一章 - 茜
夏のくそ暑い日中(ひんなか)、俺は今日も今日とて来年こそは志望校に受かろうと予備校へ向かっていた。 いや、来年こそは志望校に受かろうだなんて、それほどの熱意はなかったのかもしれない。 今年の受験で図らずも落ちてしまったという事実は確かに悔しいけども、だからといって負けん気などを発揮して"来年こそは!"なんていう気持ちはもっていなかった。 とりあえず大学に入れればいいとそれくらいの気持ちで受験して落ちたのだ、ある意味当然の結果だったとも言える。 予備校へと通っていたのはほぼ親の意向で、俺は他にすることもなかったから唯々諾々としたものだった。 こんな時期に就職のあてを探しても厳しいし、かといって家にいて一人で勉強なんてできる気はしなかったから、こうなったことは寧ろ幸いだろう。 ……去年の今頃は、周りの空気もあって勉強をすることに対しては積極的だったと思う。 しかしそれは受験のためであって、その先にあるはずの将来のためというわけではなかった。 たまたま得意だった理系の科目を専攻して何処かの工学部か理学部へ入れれば、なんてものだった。 何処の大学に入りたいという目標があったわけではない。 ただ、大学に入るためには勉強しなければならないのだというだけで勉強していた。 よくそれだけで生まれてこの方ないほど勉強できたなと思う。 今は一度落ちたというブランクもあって、去年ほどの熱意はない。 去年を除けば、今が一番勉強をしているだろうというくらいのものだった。 しかし、それにしても暑い。 前の道を見れば青々とした稲穂に挟まれた道路に陽炎が映り、空気は淀み、視界はぼやっとしている。 お昼過ぎの一番暑い時間であるせいか、通りにはこちらへ向かって歩いている中学生くらいの女の子が一人いるだけだった。 「ああ、暑いなあ……」 "暑い暑いと言うから余計に暑くなるだろうが!"と何やら理不尽なことを言っていた姉貴の顔がふと浮かび、そして消えた。 雑然としている自転車庫から自転車を出すのが面倒くさいと、徒歩で来ることを選んだのが間違いだった。 寧ろ出すのに苦労してかいた汗を自転車で走りながら乾かすことを選ぶべきだったのだ。 そんなことを思いながらふと前へ視線を遣ると、数十メートルくらい先の何もないところでいつの間にか先ほどの女の子がしゃがみ込んでいた。 周囲に人気はない。 俺が行くしかないかと、少し小走りで彼女の元へ駆け寄る。 「どうかしたんか?」 「少し、目眩がして……。その、大丈夫、やから……」 彼女はそう言って一人で立ち上がろうとするも、力が入らないのか再びその場にへたり込んでしまった。 俺はそんな彼女を思わず支えて、尋ねる。 「……大丈夫か?」 「あっ、その……」 しばらく何か言いたそうにしてから、 「何処か、陰のあるとこへ連れて行って、貰えへん?」 陰か。 辺りは一面の田んぼ、まだ青い穂が太陽に輝き、気休めにもならないような僅かな風に揺れて笹鳴いていた。 ……陰か。 仕方ない、しばらく行ったところにぽつりとあるバス停まで歩くしかない。 「バス停まで行くし、乗って」 俺はそう言って、彼女に背を向けしゃがんだ。 「……ほら、早(は)よ」 「う、うん」 声と共に、麦藁帽子を持った彼女の細く白い手が何故か恐々と俺の肩に掛かる。 「どうかしたん?」 「ううん、なんでも、あらへんから……」 まるで、壊れ物にでも触るかのように、彼女はそっと腕を俺の首へ回した。 その腕が、暑さで火照った首筋に冷やりと当たった。 暑い最中、気分転換に外を散歩しようとか考えたのが間違いやったんかもしれん。 暑いからゆうて帽子もかぶって行ったんやけど、途中でまた目眩がしてしもうた。 今日は立ってられんほどひどうて、結局道端に座り込んでしもた。 どうせろくに車も通らんような田舎やし、しばらくこうしていよかと思うとったんやけど、前の道歩いてはった人が声掛けてくれやはった。 でも、それが男の人やって、うち男の人苦手やから、なるべくなら迷惑かけんとこと思うたんやけど、やっぱり立てんかった。 このまんまほうっといてとか言うてもそないなことでけへんやろし、自分もほうしてもろた方が幾らか楽やったから、陰のあるとこへ連れてって欲しいて頼んでん。 ほしたらほの人はうちに背向けてしゃがんで、バス停まで行くさかいとか言わはる。 これは背負たろいうことやと思うんやけど、せやかて男の人の背に乗るんはややなあて悩んどったら、早よ言うて、急かされてしもた。 こないな状態でいるんやから、そう言わはるのも無理ない思うて、しゃあないから応じてん。 