前一 - 鶸
「学費の一部と生活費を稼ぎつつ私立へ行くか、一年浪人してまたあの大学に挑むか、だ」 それが、俺が"あの大学"に落ちたことが分かった時に親父が言った言葉だった。 「浪人するならその間の生活費と予備校の学費は出してやる。その代わり受からなかったら後はないからな?」 つまり、四年バイトを頑張るか、一年勉強を頑張るかという選択だ。 俺は、これを最後通告であると同時に俺に対する期待でもあるのだと考えていた。 そうして、俺はもう一年勉強を頑張ることを選択したのだった……。 俺がその決意を親父に話した時、親父は思いも掛けぬことを俺に言った。 「そういうことなら、お前は明日から裕子のところだ」 「はあ?それってどういう意味だよ?」 「ここにいても仕方がないし、実際に大学の近くで勉強した方が気も引き締まるだろう?」 「それもそうだけど。でも、姉貴はいいって言ってるのか?」 「まだ何も言ってない。そもそも、お前が落ちたことさえ知らないだろう」 「なっ……」 どうやら親父はここだけで勝手に話を進めているらしい。 「とはいえ、あいつの所の家賃も生活費もここから出ている。言って無理だと言われたらそれをお前の所に回すだけだ」 我が親ながら、なんて横暴な手段をとるつもりだろうか……。 「下宿先の家主には前に住んでいた所の近所だから顔も効く。お前も顔くらいは覚えているだろう?」 「……まあな。でも、姉弟とはいえ二人だけで同棲することを認めていいのか?」 「なんだ、お前が何かするとでも言うのか?」 親父は僅かに引きつりながら真面目腐った顔をして言う。 これは怒っているわけではない。必死で笑いをこらえているときの顔だ。 「いや、そういうわけじゃ……」 「お前がやるわけないだろうし、やれるとも思ってない。まあ、もし何かあったら勘当するだけだがな」 言いながらも尚親父の顔は僅かに引きつっていた。 笑って言うことではないのだけども、親父はよほど俺に限ってそんなことはと思っているようだった。 喜んでいいのか、それとも心外だと思うべきなのか、何とも複雑な心持ちだった。 「まあ、元よりお前があの大学に受かってもそうするつもりだったから、何も変わりがないのだがな」 親父はそう言いながら笑っていた。 裏でそんな策が練られていようとは、姉貴も知らなかったに違いない。 俺も、お袋さえも知らなかったのだから。 そうして、俺はその翌日の夕方には姉貴の元へと来ていた。 ──ピンポーン── チャイムの音が響いてすぐに部屋の中から姉貴の声がして、ドアが開く。 「……」 化粧っ気のない顔で出てきた姉貴は、俺の顔を見るなり何も言わずに奥の部屋へと戻って行った。 これはつまり、入れということだろうか。 奥から何か声が掛かるわけでもなくただそのまま放置されてしまった俺は、致し方なく靴を脱いで廊下へと立つ。 振り返って靴を正そうとしゃがむと、そこには揃えもされない靴が何足か散らばっていた。 その光景に少し安息を覚えて、俺は自分の脱いだ靴と共に姉貴の靴も正してから奥へと入って行った。 黄色い半纏を着た姉貴は、六畳間のベッド横に置かれた炬燵に入りながら前に一杯のお茶を据えていた。 そんな姉貴の背が部屋に入った俺から見えている。 「とりあえず、座れ」 姉貴はこちらを向くこともせず、炬燵の向かいの位置を足でふわふわと持ち上げながら言う。 怒っているのか、それとも茶目っ気があるのかよく分からないが、つまりはそこにということだろう。 「ああ……」 持ってきた中くらいのサイズの黒いボストンバッグと緑のポイントの入ったトートバッグを、周りのものを退かしてから壁際に置いて、姉貴の向かいへと入る。 机の上はティッシュとかペンケースが置いてあるくらいで比較的片付いている。 一方の部屋の中は、流石に足の踏み場もないというほどではないものの雑多な状態になっていた。 教科書と思しき本がどさっと転がっていたり、ジャケットが置いてあったり。 中には下着も転がっていた。これでどうやって人を呼ぶのだろうか。 俺がそうやって部屋の中を眺めていると、姉貴は何か踏ん切りがついたかのように口を開いた。 