その53 得たもの ─ 創英

喧嘩。それがどういうものか、粗方想像はつくが未だ経験したことがない。いや、そのように言えば間違いだろう。喧嘩したにしても、そのことを覚えていないわけだ。今の僕の意識の上で、喧嘩などした覚えがない。
ところで、先日、僕と美由さん、それから義直君と知美さんで一談を交えた。そのとき、僕は途中から知美さんと話していて、美由さんと義直君は別のベンチで話していた。僕らが元いたベンチ──つまり、美由さんと義直君が座っていたベンチに戻ってきたとき、その二人は何故か喧嘩していた。二人は互いに一緒にいたくなかったのか、僕たちに帰ろうと提案した。それから僕は美由さんと帰ったのだが、彼女は一向にその喧嘩の原因を話してはくれなかった。かといって、義直君に直接聞くのは癪だし、知美さんには何の連絡手段もない。結局のところ、この日は喧嘩の原因は分からず終いとなった。なんとも、すっきりしない結果であった。
その次の日。
美由さんの提案で、僕らは加恵さんや信彦君と会うことになった。僕たちはその二人に会うつもりで、あの神社を訪れた。しかし、そこには何故だか知美さんと義直君もいた。あとで訊いたところによると、昨日の代わりだそうだ。彼らは少し離れたベンチに座っていて、僕が二人のところに行こうとしたら、美由さんに注意された。しかし、僕はあれからの二人が気になって、彼らの元へと行った。そうしたら義直君に追い返された。二人とも一体どうしたのか、僕が理解するには乏しい域にしか達せなかった、云々。
とにもかくにも、僕はそんな二人を気にしながら、ベンチに座っていた。
それから、幾らばかしか経って四時前になった頃、美由さんは用事があるといって帰っていった。そして、また、僕はあの二人を気にしながら加恵さんと話していた。ちなみに、この日の信彦君は実に静かだった。不思議なこともあるものだ。
八月三十一日、夏休み最終日のこの日──つまり、加恵さんや信彦君と会った次の日に、美由さんから電話が入った。昨日四時前に別れてから、初めての会話だと思う。
「一つお願いしたいんだけど」
「お願いって?」
「義直君に、もし学校とかで何か私のことを聞かれても何も話さないで欲しいの」
「えっ、なんで突然、そんなことを?」
「理由はまた話すから。とりあえず一週間、義直君と話すときに私の話題にしないで欲しいってこと。創英君から持ちかけるのも駄目だからね」
「う、うん……」
なんとも、変なお願いだ。
「そういえば、知美が創英君と話したいって言ってたけど、どうする?」
「知美さんが? 僕はいいけど……」
「じゃあちょっと待ってて」
そう言って、電話は切れた。待つ? 待つって、どういうこと?
僕はそのよく分からない注文に頭を悩ませていた。
それからしばらくして、電話は再び鳴り出した。僕は何だか美由さんの言っていた意味が分かったような気がして、その受話器を上げた。
「もしもし」
受話器から出る声の主は、そう言った。
「知美さん?」
「はい。ええっと、昨日はすいません。気付かなくて……」
「いえいえ」
「なんだか見苦しい姿を見られてしまったようで恥ずかしいんですけども。とりあえず義直君の弁解をさせてもらうと、あれは別に彼のせいではないので……」
「えっ、じゃあなんで?」
「理由なんて、訊かないで下さい」
「ご、ごめん……」
いや、別に怒るような口調じゃなかったのだけども、やはりそこは謝っておくべきだろうかと……。
「……こちらこそ、ごめんなさい」
「いいよ。訊いた僕が悪かったから……。それより、この間美由さんと義直君が喧嘩した原因って何だったの?」
「えっ?」
「いや、美由さんが何も教えてくれなくて」
「内緒にしておきたいんじゃないんですか? それなら私からは何も言えませんし……」
「隠し事?」
「いや、そういうものではないと思いますけど。何か明かしたくない理由があるとか、そういうのではないんですか?」
「さあ……。あの時のことを訊いても、つぐんだまま何も言ってくれなくて。そっちは?」