とは言うたものの、相手は男ん人やから、掴まんのに恐々(こわごわ)しとったら、 「どうかしたん?」 「ううん、なんでも、あらへんから……」 手助けしてあげるていうてくれる人に、こない思とること悟られるのも気悪い思て、なるべく早よしてみるけどあんまし変わらんかった。 かぶっとった麦藁帽子を外して、首に腕回すと、 「行くで?」 「……うん」 男の人は、うちの返事と共に難なく立ち上がって歩き始めやはった。 多分、普段見ひんような高さにいるんやと思うんやけど、まだ目眩がしてそれを確かめるような余裕はあらへんかった。 ちょっと目開いても前の風景はぐるぐる回とる。 こんなんでよう一人で立ち上がろう思たなと思うんやけど、やっぱりこないして男の人に背負われるのはあまり気のええもんとちごた。 やけど、ほれと同時にほっとしとる自分もいた。 ようやくバス停に着いて、彼女を備え付けてある青いベンチへと降ろすと、俺はその隣へ座った。 持っていたかばんはベンチの片隅に置いて、その上に彼女の麦藁帽子を置く。 バス停の屋根の下は日差しが直接当たる道路より幾分かましで、吹いている風も涼しく感じられた。 ちなみにバス停の名前は苗字で、傍の細道の奥にある一軒家のものである。 彼女は、俺が隣に座ったことを確認してか、一度座りなおして言った。 「ほんま、おおきにな」 「ええてええて」 俺は未だ目を細めて辛そうにしている彼女を見兼ねて、 「ほれより、座っとるより横になっとった方が楽ちゃうん?」 「ほらほやけど……」 「落ち着くまでおったるさかいに」 彼女はそれに少し迷っているようだったが、しばらくして、 「……そやったら、ちょっと横になろかな」 と言って、ベンチの上に横になった。 「やっぱし、ベンチの上は硬いなあ」 彼女がそうぼやくので、気を利かして、 「せやったら、こっちの方がええんちゃう?」 と、自分の膝の上に手を置いて言った。 「せやけど」 彼女は僅かに頭を上げて細目でこっちを見はしたものの、怪訝そうな表情をしていた。 しばし俺の膝辺りを眺めてから、 「ん……」 "うん"とは言わなかったと思う。 ともかく、彼女はそう言ってからゆっくりと──何か初めて見つけたものに触れるかのように──俺の方へ近づいて来て、膝に触れた。 そうして何故かそれをしばらく撫でてから、膝を枕にして道路側を向いて横になった。 ……とりあえず、今日の予備校は休みということか。 「ほれより、座っとるより横になっとった方が楽ちゃうん?」 バス停に着いてからこうやって座っとったら、お兄さんがそないなこと言うてきはった。 「ほらほやけど……」 確かに横になった方が楽やけど、バス停のベンチの上で横になっとったら怪しいてかなわん。 それに、さっき出会ったばかりの男の人の前で、横になるっちゅうんも気が引ける。 ちゅうても、このまんまやと単に陰に入っただけであんまり楽になった気がせえへんしな……。 「落ち着くまでおったるさかいに」 お兄さんはそない言うてくれはるけどやっぱり抵抗はある。 やけど、あそこからここまで何も言わんと運んでくれやはった人やしなぁ。 見て呉(くれ)──言うてもぼんやりとやけど──、高校生か大学生みたいやし、なんかするような人にも見えへんな。 「そやったら、ちょっと横になろかな」 ほう言うて横になったんはええけんど、なんや落ち着かん。 「やっぱし、ベンチの上やから硬いなあ」 そない感想を漏らしとったら、お兄さんが、 「せやったら、こっちの方がええんちゃう?」 と、自分の膝に手を置いて言わはった。 「せやけど」 何や、確かに膝の上の方がよっぽどええかもしれへんけど、会ったばかりのうちにそないなこと言うかいな。 目凝らすと紺のジーンズらしいもんがなんとか見えとるけど、あそこに横になる自分はよう見えん。 やけどこない硬いとこで横になっとっても、そない楽やないっちゅうのは事実しなあ。 うーん、うちもこないな状態でいるのは辛いし、お兄さんがせっかくあない言うてくれてやはるんやから、ここは甘えとこかな。 「うん」 でもそうやって返事するのと実際にあの場所に横になるのとは訳がちゃう。 さっきはあの背に乗っとったんやとか思いながら、お兄さんの方へ近づいていって膝の前へ着いた。 「……」 ここに寝るんや思て膝の上に手乗せてみる。 さっきの背みたいにちょっと温こうて何や気持ちよさそうやった。 何や知らんけど、すっと横になる気になれへんでとりあえず撫でてみた。 正直服の感触しか分からんけんど、あんま悪い気はせんかった。 