「翔、これはどういうことなんだ?」 「どうって、何が?」 「何が、じゃない。昨日突然親父から電話があったと思ったら、"翔を置いてやれ"だの"断ったら仕送りなし"だの」 「俺がもう一年頑張るって親父に話したら、突然姉貴のところへ行けって。俺も、お袋さえも知らなかったんだよ」 「……もう一年?」 言って、眉間に皺寄せ、 「それは落ちたってことか?」 「……ああ」 何処かその事実に姉貴にさえ後ろめたさを感じて、俺は目を逸らしながら答える。 「そう……。私はてっきり翔もここから大学へ通わせるという意味だとばかり思ってたのにな」 姉貴は俺の大学の合否に興味がないのか、何も触れずにいた。 てっきり、弄られるものだとばかり思っていたのに。 しかし、どうやら親父は姉貴にただ俺がここに来るということしか話していないらしい。 全く、相変わらずなんて大雑把なのだろう。 「どうして親父はいつも肝心なことを言わないんだか。ともかく、ここにいるからにはそれなりに働いてもらうからな」 「おう」 「一先ず……、部屋の掃除をしようか」 「……姉貴が散らかしたんだろ?」 「もう。つべこべ言わずにさっさと立つ!」 やれやれ。姉貴も強引なところはしっかりと引き継いでいるらしい。 散らかった部屋の掃除も一段落して、俺たちは一杯のお茶を手に再び炬燵に入っていた。 「さて、今日の晩飯を誰が作るか、だけど」 「いいよ。俺が作る」 別段、姉貴の料理を食べたくないというわけではない。姉貴も俺も、両親共働きの環境にいたからそれなりに料理は作れる。 ただ、これから姉貴にはお世話になるのだから最初くらいこうして進んで作ろうと思ったのだ。 「そう?それじゃ、任せちゃおうかな。久しぶりに翔ちゃんの料理、食べてみたいし」 「何だよ、それ。期待するほど大したもの、作れないぞ?」 意を決して炬燵から抜け出して立ちあがる。 春前だけどやっぱりまだ些か寒い。炬燵の中が恋しい。 「いいのいいの。それより、さっさと作っちゃって」 「はいよ……」 そうして、俺は廊下にあるキッチンへと向かう。 部屋への扉を閉めて、キッチンの明かりをつける。 横に置かれた飾り気のない冷蔵庫を開けると、それなりに食材が並んでいた。 姉貴はこっちでもちゃんとやっているようだ。 まずは無難に野菜炒めでも作ろうか。 夕飯を作り終えてリビングへ戻るといつの間にかテレビがついていて、姉貴は誰かと電話をしているところだった。 「分かった、そう言っとく。うん、じゃあ」 そうして、携帯電話を切って軽くベッドの上に投げると、それはそのまま鶸色の上布団の上にぼすっと収まった。 俺はその様を見ながら姉貴と俺の座る前に野菜炒めを置く。 「お、さんきゅ」 「おう」 姉貴は炬燵から這い出てキッチンの方へと行く。 俺が別に用意しておいた副菜と二人分の箸を持って戻って来、再び炬燵へ座る。 俺も姉貴から箸を受け取りつつ同じように炬燵へと入った。 「いただきます」 姉貴は箸を揃えて両手で持ち、拝むようにして目を瞑りながらそう言った。 「……いただきます」 この部屋をあの状態にするほどには粗雑なくせに、こういうところはきちんとしてる。 姉貴はそういう人だ。一重に親父の賜物なのかもしれないけれど。 「さっきの電話、親父からだったんだけど」 箸で野菜炒めを突きながら言う。 「翔のここでの生活費、私のところへ入れるから私が管理しろって」 「それは……、お手柔らかに」 「翔ちゃんの頑張り次第ってところだよ」 姉貴は俺に笑い掛けながらそう言う。 不敵とか卑屈とかじゃない。ただ、自然に。 「いつもそうだったら、姉貴ももっと可愛いのにな……」 俺がぼそっとそう言うと、それが聞こえなかったのか、 「何か言った?」 「いや、何でもない」 「そう」 姉貴は何処か腑に落ちないという表情をしながらも、それ以上何も訊くことなく箸を進めていた。 さっきのは、姉貴に聞こえていた方がよかったのだろうか、それとも聞こえない方がいいのだろうか。 俺が可愛いだなんて言ったら怒るかもしれないけれど、でも……。 