その52 あの時のように ─ 信彦

心変わりか、それも気紛れなら。
幸せを装うって、何の疑いもないように。
綺麗に見せようって、失望なんて消し去るために。
何かに紛れた悲しみを、浮かびあがるように仕向けられたら。
疑い?
何の疑いも持たずに、無垢な子どものように、過ごしてきただけじゃないだろうか。
今あるものが、突然消えたら。
いや、今あるとは限らない。
それが確実にあるという確証なんて得られるはずがない。
常にある一定の疑いも持ち据えておくべきなのだろうか。
見事に騙された。本当は二時だったのに、一時半に呼び出された。先に来て、二人で話したかったんだそうだ。おまけに“のぶちゃん”って呼ばれる始末。僕も昔のように呼ぼうとすると、引きつってるって言われてしまった。それに結婚がどうのこうのって言っている。好きなときにプロポーズしてくれればいつでもOKするって、それではなんだかしょげてしまう。そういうことの緊張って、大切だと思うのは僕だけなんだろうか。告白にしたってそうだ。なんだかビクビクして告白して、ドキドキして返事を待つのに見事に流されてしまう。ベッドがどうのこうので、無駄にドキドキした自分は一体なんなのだろう。ああ、本日の加恵は増してそんな感じがする。毎度毎度、何かしようにもすらりとかわされてしまう。常々、主導権は加恵にあるような気がするのだ。つまり僕は引っ張られていく身なのだろうか。明けても暮れてもこれでは……。
二時過ぎ。つまり、約束の時間にあの二人はやってきた。
「ごめん、ちょっと遅くなっちゃって」
ちなみに現在の正確な時間は二時三分だ。でも僕は十分に遅い──つまり加恵が早すぎる時間を教えたのだが──と感じていた。
「たった三分でしょ? 気にすることないって」
「三分? 五分くらい遅いような気がしてたんだけど……」
「五分にしても別にいいけどね」
「あれって、義直君じゃない?」
と、突如創英君が叫んだ。指を差している方からすると、先ほど挨拶をしに来た、加恵が創英君のお見舞いに行った時に会った人のことらしい。
「わざわざ構わなくても……。別に放っておいたらいいでしょ」
と、美由ちゃんは言う。どうやらあの男の人は美由ちゃんとも知り合いらしい。
「少し話してくるくらいならいいでしょ?」
そう言って、創英君は向こうに駆けて行った。
「全く、向こうは二人でゆっくりしてるんだろうから、わざわざ邪魔しに行くことないのに……」
美由ちゃんはそうぼやいて、溜息をついていた。
「友達?」
と、加恵は訊く。
「うん。中学校の同級生で……」
「えっ、でも創英とは別の中学校だったんでしょ?」
「うん。どういう廻り合わせなんだか、創英君の大学に彼も行っているらしくて」
「へぇ……」
「おかげでやり辛いんだけどね」
「なんとなく分かるよ」
そう言って、加恵は苦笑いしていた。そのとき、義直という人物の元へ行っていた創英君は戻ってきて、
「なんだか知美さん、泣いてるみたいなんだけど……」
と、美由ちゃんに告げた。つまり、あの一緒にいた女の人か。さっきまであの二人は仲良さそうに寝ていたけれど。さほど暑くもなく、過ごしやすい日なのでそれは無理もないだろう。
「そうなの? まあ、義直君に任せておけば大丈夫だよ」
それを聞いた創英君は何故だかぽかんとしてる。僕は改めて向こうにいる二人を見てみる。泣いてるって言われれば確かにそうも見えなくもない。その理由は定かではないけれど。
「それよりあれからもう一ヶ月も経ったんだよね?」
「うん。相変わらずこんな感じだけどね」
と、美由ちゃんは創英君を肘打ちして言う。創英君は黙っているが、そんな美由ちゃんを横目で見ている。
「あの海岸へ行ってみたんだけど、結局何もなくてさ……」
と、少し残念そうに言う。
「別にがっかりしなくても、他にもあるでしょ?」
「いや、もう待ってみることにするよ。なんだか疲れちゃって。しらみ潰しにあちこち回るより、待ってる方が楽でしょ?」
「それはそうだけど。でも、いいの?」
「創英君も、無理してまで戻ってきて欲しいとは思ってないから。ねえ?」
「うん。思い出したらそのときはそのときで」
「まあ二人の好きなようにすればいいけど、私に頼られてももう助けられないからね?」
「分かってる。頼ってばっかりじゃいけないものね」
「それもあるけど。あんまり構ってばかりだと……、ね?」
「嫉妬しちゃうってわけか」
嫉妬?
