止めた場所へ行くと、そこには何故か姉貴がいた。
「よっ、彼女とはどうだったんだ〜いっ?」
……駄目だ、すっかり酔っている。
「まあいいや。自転車乗れそうにないから、後ろに乗っけてな〜」
どれだけ飲んでいるんだか。
まあ今日くらい、乗せてあげてもいいか……。

小鳥の鳴く声がして目を覚ますと、ほこはいつの間にか家(うち) で、辺りはすっかり明るうなっとった。
もしかして、朝……、なんやろか。
そう思いながらベッドから出て、時計を確かめると、朝の十時やった。
夏休みやから言うて、やけにゆっくり寝てしもたらしい。
何時間寝てたんかな。
えっと、昨晩は確か、お兄さんの背に乗って、ほのあと寝てしもて、途中で起こされたさかい、拓海に電話してって頼んだんやったかな……。
……ん、あれ、ほういや、お兄さんって、翔いう名前やって言うてやはったけど、何処に住んではるんやろ?
ほれに、うちの携帯渡したけんど……。
うちはほう思て、充電器の上に乗っとった携帯を手にとる。
ほれから、アドレス帳を開いて、未分類の欄と友達の欄を見てみた。
……やっぱり、ないなあ。ほない、上手いこと行くはずないもんな。
やけど、せやゆうことは、お兄さんに連絡する手段はないってことかいな?
……えっ?
「ああっ!」
「なんやねん、うるさいなあ」
ほう言うて、拓海が部屋に入ってきよった。
「ノックせえて言うたやん!まあええわ、今はほんなこと言うてる場合ちゃうんや……」
ああ、どないしよ。結局、何も連絡する方法がないやないか……!
「もしかして、姉ちゃんが欲しいのは、これちゃう?」
ほう言うて、拓海は得意げになってうちに開いた携帯を差し出して見せた。

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