「あ、そうだ、言うの忘れてたけど、予備校の登録は自分で近いうちに行っておけよ」 「えっ、ああ、分かった」 突然言われて少し驚く。それが姉貴に悟られたかどうかまでは分からない。 「じゃあ、私は先にお風呂行ってくるから」 「おう」 そう言って、姉貴は食べ終えた茶碗やら皿やらを持って、廊下の方へと消えていった。 俺は食べ終わったお皿を流しへ運んで、そこで夕飯の片づけをしていた。 流しもいい具合に汚れている。部屋も、一応綺麗にしたとはいえまたすっきりと掃除してやる必要があるだろう。 持ってきた荷物の整理、予備校の申し込み、それから部屋の掃除。今することはそれくらいか。 この一時の休息は受験勉強という戦いの前の静けさでしかないのだろう。 でも、今の自分は恐らくそのことを自覚していないのだと思う。 大学受験へ向けていた熱気も受験と共に消化されてしまったし、後は結果を待つだけという安息も不合格の知らせで崩れた。 私立への出願は意味もなくただ滑り止めだけのためにしたというつもりではなかったのだけど、そこへ行きたいという熱意があったわけではない。 だからこそ、親父の甘言とも思える期待に乗ったのだと思う。 そのことを後悔はしていない。 でも、だからといって今また頑張ろうという気力があると言えば、それは嘘になってしまう。 なんとかして自分を受験勉強の渦中へと引き戻さなければならない。 そうなんだかんだと思っている間に流しのものは片付いていた。 まずは、自分の荷物の整理でもするか。 俺はそう思って台所の灯りを落とし、部屋へと戻る。 壁際に置いておいたボストンバッグを手にとって、先ほど自分の座っていた場所の傍に置き、炬燵へと入る。 そうしてバッグのチャックに手をかけると、廊下の方から足音がした。 その音に反応して一度顔を上げ、姉貴が風呂から上がってきたのだと再びバッグへ目線を戻す。 数秒を経て、今度はドアを開ける音に誰が来るのか分かっていながらも顔を上げた。 「あ……、そういや翔いたんだっけ……」 そう言う姉貴は何も纏ってはいなかった。 「ちょ、なんて恰好してんだよ」 言いながら慌てて目を逸らす。 姉貴、いくらなんでも油断しすぎだ。 「ごめん、うっかり下着忘れちゃって」 言いながらも部屋を歩く音がする。 戻ってタオルを取って来ようというつもりはさらさらないらしい。 「……いっつも、こうなのかよ?」 「一人でいるならわざわざ気にする必要ないでしょ?」 「まったく……」 「はいはい、お騒がせしました」 声と共にドアの閉まる音が部屋に響いてほっと一息吐く。 もう、気付いたらタオルくらい取りに行くだろう、普通? それからしばらくして、姉貴は寝間着をまとって部屋へと戻ってきたものの、特に恥じる様子も気にする様子もなく、俺に普通に接してきた。 一方の俺の方は、あんなことがあったものだから、話しかけてくる姉貴に気まずいようなドギマギするような感覚で受け応えをする。 姉貴は、俺のその様子を笑うでもなく茶化すでもなく、まるで何事もなかったかのように応じていた。 そのせいか、俺もあのことについて何も言えなくなっていた。 今更この姉貴にそんな気を遣う必要もないのかもしれない。 それにも関わらずこうだったのは、姉貴があまりにも自然すぎたからだった。 それから、俺の風呂、明日の準備、惰性のテレビ視聴を経て、就寝の時間へとなる。 「そういえば、翔は何処に寝るんだ?」 姉貴は、炬燵の隣にあるベッドの上で布団を膝の上にして座りながら言った。 「今日は炬燵で寝ようと思ってるけど」 炬燵に入って残っていた荷物の整理を寝るまでの合間にと思い、しながら返す。 「そんなところで寝たら風邪引くよ?こっち来いよ」 そう言いながら、姉貴は布団をぱんぱんと叩いて見せた。 「え……、いや、そんなこと、できるわけないだろ」 何を言っているんだ、姉貴は。 "兄貴"ならともかく、相手は"姉貴"なのだ。 「風邪なんてひかれたらこっちが迷惑するの」 姉貴は酔ってはいない、素面(しらふ)でそう言っていた。 「……」 姉貴が言って聴くかと言えばそうじゃない。 それに、姉貴の部屋なのだからその点に関してもあまり勝手なことは言えない。 明日、布団を買いに行こう。 