「義直君ですか? あのあと、彼の家に行ってから、ずっと美由ちゃんの文句ばかり言っていたけれど」
「何それ……」
「どこか吹っ切れたような感じで、私が帰る少し前くらいまでずっとそうだったと思います。きっと溜まってたものが一気に出たのではないかと」
「それで?」
「そのときにどうして喧嘩したのかと言うことも、言ってくれたけれど」
「そう……。じゃあどうして美由さんは教えてくれないんだろう」
「美由ちゃんに直接聞くのが一番早いのでは……」
「そうは言っても、教えてくれそうにもないし」
「とりあえず、一度くらい訊いてみてもいいのではないですか?」
「うん。とりあえず訊いてみて、それで無理ならもう諦めるよ」
「はい。ええっと、私は少し用事があるのでそろそろ。美由ちゃんがもう一度電話して欲しいと言っていたので、それだけ伝えておきます」
「うん」
「ああ、それと……また掛けていいですか?」
「う、うん。勿論いいけど、で──」
「ありがとうございます。それでは、また」
……。
理由を訊こうかと思ったのに、何故か上手く丸められてしまって。聞けず終いで、電話は向こうからしか掛けてこられなくて。僕は、何か、物凄い特権を得られてしまったような気分になっていた。
「もしもし」
「ありがと。別に何か用があったから、掛けて欲しいって頼んだわけじゃなくて……、少し話していたいって言うか……。うん、そんな感じで……」
と、まあ僕は伝令の通り、再び美由さんと電話で会話している。
「今、いいよね?」
「うん。もちろん」
「なんだか、少し憂鬱で……、すっきりしないんだけど、その理由が分からなくて」
「ユーウツ? 嫉妬でもしてる?」
「えっ? いや、そういうのじゃないんだけど……」
「じゃあどんな感じ?」
「どんなって……、なんていうか、切ないのかな?」
「……僕がいるのに?」
「うん……」
何が切ないんだろう。僕には、何も想像がつかなかった。まるで、遠くに行ってしまった友達を懐かしむようにも聞こえる。でもそんな話は聞いたこともない。結局、この日は美由さんの言う感情の理由は分からなかった。
それから一週間ばかり経った。
僕はこの一週間、ごく普通に大学へ通って、講義を受けていた。所々で色んな人が話しかけてくるものの、相手が認識できず、事情を説明することが繰り返されていた。
義直君とは大学内でたまに会った。そんなときに少し話をするけれども、彼からも美由さんのことは何も言われなかった。ごく普通に、他の人と同じように話しかけてくるのみで、知美さんのことも、彼はあまり話さなかった。おかげで僕も何となく訊きにくくなっている。
知美さんはあれから一度も電話はしてこない。もちろん掛けていいかどうか訊かれたことも、それを承諾したことも義直君には内緒だ。ともかく、彼女から電話はかかってこない。つまり音沙汰なしで、連絡が取れないということだ。
信彦君や加恵さんも同様で、とくに連絡はない。彼らは相変わらず仲良くやっているのだろう、多分。なんだか理想的な付き合いの形だって、そう思えるのは僕だけなのだろうか。
日曜日、九月四日。新学期が始まって、初めての日曜日。
まだ慣れない大学の生活を、やっと一週間終えたところ。美由さんはその間に、月曜日と火曜日、それから木曜日に電話してきた。大学はどうだとか、もう慣れたかだとか、なんだか親みたいなことを聞いてきていた。美由さんを心配性だと思わなくもないが、なんせ僕はこの通りなので無理もないだろう。身を案じてもらえるというのは、それだけでなんだか嬉しく微笑ましくなることだ。でもそれほど構ってもらわなくても、という風に、お節介なのは玉に瑕だが。とにかく僕は、そのお節介を快く受け止めることにしている。
ところで今日は、五日振りに美由さんに会う約束をしている。たかが五日されど五日のその間隔は、長いような短いような。これからそんな日が続いていくんだなと改めてそう思う。喧嘩の理由? それこそ、僕は知らない方がいいかもしれない。

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