実は言うほど悪ないんちゃうかと思て、お兄さんの膝の上に頭乗っけてみる。 「……」 目瞑っとるとこ見られんのも嫌やし、お兄さんに背向けて横になる。 多少枕にするには高いような気もするけんど、そこは思っとったほど悪ない。 寧ろ、このちょっと高いくらいの枕とこの温かみ、感触がちょうどええんかもしれん。 なんやこう、お兄さんとは今日会ったばっかりやのに、ここでこうしとると懐かしいなる感じがしてほっとする。 ほれが何か知らんけんど背負て貰(もろ)たときとおんなじような感じがしとった。 もしや今更思い出してもうとるんやろかと思いながら、ゆっくりと夢ん中へ落ちていった。 さして眠いわけでもあらへんかったのになぁ……。 膝を枕に黒髪の小柄な女の子を控え、俺はぼんやりと道の向かいの田んぼと空を眺めていた。 空はこれでもかというほどすっきりと晴れていて、太陽はかんかん照りだった。 辺りにはシオカラや赤とんぼが悠々と飛んでいて、蝉の鳴き声がうるさく響いている。 これといって見るような雲もなく、時たま稲穂が僅かな風にささやかに揺れる程度で、大して面白みもなかった。 致し方なく、傍らに置いたかばんから参考書を取り出して開く。 ただ屋根があるだけでやたらと暑い環境の中、今はそれくらいしかすることがなかった。 そこには、相も変わらず見たことのある数式の数々、化学式の数々、法則の数々が並んでいる。 要は問題に向かうときに如何にそれを使えるかということが大切なのだろうが、そう思って勉強することと、実際に問題に向かうこととはまた違う。 場の雰囲気の問題もあるだろう。しかし、場数──今までにこなした問題の数も大いに影響してくる。 どれくらい多くの問題をこなしたのか、それが勝負を分けるのだろう……。 などということを数式を眺めているだけで問題も解かずに考えていると、重みを感じていた膝の上で何やらもぞもぞと動く気配も感じた。 ページに指を挟んで参考書を傍らへ退けると、そこには道路側を向いていたはずの彼女が仰向けになってすやすやと寝ていた。 蝉の間を縫うように聞こえる僅かな寝息と、ほんの少しだけ開いた口元、そして時々もそもそと動く寝相……。 「……かわいいなぁ」 図らずも出てしまったその言葉に、俺は思わず口を噤んだ。 そして僅かばかりの罪悪感を感じながら、彼女の反応を覗き見た。 「……」 心配には及ばず、寝ている彼女に今の一言は聞こえていないようだ。 そうして、ほっと一息吐いて再び参考書を広げる。 しかしながら、今度は問題を解くどころか、ただの数式さえ録に頭に入ってこなかった。 何故か、俺の膝の上で寝ている彼女の寝顔が無性に気になって仕方なかったのだ。 参考書は開いている。 ただ、視線はゆっくりと下がり、慌てて参考書の中ほどへ戻るということを繰り返していた。 これではとてもじゃないが勉強になんてならない。 仕方なく参考書をかばんの中へと戻して、ため息を一つ吐き空を眺める。 そこは見るからに青、そして視線は深緑、若緑、薄緑、薄黒、黒、灰緑、灰へと変わっていった。 「……」 感覚的にそこに彼女が居るのは分かっている。 ただ視線は近づきはするも重なることをよしとしなかった。 彼女が横になるとき、強いて寝辛いはずの横向きになった理由を考えてみる。 それはきっと目を瞑って横になっている時の顔など見られたくはなかったからだ。 でも、今の彼女は眠っているのだという事実が耳元で囁かれる。 そう、彼女は眠っているのだ……。 視線は足元の地面を固めたコンクリからゆっくりと彼女の顔へ移る。 彼女が何を意図したのか──そんなことが三度頭を過ぎったが、それだけでは制止できなかった。 そうやって改めて見た彼女の顔は、端整かつ大人っぽい中にあどけなさの残るもので、やっぱり愛らしかった。 「ぅさん……」 彼女が突然寝言で何やら言ったことに驚いて視線を逸らす。 逸らしはしたもののまるで何かに惹かれるかのようにずるずると元の位置へ戻っていく。 「……」 俺はただ、そこにある顔を眺めているだけだというのに、妙にドキドキしていた。 人はスリルを味わうとそのときの動悸を恋のそれと勘違いしてしまうらしい。 今感じているのは、それなのだろうか。それとも……。 深い眠りやったんやろか、夢っちゅうもんも見た覚えがのおて、驚くほど緩やかに目が覚めた。 ゆっくりと視界が開けてくると、ほこにはお兄さんがいやはった。 「……んん」 身の内だけで僅かに伸びをして再び開いた目に映ったのは、茜色に染まったお兄さんの寝顔やった。 