第三十九話(S) 浴衣

あの日から私たちは一度だけ泳ぎに行った。
もちろんあの海岸へだ。
あの日の数日後、ちょうど暇ができたので育人君にTELしたところ、育人君も空いていたので行くことにした。
結局電話したときも育人君の反応は一緒でこの間から何も変わっていなかった。
あの海水浴場へ行くまでも行ったときも同じ感じ。
なんだか溜息が出る。
少しくらい喜んでくれてもいいのに逆に恥ずかしがってるのだからなんとも言えない。
それではこの調子で進んでいくとよくよくは結婚だろうけど、そのときはどうするのだということになる。
初心(うぶ)にも限度があるんじゃないかと思ったりもする。
多分プロポーズなんてものも私からだろうかと心配だ。
まあともかくその話はさておき、今日は花火大会の日だ。
この間は納涼祭があって、そのときに私は浴衣を来ていった。
私は今日の花火大会にも同じものを着ていくつもりだった。
しかし育人君の希望によって別の浴衣を着ていくことになった。
浴衣なんて年にこの夏の納涼祭と花火大会くらいしかないので、たまには出す必要がある。
だから私もそのついでなので育人君の希望に則ることにした。
ところで、花火大会は例の海岸で開かれる。
そこへはバスも走っているのだけどもおよそ混むことが予想されるので私たちは自転車で行くことにした。
自転車で行くということはもちろん帰りにあの坂を越える必要がある。
別にそう大して傾斜が急だというわけではないが、何分長いのでそれが悩みの種である。
この日もまた瑞井駅集合。
そこから線路沿いの道を走って海岸へと出る。
私たちは瑞井で合流したあと、その道を走り海岸へと出た。
海岸そのものは人里から離れているのにいつもにぎわっている場所である。
何故ならこの近辺にはここしか海水浴場がないからだ。
そんなこんなでこの海水浴場には今日も大勢の人が集まっていた。
大半の人は海水浴場の駐車場に車を止め、海岸でビニールシートを広げて見る。
私たちもそれに倣(なら)って駐車場の駐輪場に自転車を止め、予め持ってきていたビニールシートに並んで座った。
こうなるともう誰が見てもカップルとしか言いようがないような感じになる。
まあ実際カップルなのだからその点は別にかまわないのだけれども。
それから十分ほど経った頃、一つ目の花火が音を立てて空へと花開いだ。
そのあと、しばらく間を置いて花火が空へと上がる。
あとは立て続けに連続であがったり、絵だったり、水上花火なんかが夏の夜空を彩った。
それから全ての花火が上がり終わった後、夜の海水浴場は帰りの人の会話で騒がしかった。
私たちもその流れに則って帰ろうと思っていると、育人君に止められた。
「ねぇ、ちょっと待って」
「えっ、なんで?」
「いいから。とりあえず人の波が引くまで待とう」
「う、うん……」
それから人の波が引いて海岸には私たち二人だけが取り残された。
「ここって街から離れてるでしょ?」
「うん」
「なら星空が綺麗なんじゃないかなと思って」
そう言われて空を見上げるとそこには花火の明るさとはまた違う、なんとも言い難い明かりが私たちを照らしていた。

←38   (S)   40→

タイトル
小説
トップ