二章 - 紫

帰ってきたら、時計は七時半前を指しとった。
辺りは既に薄暗うて、時折カラスの鳴く声がしとった。
「おっ、おかえり。なんや、姉ちゃんがこんな遅う帰って来るなんて珍しいなあ」
居間の前を通ったとき、弟がそない声掛けてきよった。
せやかてあんな状態で別れて帰ってきたんや、その声に答えようなんて気は起きひんかった。
振り向きもせずその場を通り過ぎて階段を登り始めると、下の方から弟の声がしよった。
「ちょ、無視すんなよ〜」
あんなこと言うとるけど、普段は弟の方が無視しよる。よう言うわ。
まあそないなことはどうでもええ。寧ろ明日どないするかや。
とりあえず走って帰ってきたせいか、息は上がっとるけど大分落ち着いた。
あれが夢のような心地さえするけんど、持ってった麦藁帽子は忘れて帰ってきたんや、夢ちゃうことは分かっとる。
ほれに、まだあの膝の上の感覚と顔を撫でたときの感触が残っとるんや、これを単なる夢ゆうて片付けることなんてでけへん。
そない思いながら、自分の部屋へ入って、ベッドの上へ横になる。
枕に頭乗せてみるけんど、こないな感覚ちゃう、もっと高くて硬くて、やけど温かくって懐かしかった。
結局逃げるようにして帰ってきてもたけど、もうちょっとあそこで寝ててもよかったかもしれんな……。
でも、元より男の人が苦手やったんちゃうんかいな。
お兄さんの背中に乗ったのかて、しゃあないからそないしたいうだけのことやったんちゃうんかいな。
やけど、あの膝の上が心地よかったのは確かや、とやかく言うても変わらへん。
ほしてもっかいあそこで寝たいとか思とる。なんやろな……。
そないあの場所が気持ちよかったんかいな。
いや、やっぱし背と膝の上が懐かしいて堪らんのかもしれへんな……。
「姉ちゃん夕飯食べへんの?」
突然そないな弟の声がして驚いた。
「なんや、ノックくらいせえや」
「したっちゅうねん、何も返事せえへんからしゃあないて開けたんや。んで、夕飯食べへんの?」
したって?いつしたっちゅうんや。
……もしかして、自分気付いてへんかったんかいな。
「わかったからはよ出てって」
「なんやねん、せっかく言いに来たったっちゅうのに」
弟はドアを閉めながらそないぶつくさ言うて、下へ降りていきよった。
「とりあえず、夕食食べよかな……」
そんな日の夕食は、親子丼ちごて他人丼やった。
所詮、お兄さんとはその程度の関係なんかもしれへんけどな……。

家に帰ってきたら、七時半過ぎだった。
自転車置き場を恨めしく横目で見て、それから階段を登っていく。
でも、あのとき自転車で行っていたら、彼女とはただすれ違うだけになっただろう。
そして、この麦藁帽子もここにはないはずだ。
はて、どちらがよかったのだろうか。
そんなことを思いながら玄関のドアを開ける。
「ただいま」
「……おかえり」
そう声を返したのは姉貴だ。
部屋へ入ると、姉貴は扇風機を片脇に置いて、テレビを見ながら畳の上にぐたっとしていた。
「夕飯、レンジの中に置いといたからな」
こちらへ振り返ることもなしにそう言う姉貴の背に、頼りっぱなしだなと思いながら返事をする。
「ああ……」
持って行っていたかばんと麦藁帽子を部屋の隅に置いて、まずは手を洗いに行く。
蛇口を捻って水を出している最中、
「翔ちゃん、麦藁帽子なんて持ってたっけ?」
と、一室しかない部屋から声が掛かる。
「ん、ちょっとな」
「もしかして、誰かから貰ったの?」
「そういうんじゃないけど」
「ふ〜ん……」
手を洗い終わってレンジから夕食を出し部屋へ戻ったとき、姉貴は案の定にやにやしていた。
「何?」
「なんでもないよ、なんでも」
姉貴の口調が優しくなるのはこういうときぐらいだ。
それ以外のときは、
「あ、今日は私が作ったんだから、夕飯の片付けは翔がやれよ」
「言われなくてもわかってるから」
「うん、よろしい」
こんなものである。勿論、姉弟か家族だけのときくらいだが。
いや、幼い頃、俺を庇って男相手に怒鳴り散らしていたこともあったか……。
それを思えば、この姉貴と違ってあの子はかわいかったなあ、なんて。
「何をにやにやしてるの〜?」
「へ?い、いやなんでもないって」
「へえ。なんでもないのね、なんでも」
姉貴はそう言って、再びテレビの方へと向き直った。
「なんでもないって、なんでもないって〜」
そんなことをぶつくさ言いながら。

お兄さんがそないな淡い幻想を抱いとる頃、うちは夕食を食べ終わって一人ベッドの上で悶えとった。
お兄さんに"うん"と言うたこともあるけんど、麦藁帽子を忘れてきたさかい、どのみち明日お兄さんに会わなかん。
住所とか名前とか訊いとったらよかったんやけど、そないな暇と余裕はなかったんやからしゃあない。
約束を守るにせ、麦藁帽子を取りにいくにせ、明日の納涼祭に行かなかんのは確かや。
元から近いところでやってるんやし行く予定やったけども。
せやけど、ほういえばあないな別れ方しといてどないな顔して会えばええんやろ。
……それにうち、なんや夢中で走っとったしなあ。
"うん"て言うたし、ほのせいで嫌われたとか思てやはらへんやろけど、もしほやったらどないしよ。
ほれやったら、余計会わす顔がないやないか。
──コンコン──
そないなこと思とると、ドアをノックする音がして、それからお母さんの声が部屋の外からした。
「浴衣出しとくし、一回見ときや」
「……うん」
なんや明日会うのが心配になってきよった。
大丈夫なんか、ほんまに……。
ほれに、祭りの相手がうちなんかでええんやろか。彼女とかおらへんのかな……。

彼女はいない。が、かように男勝りな姉ならいる。
「でさ、結局あの麦藁帽子は誰のなの?」
「いいだろ、別に誰のでも」
今日、予備校で恐らくやっていただろうと思われる範囲を眺めながら答える。
「ちぇっ、つまんないの……」
道端で出会った女の子のものだ、なんて言えるわけない。
もっとも、明日の今頃になればここには置いてないだろうが。
「あれって女の子のでしょ?」
「ああ……」
麦藁帽子にはひまわりが描かれたテープが巻いてあり、 黄色いリボンがワンポイントとしてあった。
どう見ても女の子のものだ。
「で、誰のなのよ〜?」
伸ばした足で背中をぐいぐい押しながら訊いてくる。
片手で教本を見ながら反対の手でそれを払いのけようとするも、ことごとく避けられる。
「だあ、うっとうしい!」
「せっかく置いてやってるのになんて言い草だ!」
「それとこれとは話が違う!」
「違わない!」
「違う!」
「違わないって言ってるだろうが!」
そうしていつも通り夜は更けていった。

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