「こないな顔やったんやな……」 さっきは目眩してよう見えんかったけんど。 ベンチの上に放り出した手をゆっくりとお兄さんの方へ伸ばす。 自分でさえ、自分がそないなことしとるのが不思議やった。 「……」 触れた顔はうちの顔とちごて妙にごつごつとしとって、僅かに伸びて整っとらん髭がじゃりじゃりしてちと痛いんやけど、何や知らんがほれが癖になりそうやった。 こうしとるとどうしても思い出してまうけど、きっと思い出したいからこうしとるんやろな……。 「お兄さんのよな人やったら、男ん人もええかなぁ」 せや言うても、お兄さんのこと言うほど知っとらんけんど。 ほれにしても散歩に出かけただけやゆうのに、空が赤(あこ)うなるまでこないなとこで昼寝しとるて、どないなんやろ。 ちょいと出かけるだけのつもりやったから、家(うち)出るときも何も言うてこおへんかったしなあ。 まあ別に心配しとるてゆうようなことはないやろけど。 お兄さんの顔を下から眺めながらそないなことを思っとったら、 「ん、いつの間にか寝てたのか……」 と言うてお兄さんが起きやはった。 ん?なんやろ、この違和感は……。 ふと気がつくと、日は沈みかけて、辺りは赤くなっていた。 どうやら寝ていたらしい。 もぞっと膝の上で動いた気がして顔を下げると、そこにはいつの間にか目を覚ました彼女がいた。 この距離で見ると、ぱっちりとした目と黒い瞳がよく分かる。 「あ、起きてたんか……。もう目眩大丈夫なんか?」 「うん」 そう言う彼女の笑顔が眩しくて、俺は思わず空を眺めた。 そこは一面見事なまでの茜色で、とても奇麗だった。 「……もうこないな時間になってしもたなあ」 自分への照れ隠しにそんなことを呟いてみる。 「う、うん……」 そんなことを言ったからといって、この頬の火照りはあの空の火照りと同じで消えるわけではないのに。 「……」「……」 それからは二つの沈黙があった。そして、 「「なあ」」 沈黙に耐えられんで何か言お思て出た言葉が重なった。 お兄さんの瞳にうちの顔が写っとるのが、よう分かる……? 「「!」」 うちは驚いてその場から跳ぶように身を引いてもた。 はぁ、はぁ……、な、なんや見つめ合ってもうた。ほれもあないな至近距離で! よう考えたら、うちまだお兄さんの膝の上におったやん、目眩治た言うてんのに、いつまであないなことしとるつもりやったんや。 うう、恥ずかしいてお兄さんの顔よう見れへんやんか……。 せやゆうても、とりあえず、何か言わんとまた心配されてまうしなぁ。 「あ、あんな……」 「う、うん」 せやかて何言うたらええんや。 ほ、ほういや、もうこないな時間やし、そろそろ帰らなあかんなっ。 結局何しに出てきたんか、よう分からんけど。 「今日は、その、ほんまにおおきにな」 「い、いや、気にせんでええて」 「えっと、ほな、そろそろ帰るさかい」 うちはほう言うてベンチから立ち上がった。 「うん」 「ほなな」 振り返らずに言うて、来た道へ歩き出す。 ここで振り返ってしもたら、もう一回あの顔を見てしもたら、また恥ずかしなってまいそうで嫌やったから。 やのに。 「あ、ちょい待って」 お兄さんにほう言われて足を止めた。やけど振り返らへん。 振り返ってしもたら、またあの顔を見てまうことになるさかい。 「明日の納涼祭、よかったら一緒に行かへん?」 納涼祭言うたら、あの山んとこにある神社でやらはるあれかいな。 確かに明日あるけんど……、そない言われたら、断われへんやんか。 何やかんや言うても、また、どっかで会いたいて思うとるんやもん。 会(お)うてまた、あの背と膝の温かみに触れたいて、ほう思うとるんやから……。 「……うん」 うちはほう言うたあと知らん間に走り出しとった。 走っとるからかしらん、なんや、身体が熱うなっとった。ほれに涙まで出てきとる。 もう泣かへんて、思てたのに……、まだまだあかんな、ほんま……。 このまま別れてしまってはもう二度と会えないような気がした。だから、 「……明日の納涼祭、よかったら一緒に行かへん?」 正直、それに彼女が応じてくれるのか、不安だった。 ただ偶然この道を歩いていて助けただけの俺の、そんな誘いに乗ってくれるのだろうか。 「……うん」 彼女はそう言ったあと、何故か急に走り出して行ってしまった。 そうしてバス停には独り、俺だけが残った。 ……そういや待ち合わせ場所とか何も言ってなかったけれど、大丈夫だろうか。 とはいえ、連絡する方法なんて知らない。 思えば、名前さえ知らなかったのだ。 |