そのiii 追憶

あれから一月(ひとつき)が経ち、大学生活にも随分と慣れた頃、美由さんが僕を連れ出した場所は、二人の通った高校だった。でも、僕自身にその実感があるわけではない。彼女がそう言うからそうだとしか、言いようがなかった。そう、つまり、依然として記憶は戻らないままだった。
土曜日の昼下がり、部活動で騒がしい校内に、美由さんのブーツの足音が響く。
職員室に裏手から顔を出して、美由さんが面識のある先生に顔を見せた。それは三年生のときの先生らしく、彼は僕のこともよく覚えていた。でも自分の記憶には覚えがない。一方的に、懐かしいと言われても苦笑いしかできなかった。
美由さんはあれからも二人でデートに行った場所へと僕をよく連れ出していて、どうにか僕に記憶を取り戻してもらおうと必死だった。いつどういうきっかけで戻るかも分からない記憶のために、彼女は色々と考えているようだった。果たしてそうする彼女の探すものは、記憶をなくす以前の僕か、それとも──。
通う大学は違うものの、彼女は不慣れな僕を気に掛けてくれていて、よく電話をかけてくれる。僕もそうされることはやぶさかではなく、僕からも他愛のない内容の電話を掛けたりしていた。この人格の生まれてからは彼女の態度はずっとそんな感じで、僕もそうまでしてくれる彼女に対して、戻らない記憶にやきもきしていた。
ところで人格というと、聞くところによれば、記憶のなくなる前の一人称は今とは違って俺で、口数の多い方でもないという。それは今の僕と似ても似つかない。ここから記憶が戻ったら……、今の人格と昔の人格は果たしてどうなるのか、少しだけ怖いけれども、それでもきっとそのとき側には美由さんがいてくれるだろう。そのことが僕に安心感を与えていた。

球を受け止める音と掛け声の響くグラウンドを後にし、僕らは体育館の方へと向かった。砂利で固められた地面、その一角に大きな桜の木が一本だけ植わっていた。
何故か、その光景だけは、見覚えがあった。ここは、確か……。

ようやく、二人で話せるようになった頃。そうすることさえ難しいことで、二人の力添えもあってようやくここまで辿り着いた。叶わないのなら叶わないまま、片想いで終わってもそれはそれでいいと思っていた。だから、彼女がああいう形で手を貸してくれたことは当初余計なお世話だとしか思っていなかった。でも──、こういう風になれたから。もっと先へ進んでみたいと、そう思った。
強がってばかりの自分にとって、自分からこんな行動を起こすなんてことは初めてだった。そのときに選んだ場所が──。

ここだった。ここが、僕の選んだ場所。美由に告白するために、彼女を呼び出した場所。いや、正確に言うならば、お付き合いをお願いした場所だ。好意なんてものは加恵のせいでバレバレだった。これが両想いだということは、惜しげもなく、加恵が三人でいるときにバラしてしまっていた。あとはそれが分かった上で踏み出すかどうか。ただ、それだけだった。
眺め呆然としている僕に、美由がそっと声を掛けた。
「創英君……?」
「『俺と、付き合って欲しい』。確か、そう言ったよね?」
彼女は、驚いたように大きく目を見開いてその場に立ちすくんでいた。
「……美由?」
まるで、それがトリガーだったかのように。気がつけば彼女は僕に抱きついていた。そこに押し倒すような強さはなく、ただ押し殺したような泣き声だけが僕の耳に届いていた。

今になって、いや今だからこそ。僕が事故に遭ったあの日、何をしていたのか──違う、何をしようとしていたのかを思い出した。
あの日、美由をコーヒーショップに呼び出した僕は、その場で彼女に別れを告げようとしていた。その道すがら、事故に遭ったのだった。
今でこそ記憶をなくした僕に献身的に接してくれている彼女のことを僕は好(よ)く思っているけれど、あの時、僕は彼女のそういう自分を顧みないお節介さが嫌になっていた。例えば今でも大学生活のことをまるで母親のように心配してくれるし、事故に遭って入院している時も毎日のように病室に通ってその結果彼女は風邪をこじらせてしまっていた。記憶をなくす以前もそういうことがよくあって、良く言えばこのままだと彼女の身が心配で、悪く言えばそうまでする彼女がどれほど僕を想ってくれているのか、それに応えることができるのか怖かった。
彼女のことが嫌いになったわけではない。寧ろ、好きだったからこそこのままではよくないとそう思った。
「美由って、呼んでくれた」
彼女は泣き声のままそう言った。
「うん、思い出した」
「……全部? 加恵のことも、信彦のことも?」
そこで義直の名前が出てこないことは仕方がないのかもしれない。
「うん」
言うなり、美由はまた顔を埋めてしまう。今ばかりはこのままで。
果たして、こうまで喜んでくれる美由を、僕は──。

美由も落ち着いて、少しだけ校内を懐かしんで帰り際、もう一度職員室に顔を出して、帰る旨を先生に伝えた。今になって先生があの時の先生だということが分かり、ようやく懐かしいという思いに浸っていた。
校門を出るときになって、僕は先に出ていこうとする美由を引き止めて、
「これからも、よろしくな、美由」
「うんっ」
そう元気よく言う美由の目は、まるで兎のように真っ赤だった。

そう言えば、記憶がなくなる前の人格と、なくなった後の人格の話。
これは何も人格が変わったわけではなく、強がる理由がなくなったから素の自分が出ていただけ。僕はずっとそんな形作った自分でいることに安心しきっていたのだ。
そんな不器用な自分と、それに付き合ってくれた美由に、愛を込めて。

I will love you tender…

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