そのii 泡沫

喫茶店の中にいても分かるような激しい雨がガラスを叩き、視界のぼやける外の景色を見るのも疲れて、視線をそっと手元の本に落とした。
待ち人──私の彼は、昨日深刻そうな声で話したいことがあるから明日会えないかと私に電話を掛けてきた。その彼が指定した待ち合わせ場所がこの喫茶店。今までに何度か彼と来たことがあるお店で、マスターの凝ったらしい洒落た内装が個人的には好きだった。私の彼はあまり自己主張の強い方ではなかったけれども、最初にここに誘ったのは彼で、その後も時々ここへ連れて来てくれるから、きっと彼もこのお店が好きなのだと思う。そうやって彼の好きなものを私も好きだと思えたことは、素直に嬉しいことだった。
待ち合わせの時間まで幾許か、前の予定が早めに終わって時間より早くお店に着いた私は、いつものポシェットの中に忍ばせておいた本を取り出してこうして読んでいるのだった。それでも、予定の時間より早いと分かっていながら、彼が来るのを今か今かと気になって窓際の席に座り、時折思い出したかのように外を眺めてしまう。それもこの通り雨の前ではまるで意味のないことだった。ここに向かう中、この雨に打たれてしまっていないかと心配しつつ、そうは言っても連絡する手段もなかったから、ひたすらに待つことしかできなかった。

強い雨に押されて視覚ではなく雨音にいつ止むのかの判断を任せ、手元の本に集中しているうち、気がつくと約束の時間はとっくに過ぎて、雨も止んでしまっていた。ガラスに付いた雨水も随分と下がり落ちて、止んでからそれなりに時間が経っていることを伺わせていた。
それでも向かいの席は依然空いたまま。彼は未だ到着していなかった。窓の外を行き交う人にも見当たらず、喫茶店の入り口を眺めるもベルは止まったままだった。
雨も降っていたことだし、たまにはこういうこともあるかもしれないと思い、再び目線を手元の本へと戻す。すっと物語の世界に戻るこの感覚が好きだった。

気づけば物語は一章分が終わり、そこではたと気がついて慌てて時計を確認する。
あれからもう一時間と少しが経つ。彼は依然として来ないまま。少しの苛立ちと焦りの中、話したいことがあるらしい彼をいつまで待とうかと思案した。

でも、その日、彼がここに来ることはなかった。

外も暗くなり、連絡の手段がない限り、私は喫茶店を後にするしかなかった。今まで少し遅れることはあったけれども、約束に来ないことなんて一度もなかったから、私は彼の身に何か起こったのではないかと心配になっていた。
まだ少しだけ濡れた道路を小走りに家路を急ぐ。彼の家を知らなかったわけではないけれども、何事もなかったという無事が確かめたいだけ、家にまで押しかけるようなことではないと思ったから、家に着いてから彼の家に電話を掛けようと思っていた。
もしかしたら家に電話が掛かってきているかも、なんて淡い期待を抱きながら。

家に着いた時にはもう辺りは暗く、待ち合わせの時間も随分と前のことのように思えた。夜勤の父は幾らか前に急患で早めに出て行ったばかりだと母が言い、ちょうど入れ違いになったようだった。そういうことはよくあることだ。とにかく電話はなかったらしい。
母との挨拶も漫(そぞ)ろに、小説の入ったポシェットを傍らに置いて、電話の前に立つ。今までにも何度か電話をしていたから、電話番号は何も見ずとも空で覚えていた。
そっとダイヤルを回してコール音。
一回、二回──、六回、七回──、何度目だったか、未だ途切れることのない音に、もう手にした受話器を置く以外止める方法がないような気がした。
いつもなら、彼か彼の母親が電話に出る。彼の母親とはこうして電話をしたり彼の家に遊びに行ったりするうちに顔見知りになり、そのうち世間話もするようになって、宛ら歳の離れた友達のような間柄になっていた。だから電話を掛けることもさほど抵抗はない。一方で父親は、私の父と同じ病院で働いていて忙しくしているようであまり電話に出るようなことはなかった。
ただどうも今日はいつもと違う。彼は待ち合わせの場所に来ず、電話には誰も出ない。家を空けて何処かに出掛けているか──、それとも、何かがあったのか。そんな不安ばかりが募ってゆく。
時間も時間、今から彼の家に行って確かめるのも気が引けて、明日もう一度電話してみようと、そう思ってこの日は寝ることにした。

翌日、目覚まし時計を掛け損ねた私を起こしたのは、彼の母親から電話が来たという知らせだった。私は相手が電話なのをいいことに髪を梳くことさえせずに起き掛けのまま急いで電話口に立つ。そうして受け取った受話器から聞こえてきたのは、元気のない声だった。
軽く挨拶を済ませてから彼の母親が言ったのは、昨日彼が雨にスリップした自動車と交通事故に遭い、幸い軽傷で済んだものの今も意識不明の状態で入院しているということだった。
それは、ちょうど私とのデートに行く途中だった。
それが、彼が喫茶店に来られなかった理由だった。
いや、それよりも──、意識不明?
私がその言葉に当惑している中、彼の母親は彼の入院している病院──私と彼の父親の勤める病院だった──と部屋番号を告げて、息子がそうした迷惑を掛けたこと、連絡が翌日になってしまったことを強く詫びた。それから、良ければ見舞いに来て欲しいとも。
そうして戸惑っている間に終わってしまった電話を前に、私はただ呆然と立ち尽くしていた。

そうして呆けている私を呼び戻したのは母だった。杜撰(ずさん)な格好を慌てて整え、私は最小限の荷物だけをポシェットに入れて、急いで病院へと向かった。
ただ、最も私が衝撃を受けたのは、彼が事故に遭ったなどということではなかった。

I do hope you remember yourself, and your sweetheart…

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