そう思いながら、俺は炬燵の電源を消してその場を立つ。 「わかったよ」 聞いて姉貴は壁の側へ身を寄せる。 とはいえ高が風邪くらいでここまでするだろうか。 いくら姉貴が俺のことを信用していたとしても、俺をあの隣に置くことはそう易くはないだろう。 何か裏があるような気がする。単に風邪を移されたくないという以外の理由があるんじゃないだろうか。 そう思いつつも姉貴の導きに誘われる自分がいる。 断てずにずりずりと引き込まれてゆく。 姉貴は布団の左半分を開けて、俺を待っていた。 ぶら下がった電灯の紐を引いて、部屋を暗がりにする。 部屋を灯すのはナツメ球の明かりだけ。 僅かな明かりを頼りにして、姉貴のベッドへ乗る。 パイプベッドか、あまりふかふかとはしていない。 腰を下ろして足を伸ばす。 向きは廊下の方、姉貴は見てはいない。下手に意識はしたくない。 きっとこうしている自分こそが意識しているのだろう。そう思いながらも見ることはなかった。 姉貴が上げた布団を下ろしてくる。 昨日までと違う環境、隣に人がいるという違和感。それに加え、幼い頃を懐古するような既視感。 何処か懐かしい安息と、何か違うという不安と。 そんな感情を綯い交ぜにしたまま、後ろへと倒れる。 と、そこには枕がなかった。 ちらりと横目で見ると、姉貴と目があった。 少し頬を緩めて微笑んでくる。何だというのだろう。 どうも姉貴はこっちを向いて横寝しているようだった。 その頭の下には枕がある。 布団は許しても枕は駄目だということか。よく分からないけれども。 ともかく、姉貴の方を向いて寝るなんて論外、仰向けになれば視界に姉貴を収めてしまうことになるのでこれもなし。 残るは炬燵を見て寝る、その一択だけ。 身体の右縁を軸にして体を回す。自然とベッドの隅の方へ寄る。 背に開いた空(くう)から風が入ってきて背中が少しだけ寒い。 「もう……」 姉貴がそう言う最中、背後で仰向けになった気配がした。 そうして背中の空が埋まる。 ここへ来てようやく上布団の感触が身にしっくりと来る。 ふわふわとした触感に、淡い甘い匂い。 多分シャンプーか何かだろうなと思いつつ、少しだけこの状況にドキドキしてる自分がいる。 「ねえ、翔」 「何だよ」 普段姉貴がしないような少し甘い言い方に、自ずと声色が強くなっていた。 この感覚に慣れないせいでもあるのかもしれない。 「もう少し、こっちへ来てよ」 「何馬鹿なこと言ってんだよ」 そんなことしたら、とてもじゃないけど寝られる自信はない。 姉貴を放って、目を瞑って自然と眠気が来るのを待つことにする。 じっとそうしていると、背後に何やらもぞもぞと動く気配がした。 様子を窺おうと少し目を開けたところで、姉貴が突然背後に抱きつく。 「なっ、何してんだよ……」 下手に抵抗はできない。 ここはベッドの隅の方であって、何より背には柔らかな感触があったからだ。 ふと先ほど見た姿が頭に浮かび、思わず消す。 「しばらく、このままで居させて」 耳の傍でそんな声がする。それが少しこそばゆく、恥ずかしい。 「……なあ、姉貴」 「何?」 「当たってるんだけど」 「たまたま。当ててるわけじゃないからな」 その言い草は何なのか。 抱きついたらそこに胸があったのだと言わんばかりだった。 「それにしても、翔ちゃんの背中も大きくなったね」 はぐらかされているのかもしれない。 でも、あまり悪い気はしなかった。 「そうか……?」 「うん、そう……。背も、気付いたら、追い越されちゃったし」 「まあ、な」 「……言っておくけど、さ」 間をおいてから、姉貴は少し眠たそうな声で言った。 「私も、翔ちゃんの……こと、応援してるから、ね」 「おう。俺、もう一度頑張ってみるから」 「うん……」 そのあとに姉貴の言葉が続くことはなかった。 耳を澄ませば、この静かな部屋に姉貴の僅かな寝息が響いている。 俺はそうして、背中に姉貴の温かみを感じながら、新たな生活へと続く夢へゆっくりと落ちていった。 |
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