「そういうこと」
「誰が?」
「張本人が何言ってんだか……」
と、加恵はそう漏らして、美由ちゃんと話を続けた。
僕は、加恵が他人に構ってばかりだと嫉妬する? 分からなくもないが、最近はなんともいまひとつな気がするのは気のせいだろうか。その、今の僕の嫉妬心ってものはくすぶる火のようで、どうも最近は炎にならないというか……。
昔、高校時代に加恵があの創英君と美由ちゃんの間に入って一役する、少し前の話。高校一年生のとき、加恵は創英君を構っていた……というより茶化していた。馬鹿にしてたっていうわけじゃなくて、妙に煽ててみたり揚げ足を取って笑ってみせたり。それを創英君はつまらなさそうに見てたけど、加恵は楽しそうに創英君と話していた。
彼が記憶喪失になって、加恵が暢気に“好きな人まで変わっちゃったみたい”って言ったとき。あの時は、高一での加恵と創英君の話している様子がなんだか鮮明に蘇ってきそうで少し怖い気もした。
それから、数日して加恵が突然“本当らしい”と言い出したとき。そのときもまた、同じように。高一の時、加恵は一体どうして創英君に構っていたのだろうか。クラスの中で単にハイテンションになって盛りあがっていただけの彼に、何故加恵は話しかけたのだろうか。僕にはその意図が全く分からなかった。
そして、今も。
“わからない”。
その事実は、僕に煮えきらないようなくすぶる炎で、妙な不安感というものを生み出したらしい。
それから幾らか経っても、加恵は美由ちゃんと延々に話していた。目の前にいる創英君は、まだあの二人のことを気にしているようだ。その“あの二人”──義直さんと知美さんというらしいが、相変わらずあのベンチに並んで座っていた。二人は軽く空を眺めて、何やら会話を交えているらしかった。時々、頷いたり、首を振ったり、二人して笑ったりしている。たまに恥らう彼女と、そんな彼女の肩を軽く抱いて空を見上げている彼。僕にはなんだかそんな二人が羨ましく思えてならなかった。
比較して傍らにいる、美由ちゃんと話しっぱなしの僕の彼女(?)を軽く見上げてみる──つまり、座高でも僕は負けているのだが。中学校のときの胸に巣くう、いけ好かない気持ちは、今となっては遠いところにあるような気がする。でも高校のときの胸に巣くう、いけ好かないと思う気持ちは、案外近くにあるらしい。確かに、僕は胸を張って加恵が好きだと言える。でも、最近何か別の気持ちが疼いているのは確かだ。好きなんだけど、こうして隣にいるけれど、とりあえず彼氏彼女という関係に収まったけれど、何だか納得がいかない。もちろん、そこには創英君や美由ちゃん、あそこにいる義直という人もいて、だからこそこんな気持ちであるような気がする。近いのに、遠くにいて……、手が届くのだけれど、いつでも会えるのだけど、何かない。そんな気がして。
掴もうと思えば、いつでも掴める。夜空に浮かぶ、星みたいに遠い宇宙の彼方にあるものとは違う。行けど行けど、そこへは行けない虹のふもととは違う。見えるのに、誰も着いたことのない地平線という名の地の果てとは違う。そういう存在じゃなくて、ここに、今の僕の近くに、その隣に、在る。
在るけど、ナイ。無いのではなくて、ナイような気がする。遠くに、遠くに、果てしなく。思えど、思えど、満たさなく。終いに、取り切れない思いが何だか自分を押しつぶしてしまいそうな気がしてならない。ナイものを求めて、広い砂漠に旅に出ても、高い山に登山に行っても、きっと見つからない。安心とかそういうものではなくて。どれだけ強く抱きしめても、まだまだ抱きしめ足りなくて。何処にあるんだろう。なんとも満たされない、このナイというものは。
不安感と虚空感。“あるのにナイもの”が、生み出したもの。多分それは創英君に原因があるような気がする。目の前にいる彼は、以前の彼ではない。見た目は一緒だ。井出達も大して変わっていない。何が違うか。
それは突然消えてしまったカレだろう。いなくなってしまったカレの存在は、大して関わり合いのなかったはずの僕にも必要だったらしい。僕がナイと感じるものはそのカレであり、正確にいうと嫉妬というものを押しつけるカレだ。高校時代の光景、加恵が創英君の元へ行って楽しそうに笑う。それのおかげで、僕は物の見事にカレに嫉妬していたらしい。それから、嫉妬といえば何かとカレであって、カレといえばそんな高校時代の光景のことしかない。カレは僕にとって、嫉妬という心の宛所であり、満たされない気持ちの原因として結びつけられる立役者だった。
