後一 - 黄

「ケチ!」
うちは差し出された携帯をさっと引っ込められて、さっきから散々拓海に文句言うてる。
やけど拓海は一向にあの携帯を渡そうとせえへん。
せやから部屋ん中追いかけて取ろう思とるんやけど、これがなかなかすばしっこうてよう取れへんかった。
「ケチちゃうわ!これは俺がお兄さんと交換したもんやから、勝手に姉ちゃんにやれへんて言うてるやろ!」
ほう言うて、うちの伸ばした手をかわして勝手にひとのベッドの上に飛び乗りよった。
もう、さっきから拓海はそないなことばっかり言うとる。
何をほない言いよるんか知らんけど、拓海は昨日会っただけやないか、どうせこうなることを見越して訊いて来よったに決まっとる。
「別にええやないか、ほれくらい!」
うちが追うて同じようにベッドの上に乗ったら、すかさず床へ降りて距離を保ちよる。
ほれがなんや気に食わへん。
「あかんて言うてるやろ!欲しいんやったら自分で貰(もろ)て来たらいいやんか」
自分でて言われても、うちにはお兄さんに会う手段なんてないっちゅうねん。
あん時お兄さんの背で寝てへんかったら、ちゃんと……、ちゃんと交換してきたやろうに。
「ほれができたら苦労せんて言うてるやん!」
「ったく、しゃあないなあ……」
ほらやっぱりほういう展開になるやろ。
どうせまた何か要求して来よるに決まっとるがな。
「俺が電話かけたるから、ちょっと待っとき」
……ほう言うて拓海は携帯を弄っとる。
えっ?電話?電話やて!?
そない急に電話言われたかって、無理やって!
まだ起きて間もないし顔さえ洗ってないし、っちゅうかベッドから出たばっかしやから髪かってぼさぼさやろ!?
顔合わせるわけちゃうのにそないパニくってたうちは、拓海が電話しようとしとるのを何とか止めさせよう思て、ベッドから足を離す。
ほして、前にいる弟へ飛び掛ろうとしとったうちは宙を飛んどった……。
その間、気がついた弟はその場からさっと横へ避け……って、あかん、このまんまやったらうちは床へ直に落ちてまう!
迫る床が茶色から徐々に黒茶色に変わって行きよる……!
……ドッ!
鈍い音がして、うちは床に叩きつけられとった。
……うう、やっぱし痛いわ。特に鼻が。
「待っときて言うてるのに。思わず避けてしもたやん。まあ、別に大丈夫やろけど」
「大丈夫なわけ、あらへんやろ……」
まだズキズキする手足に力を入れて、何とか起き上がろうとする。
ほの時見えた茶色い床に、赤いもんがあんのが目に入った。ほして鼻の下が妙に温かい。
「何鼻血出しとるんよ。ほれ」
ほう言うて弟は立ちあがったうちにティッシュ箱を差し出しよる。
まったく誰のせいでこないなっとると思うとるんや。
ほれにしても、思たよりえらい痛かったわ……、あっちこちズキズキしとる。
場所によってはあおたんできるかもしれん。ややなあ、あれ後まで痛いねんって……。
「うん、姉ちゃんが電話せえ言うから。ほな代わるな」
気づけば何時の間にか電話はかけられ、ほれがうちの耳元にあった。
左手伸ばして弟が持っとるのをとろう思うんやけど、もう片方の手で封じよる。
うちも鼻押さえとるから反対の手が使えへん。つまりどうしようもない。
しゃあないし左手で頑張ってみるけんど、弟は意地でもあの携帯を貸してはくれんらしい。
「麻衣ちゃん?」
耳元でしたほの声に自ずと身体がぴくんてなる。
すんごい久しぶりに聞くような気さえするけんど、昨日会(お)うたのを忘れとるわけちゃう。
やけど、なんやめっちゃ懐かしい。ほして何より恥ずかしいてしゃあない。
「ピクッて。姉ちゃんおもろいなあ」
横でほない言うとる弟に一発蹴りを入れよう思たらすんなりとかわしよった。
……むう。
「えっと、ほの、おはよう」
とりあえず出てきた言葉はほんだけやった。
拓海はまた隣でニヤニヤしとる。……ほしてまた避けられた。
「うん、おはよう。ん、もしかして、風邪でもひいたん?」
「へっ?」
「いや、何や鼻声やし」
まさか床に鼻ぶつけて鼻血出しとるて言うわけにはいかへんしな……。
ほんな間抜けなこと──自分で言うてて余計惨めに思えてきたわ──したなんてよう言われへん。
「ん、や、何もないさかい、心配せんでもええで」
「ほうか。ほれでどないしたん?急に電話なんかして」
「えっと、ほの、昨日あないな別れ方してもたさかい、悪いなあ思て……」
ちゃうやん。いや、確かにほない思うとるけど、ほうやのうて……。
「ええよ、俺が無理言うて誘ったんやし。ほれより迷惑違(ちご)た?」
「ううん。迷惑やなんて。なんやったらまた行きたいなあて思とるくらい」
ほない言うてみる。いや、ほない言うのがせいいっぱいやった。
ほんまやったら自分から行こうて誘うのが一番なんやろうけど、ほんな勇気なんてあらへんかった。
あかんわ、こんなんで電話番号やらメールアドレスやら訊こうやなんて、無理ちゃうやろか。

