前二 - 墨
ほの日、うちはいつも通り中学校へ行っとった。 普段と変わらん授業をぼんやりと聞いて、それなりにノートを書いとった。 そんな折、急に廊下にある電話が鳴り出して、うちのクラスで授業をしてはった先生が駆けて行きはった。 何事かとクラスの雰囲気ががらっと変わって、先生はその注目を浴びはることになる。 十数秒してから先生は急いで教室へ戻ってきはってから、何故かそのままうちの席の前へと来はった。 なんか言われなかんようなことあったかいなあと思てると、先生はうちの耳に口を寄せてきはって、 「麻衣ちゃんのお父さんが倒れはったって」 「ほんまに!?」 聞いてすぐに問い返してた。やけど先生からの答えは何も変わらんかった。 「うん。タクシー呼んであるから急いで用意し」 ほんときの先生はやけに冷静やったと思うてる。ほりゃ長いこと先生やってたらこういうこともようあるんかもしれん。 せやけど、ほの冷静さは私にとって無情やった。 もっとも、うちが焦ってたせいでほのように思うただけかもしれへん。今となってはどうでもええことやけど。 うちのお父さんは前から心臓が弱かったから、こないな一報があったらきっとほうやろうと思うとった。 この場所に少し安心感を感じて授業を受けとった自分と、やけに冷静やった先生が嫌になって、うちは急いで机の上のもんを片づけた。 目についたもんだけほいほいと鞄の中へ放り込んでほれを持ち、ほれでもこの場所で唯一頼れる先生を見上げる。 先生はそんなうちに向かって頷かはってから教室のドアの方へ向かわはった。 うちはその後をついてゆく。 多分教室の視線はうちに集中してたんやろけど、うちにはそないなことを気にしとる余裕なんてなかった。 気付くと教室の外には教頭先生が待ってはって、うちのクラスで授業してはった先生は教頭先生に何やら言うてはる。 うちにとってほないなことはどうでもええことやて思とったから何を話してはったか覚えてへん。 今思うてみれば事務連絡とかなんやかんやあったんやろうけど、分かったとこでどうでもええことに変わりはあらへん。 ほれからうちは教頭先生の後について学校の入口の方へ歩いてった。 先生が言わはるには、うちのお父さんが運ばれたとこはここから車で十数分ほど離れたところにある病院で、呼んだタクシーもすぐ来るやろうていうことやった。 入口んとこへ着いた時にはまだタクシーは来とらんかって、うちは心許のうなって先生のことを見上げた。 目の合った先生はうちに何も言わんと頷いてからうちの頭の上へ手置いて優しく撫でてくれはった。 先生がどう思てほうしてくれはったんか知らんけんど、うちはほんときだけほれに甘えておくことにした。 ほれからしばらくして校門からタクシーが入って来てうちらの前に止まった。 自動的に開いたそのドアに先に先生が入らはって、うちはほのあとに続く。 急いだとこで何も変わらへんて分かってたけんど、せかせかして乗りこんどった。 先生が行き先の病院の名前を告げはってタクシーは出発する。 ほれは早ようもなく遅うもないような時間やったんやろけど、やっぱりどうしても遅う感じとった。 ほれから病院へ着くまでの間、うちも先生もタクシーの運転手さんも何も喋らんかった。 何も言うてへんかったけんど、タクシーは車の少ない広い道ではなるたけとばしてはった。 恐らくは中学校から病院いう行き先からしてほういう事態やと思わはったんやと思う。 病院へ着いて、先生が手早く運賃を払わはってから中へ入る。 受付で先生がお父さんの名前を告げて場所を訊かはる。 中に座はってやはったナースさんはその名前を聞いて一瞬だけ表情を曇らせはった。 この時点で気づいてたんかどうかは自分でさえ分からへん。 少なくとも何かあったんやろなという気だけしとったんかもしれへんし、ほれともどうなってるんか聞かずとも分かってたんかもしれん。 ナースさんは少しだけ手元の書類を見はってから顔を上げて、厳かに霊安室の場所を告げやはった。 うちと先生はちょうど受付に戻ってきはったナースさんに連れられて霊安室まで歩いて行った。 今更急いで行ったところで何も変わるわけやない。 ほんなことは、ナースさんも先生も、ほしてうちも分かってたけんど、ほれでもこの遅々とした感覚は何か嫌やった。 ともあれ、その時はえらく冷静やったことを覚えてる。 一報を聞いた時よか遥かに今ある状態を認識していた。ただ、認識していた、というだけなんやけど。 ほれからしばらく歩いて霊安室の前に着く。 そこには先にお母さんとお祖母ちゃんがいやはったけど、拓海はまだやった。 二人は目を真っ赤にしてはって、特にお母さんは朝見た時よか少しやつれたようにも見えてた。 