そのiv 信頼

記憶が戻ってしばらく、私は舞い上がって思い出話ばかりしていた。あの時思い出せなかった海岸沿いのサイクリングも彼はしっかりと覚えていた。ただ、その時にふと思いだしたのだ。
彼が事故に遭った日、喫茶店で私に言いたかったことは何だったのか。
記憶が戻った彼からは何も言ってこない。事故に遭った日のことも、事故に遭う前の日のことも、他の日と同じように覚えているはずなのに。
前日に掛けてきた電話の重々しさを思うと、それはきっと重大なことに違いない。だからこそ、私からそれを尋ねることは憚(はばか)られた。
もしかしたら、知らない方がいいことなのかもしれない。そんな不安ばかりが過(よ)ぎる。
彼はそのことを何も言わない。それは言う必要がなくなったからだろうか。それとも、こうして一度記憶を失くし戻った今、言うタイミングを失ってしまっただけなのだろうか。
もし、それが、例えば、別れの言葉だとしたら──。私は言えなくなってしまった彼をこうして縛り付けているだけなのかもしれない。
でも、何もそうだなんて決まったわけでもないのだ。今は彼の記憶が戻ったことを喜ぶ以外に、何を考えることがあるだろう。いくらあの日彼が何を言おうとしていたのか気になるのだとしても、それが言うべきことだとしたら、きっと彼から言ってくれるから──。

A bit of anxiety, something I have. But surely…

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