その日──つまり納涼祭の翌日、俺は一人家で勉強をしていた。
予備校の講義があるのは午後からで、その予習のためだった。
ちなみに姉貴はサークルの活動があるだとかで朝からいない。
そんな折、拓海くんから電話が掛かってきて、今はその電話を麻衣ちゃんがもっていた。
彼女との会話の中で、昨日納涼祭に誘ったことが急だったので迷惑じゃなかったかと尋ねると、彼女はまた行きたいと言ったのだった。
「ほうか……」
「うん」
また行きたい、か。
それに応えるためには、覚悟を決めて本腰を入れなければならない。
今度こそ、受かるために。そのためには……。
「あんな、麻衣ちゃんに言うておかなかんことがあるんよ」
「うん?どないしたん?」
「実は俺、今浪人生でな。来年もあの○○大受けよて思うてる」
「うん」
「ほやから、ほれまではあんまし会えへんかもしれへん」
落ちたら来年はない、なんて話はできない。それに、受かるために今だけここにいるという話も。
言えば、彼女はそのことを不安に思うだろう。
言えば、俺には予め彼女にそのことを言ったのだという甘えが生まれてしまう。
「うん……」
彼女は寂しそうにそう言った。ただ小さく、"うん"とだけ。
「ごめんな」
「ううん……、ほうゆうことやったらしゃあないもんな。頑張ってや」
「うん、ありがとう。ほの代わり言うんもあれやけど、メールとかやったらまだできると思うさかい」
「うん」
彼女は今度は少しほっとしたようにそう言った。
それは、短くも温かいものであった。
そういえば、携帯の電話番号やアドレスは拓海くんには教えたけども、この電話を拓海くんが掛けてきたということはおそらく彼は麻衣ちゃんに教えていないということだろう。
単に俺を警戒して麻衣ちゃんから遠ざけようとしているのか、それともちょっと麻衣ちゃんをからかっているのか。
いや素直に言い出せないだけなのかもしれない。"姉ちゃんのために、交換してきた"のだと。
「麻衣ちゃんはこの携帯の番号とアドレス、知らへんかったよな?」

「う、うん……」
言おう言おう思てた携帯の番号とアドレスのことを翔兄さんから言われて、少したじろいでもた。
結局自分から言い出せへんかったけんど、これで拓海にとやかく言われるっちゅうこともなくなる。
ほない思てたら、
「ほしたら、一回拓海くんに変わって貰えへん?」
「えっ?」
「俺から、拓海くんに言うとくさかい」
……ほれで、あっさりと教えてくれるやろか。
隣でそろそろ持つことに疲れてきとる──せやけど携帯を渡そうとはしよらへん──弟を横目で見る。
拓海はほれに気付いて、"何?"と言わんばかりの目で見てきよる。
「ん?どうしたん?」
「別にどうもせえへんよ、ほしたら変わるわ」
「うん」
翔兄さんはほんなことも意に介さへんようやった。
分かっとるけど、ほれがちょっと気に食わへんかった。わがままやて言われてもしゃあないけど。
「拓海に代わってやって」
携帯を少し放して電話口を押さえながら拓海に言う。
拓海はきょとんとした様子でうちの耳元から携帯を放した。

「どないしたん?」
電話の向こうからは再び拓海くんの声がした。
少しせっついたような物言いで、驚いているようでもある。
「麻衣ちゃんに、俺の携帯の番号とアドレスを教えて貰いたい思て」
「ん……、わかった。あとで教えとくわ」
「うん。よろしくな」
口振りから察するに、別段俺を警戒しているのではないようだ。
しているのだとすれば、俺の頼みに対しても疑ったり悩んだりするだろう。
それにそもそも俺とアドレスを交換したりしないかもしれない。
だとすれば、あの微妙な間は何なのだろうか。
「用も済んだやろし、電話切ろう思うんやけど、ほの前にお兄さんに一つ訊いときたいことがあんねん」
拓海くんは何やら改まった様子でそう切り出した。
「ん?なんやの?」
「……お兄さんはうちの姉ちゃんのこと、どない思とるん?」
俺がその問いに対して僅かな疑問を発する前に、電話の向こう側から麻衣ちゃんの騒ぐ声が聞こえてきた。
「痛っ、わ、分かったから蹴んなよ、もう」
そんな声が少しだけ遠巻きに聞こえて、
「悪いけんど、さっきの質問はなかったことにして」
「ん……、俺は拓海くんが心配するようなことせえへんから」
「心配?何で俺が姉ちゃんなんかの心配せなあかんねん。単にちょっと気になっただけやがな」
裏に"なんかってどういう意味や"という麻衣ちゃんの声が響く。
そうしたら今度は"なんや、お兄さんのアドレス教えんでもええんか?"と拓海くんの声がする。
そのやり取りを聞いてると、幾年か前までの姉貴との会話を思い出してしまう。
最近は(不幸なことに)上下関係がはっきりしてきたような気がするけれども……。
「じゃあ、お兄さんまたな。ちゃんと教えとくさかい」
「おう」
そうして、電話は切れた。
そして、それと同時に姉貴が帰ってきたのだった。