うちの姿を認めたお母さんは、足取りも覚束ないまま、 「麻衣ちゃん、お父さんが……」 と呟いてうちを抱きしめはった。 ほん時のうちがどういう表情をしとったんか、どういう雰囲気やったんかは自分では分からん。 お母さんが言うには、今にも泣き出しそうやったていうことなんやけど、泣いてはったお母さんがうちもそやろと思てはっただけかもしれへん。 せやかてうちが悲しいと思とらんわけやない。 認識しとっても理解しとらんかった、ただそれだけやったんやと思う。 いや、もっと正確にいうたら、理解するんを拒んどったんやろう。 ともかく、ほんな中で先生はお母さんに 「それでは、私はそろそろ失礼します」 と声を掛けやはった。お母さんは、 「あ、はい。麻衣を連れて来て下さり有難うございます」 とお礼を言わはった。 お祖母ちゃんもほの傍で軽く会釈してはる。 去って行かはる先生の背をしばらくぼんやりと眺めてから、未だ現実感のない現実を思い出して、徐にお母さんを見上げた。 お母さんはほれに気付かはって、 「たっくんももうすぐ来るやろし、待っとこか?」 なんて訊かはる。 こんな時やのに意地悪な質問やなあて思たけど、うちは静かに頷いた。 さっきここへ一緒に来はったナースさんはいつの間にかいやはらへんようになってもて、別のナースさんが霊安室のドアの傍に立ってはった。 多分待たせてるんやろうなあと思うてたけど、どの道拓海を待たなかんしこういう時くらいええやん思て、前にいやはるお母さんに抱きついて沸いてきそうな感情を一心に押し殺してた。 どうせこんなことしてたかて、いつかは泣いてまうんやろなあて思いながら。 ほれからしばらくして、拓海が小学校の先生に連れられて現れよった。 ほん時でさえ拓海は目を真っ赤にして泣きじゃくっとって、連れてきはった先生も多少困惑してはるようやった。 先生はお母さんに軽く挨拶をしやはってから早々に立ち去らはる。 拓海はほの後ろ姿に目も暮れずただその場で泣いとるだけやったから、仕方なしにその手を取ってあげた。 気付いて一度見上げてからようやく置かれた状況に気がついたようで、ひっくひっく言いながら辺りを見回しとる。 どうもテレビでよう見る手術室の前の雰囲気とちゃう薄暗い場所やいうことに気付いたんか、拓海はうちとお母さんとお祖母ちゃんを交互に見て不思議そうにしとる。 結局拓海はこの時点ではまだ気がついとらんようで、倒れた言うことだけ聞いてこれだけ泣いとったようやった。 目の前にある事実はほんなもんとちゃう、ほれを告げるのにうちは二の足を踏んどった。 お母さんが見兼ねて口を開きかけはった折、拓海はようやっと気付いたようにはっとしてから乾き掛けた目に再び涙を溜めて急にうちに抱きついて来よった。 ほの頭が胸に当たる。やけど拓海は気にもかけてへんようやった。 こないな時くらいとやかく言うもんちゃうやろ思て、うちは片手で拓海を抱き寄せて、もう片方の手でほの頭を優しく撫でてあげた。 しばらくしてなんや外が騒がしいなあと思うとったら、傍の入口んとこから男の人が一人入って来やはった。 ほの人はお母さんの前まで来やはってから名刺を差し出して挨拶してから何やかんやと喋ってはる。 お母さんとお祖母ちゃんはほれに対して頷いてはったけど、二人ともたまに質問しやはるくらいであんまり喋らはることもなかった。 拓海は相変わらずうちの胸ん中におって、いい加減気付いとるんやろけど退(ど)こういう雰囲気もなくじっとしとった。 名前を呼んで少し肩を揺さぶったると、拓海は何やぼそぼそ言いながらむっくりと顔を上げよった。 「姉ちゃん……、お父さんは……?」 訊かれ、何て言葉返したらええんか分からんくて軽く首を振る。 ほれだけでも十分意味は通じたらしかった。 「夢、ちごたんやな……」 ほう言うて拓海は見上げてた顔を下ろした。 やけど当然ほこにはうちの胸があるわけで……。 拓海はうちの前から跳ねるように飛び退いた後、うちを見て口をパクパクさせとった。 自分で抱きついて来よったくせに、ほのことさえ忘れてしもてるんやろか……。 うちは拓海に歩み寄ってその頭にちょこんと手を乗せてやった。 残念ながらこの時のうちには怒るほどの元気ものうなってたし。 拓海はほれで落ちつきよって、なんや不思議そうな顔をしとった。 「ほしたら、そろそろ一緒におうち帰ろか」 お母さんが傍からそう言わはる。 気付いたらいつの間にか人が増えとって、うちらの他にさっきのナースさんともう一人別のナースさん、ほれからお医者さん、ほして黒服の人が二人いやはった。 ほの人らの後についてお母さん、お祖母ちゃんと一緒に霊安室の中へ入ると、ほこにはお父さんが横たわっていやはった。 覗きこんで見た顔は普段寝てはる時と然して変わらんかった。 まるで、ただ寝てはる服と場所がちゃうってだけ。どうしてもほういう風にしか思えんかった。 ほの後。 ナースさんとお医者さん、ほれから黒服を着た人とで寝台の上にいやはったお父さんを隣に置いてあった棺の方へと移動させはった。 ほうしてはることで、うちはようやくお父さんがもう生きてはらんことに少し現実味を感じた。 あとでお母さんに訊いたところによると亡くならはった原因は心臓発作やったらしい。 元から心臓が弱かったし、確か拓海が覚えとらへんほど幼い頃に一度倒れやはったことがあったから、ある程度──いや、ほんのちょっとだけ、またほういうこともあるかもしれへんとは思うてた。 せやけど、まさかほのまま亡くなってしまはるなんて到底思てもいやへんかった。 まあ今更どうこういうたかてどうやっちゅうもんでもないんやろけど。 ともかく、ほれから棺に蓋をしやはってほの棺を外に置いてあった霊柩車の後部へ置いて、うちと拓海とお母さんとお祖母ちゃんはほこに同乗する形でうちへ戻った。 ほの後はなんやごっちゃごっちゃと忙(せわ)しのうて気付いたら夕方になってしもてた。 お父さんは仏間にいやはって、棺やその隣の台の周りには豪華な飾りが施されてあった。 ほの台の上に黒縁のお父さんの写真が置いてある。 その日の晩はその部屋で一晩を明かすことになった──正確にいうともう一晩明かすことになったんやけど。 ほれを寝ずの番ていうらしい。お父さんが淋しならへんように傍に付いててあげるんやそうや。 宴会は翌日のこととして、ほの日の晩は感傷的にお父さんとの思い出とか二人の慣れ染め、ほれからうちと拓海が生まれた日のこととか話してた。 明日、明後日のこととか、もっとほの後のこととかもあったけんど、ほの日はほんな話はせえへんかった。 ただ今までの話をするばっかりで、これからのお父さんがいやへんようになった時分の話やなんて誰もしとうなかったんやと思う。 もっとも、なんやかんや言うてる間に元々忙しなしてたこともあって、うちは疲れて寝てしもてたんやけど。 翌日──正確には日が明けてからも、ばたばたと忙しないまんまやった。 昨日ここへ戻って来てからあっちこっちへ連絡入れてはったさかい、明日のお葬式へ参加しよいう人がぞろぞろと来やはった。 うちで一晩明かさはるわけやから寝やはる場所の準備したり昼食の準備したりと気の休まることがない。 うちと拓海かて例外やのおて、朝からばたばたしとった。 せやかて元気やいうわけやない、単に意識していられるほどの時間がのうなっとっただけやった。 一つ終えたらまた一つとやることがあって、そもそもの目的が何やったんかさえ忘れてしまいそうやった。 ほんな状況が夕食の前まで続いて、夕食を出前に任せることを決めはってからようやく時間が空くようになった。 家ん中は普段とはちごて酷い喧騒に塗れとってなんや落ちつかへんかった。 うちは一人虚ろにテレビを眺めとった拓海を見つけて後ろから声を掛ける。 「いつもより騒がしいなあ」 「ほやな……」 振り向くこともなくほう言いよる。ほれは何かが抜けてもたみたいな心許ない返事やった。 仕方なしにうちは拓海の隣に腰を下ろす。 「なあ、ちょっとついて来てくれへん?」 「……ええけど、何処へ行くん?」 「ええから」 ほう言うてうちは拓海の手を取った。 拓海はなんや面倒臭そうな顔しとったけんど、しゃあないなあ言いながら立ちよる。 ほの手を引っ張ってリビングを抜け仏間へ入った。 何やらもうわいわいやってはる横を抜けてお父さんの前へ正座する。 拓海もほれに倣(なろ)うて隣に座りよる。 写真と燻(くゆ)る線香の煙を眺め、手を合わせてしばらく目を瞑った。 昨日の朝会(お)うた時のお父さんを思い浮かべ、あんなに元気やったのになあと思い馳せた。 もうほういう姿も見ることが叶わんのやなあと思うと、急に悲しいなってくる。 あの日の膝枕とか負ぶって貰(もろ)た背中とか、もうほういうもんに会うことも叶わん。 想いの強さも努力も苦労も、この前には何の意味も為さへんのやと。 ゆっくりと瞼を開けて外の世界を見る。 ほうしてようやく流れた涙を感じることができた。 「……なあ」 うちが目閉じとる間どうしとったんかしらへんけど、拓海が臆したように訊いてきよった。 「……姉ちゃん、僕が病院に着いてからずっと落ちついてるけんど、ほんまに何もあらへんの?」 「ない訳ないやん。ただな、お母さんかてあんな状態やし、せめてうちがしっかりしとかなかんなて思てな……」 ぼんやりとお父さんの写真を見て言う。 お母さんの隣へは──せめて傍へは、うちが立ってたなかん、て。 「……うん、ほうやな。僕も何時までもこんな状態でいるわけにもいかへんよな」 言うてその場から立ちあがった拓海の丈がやけに大きい見えて、うちはようやく一息つける気がしてた。 |