拓海は耳元から携帯を放して電源を切ってから言うた。
「アドレス渡すんはいいけんど、とりあえず着替えて朝食食べたらどないなん?」
言いよるように、うちは未だにパジャマ姿、髪は梳いでもいないのでぼさぼさのままやった。ちなみに顔も洗っとらん……。
朝食なんて、もってのほかやった。
「……ほやな」
食べ終わったら一回電話しよ、さっきは隣に拓海おって話せへんこともあったさかい……。

「午後から人来るから」
机に向かい予習をしている背から、姉貴は俺にそう声をかけた。
「終わったらワンコールな」
「おう……」
氷がグラスの中へと落ちる音がして、後ろを姉貴が通る気配がする。
姉貴はそのまま俺の横を回り、机の上に冷水の入ったグラスを置くと、胡坐をかいて座った。
ちなみにミニスカートである。全く慎みがない。
まあ、タオルがないと言って平然と風呂から裸で出てくる人に何を言っても無駄だろうが……。
「予備校ってクーラー効いてるんだっけ?」
「ああ、そうだけど」
「いいよなあ、うちには扇風機くらいしかないし」
そこへ行くまでが暑いのだと思いつつ何も言わないで教本を読んでいると、しばらくして姉貴が俺の頬を左手人差指でつんつんしてきた。
「にゃに?」
つんつんされながら喋ったので変になっている。
「暇だな……」
姉貴はぼーっと俺の顔を眺めながら、未だにつんつんしている。
「ひみゃだからって、人の頬ちゅんちゅんするのは止めてくりぇにゃい?」
「いいじゃん、別に」
よほど暇らしい……。いつの間にか、つんつんがぷっにぷっにというリズムに変わっている。
「そういや、昨日の麻衣ちゃんって中学生?」
「ひょうみたいだけど?」
恐らく、と思って答える。
「みたいってどういうことよ?」
「……訊けてにゃいもの」
考えてみれば、名前と弟がいるということくらいしか知らないんじゃないだろうか。
「何だ、そりゃ……。そんなことも知らずに一緒にいてたのか?」
「ん……」
そう言われればそうだ。あれだけの時間一緒にいながら、大して彼女のことを知っているわけではなかった。
でも、それでいいのだろうか。
「まあ、私の知ったこっちゃないけど……」
姉貴はそう言って立ち上がり、
「仕方ない。とりあえず、昼飯でも作るか……」
と言って、キッチンへと入っていった。

朝食も食べ終わった。髪も解き終わった。顔も洗い終わった。
拓海は翔兄さんの携帯電話の電話番号もアドレスも、案外あっさりと交換してくれよった。
今は自分の部屋で宿題を片付けとるようや。
お母さんは朝から仕事に行ってはって家にはいやはらへんから、うっかり聞かれてまういうこともないはずや。
……つまり、うちがお兄さんに電話するんを邪魔するもんは何にもあらへんっちゅうこっちゃ。
ほう思て、手にした携帯を持ちあげ、開く。
ほして、キーを長押ししてアドレス帳を呼び出す。
一覧から翔兄さんの名前を選び、ボタンを押す。
……ここまで来たらあと一つ。あと一つキーを押せば、お兄さんに電話をかけることができる。
やけど。やけど、ほの一つのキーを押す手が微妙に震えとった。
……。
押せば、やっと自分でお兄さんに電話をかけることができるっちゅうことはよう分かってる。
ほれは今日起きてからずっと思とったことや。
拓海の携帯の中、近いんやけど遠いとこにある思て、切望しとったもん。
あんだけ追いかけ回してさえも得よう思とったもん。
ほれが今この手の中にある。
ほんなことは分かっとる。分かっとるんやけど……。
携帯の画面をもう一度、注視して眺める。
ほこには、お兄さんの名前がフルネームで書かれとる。
分からんかった苗字、ほれがほこにある。
……いや、電話かけるんと違(ちご)たんかいな。
うん。もっと話したいこと、もっと訊きたいこと、いっぱい、あるんやから……。
持っとる手のこのボタン、押して、お兄さんの携帯と繋がるんやろ?
なあ、ほら、はよ、このできた縁、先へ繋げるために──。

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