僕は知らず知らずのうちに、何か足りないと感じるのはカレのせいだと思っていたらしい。つまり嫉妬心というものも、カレがいたからこそ成り立っていたようなもの。カレがいるから、その原因をカレだと思える。でも、今そんなカレはいない。見えない世界にいる。ナイ状態のカレを、何の理由にも原因にも結び付けられない。
今の創英君がいくら加恵に対して好きだと言っても、僕にはそのことによって生まれた嫉妬心の理由が見つからない。理由が見つからないその嫉妬心はくすぶるばかりで、火がつかず、煙ばかり吐いている。煙はやがて心を覆い、何も見えなくなる。そうして奇妙な不安が立ちこめる。いうまでもなく、嫉妬の理由は全てカレにあるわけではない。でも、そんな単純なことを、僕は分かっていない。いない、この世にナイ、カレの存在の復帰を、待たずにはいられないのは美由ちゃんではなく、こんな僕なのかもしれない。
「ごめん、四時から用事があって……」
四時に用事があるらしい。つまらないな……。
「別にいいって」
加恵は美由ちゃんにそう返す。
「じゃあ、先に帰るね。創英君はどうする?」
「僕は、もうしばらくここにいるよ」
「ごめんね」
「いや、いいって」
「じゃ、また明日」
「うん」
そう言って、美由ちゃんは帰っていった。ベンチには、僕と加恵と他一名。神社の社前の広場には、まだ“あの二人”がいる。ちなみに言っておくと、美由ちゃんは二人の周りを弧を描くように大回りで帰っていった。“あの二人”はそうして美由ちゃんが前を離れて通りすぎていくのを見て、二人で少し笑い、また元の会話に戻っていった。冬ならそろそろ暗くなる頃だろうと思える時間、僕らはこうして異様な時を過ごしていた。
その帰り道。
創英君とはあの神社で別れ、僕らは二人で帰路を歩いていた。
いつもの道に、いつもの二人。風景は変わらず、雰囲気も変わらない。いつもと違うことといえば何処からかカレーのいい臭いがしていて、それが妙に食欲を揺さぶっているということくらいだろうか。この間は秋刀魚だったような気もしなくもないが、そんなことはどうでもいいだろう。なんだか、そんな気もしてきた。僕らは仲良く帰る友達のような感覚で、のらりくらりと道中を歩いていた。間隔だとか、そういうものは大して気にしていない。
敢えて言えば、いつもと同じ間隔でさして近いとも遠いとも言えない距離だった。手は繋いではいない。僕は加恵の隣で少し見上げて話すばかり。一方加恵は僕の隣で少し見下ろして話す。ああ背が高いという優越感にも浸ってみたいような、そんな欲求を生み出してしまいそうだ。
美由ちゃんが帰った後は、加恵は創英君と話していた。僕はなんだか向こうに座るあの二人が気になって仕方なかった。加恵はそんな僕を気にも止めていないようで、情報収集のように話していた。僕は一種の憧れでもあるような、恥じらいという感情を加恵に対して持ちすえていなかった。なにか具体的な理由があって、加恵を好きになったわけでもなかった。ただ一緒に長くいて、すっかりそうしていることに慣れていた僕の中では、好きという感情よりも独占欲の方が強かったのかもしれない。
もっと一緒にいたい、より長く、より永く。誰にも邪魔されない空間で。
そんな単純な独占欲だ。
だから一緒に居ることや話していることに対して、大それた意識もないのかもしれない。邪魔されたくない。ただ、それだけだろう。
……だとすれば、僕は身勝手でちっぽけな存在だ。きっと、たぶん、否、絶対。言うまでもないくらいに。何故だか排他的になってしまって、つまり加恵以外を認めていないのだろうか。いや、そんなことはないだろうけれど……。
愛も度が過ぎれば憎しみに変わるんだそうだ。なんだか危なくも境界線をうろうろとしていたような気がする。こういうものが上手く行かないのは、恋につきものだろう。何でも思う通りにいくなどという考えは、甘ったるいものでしかない。それを憎しみなどというものに変えてしまえば、もう元も子もないのだ。
「ねえ、のぶちゃん」
加恵は別れ際に、そう言って僕を呼び止めた。
「どうかしたの?」
と、それに対して僕は、柔和に受け応えした。
「……今更こんなこと言うのもなんだけど、謝らなきゃならないことがあって」
「えっ?」
「小学生のとき、二人の家族で海に泳ぎに行ったでしょ?」
つまり、あの寝つけなかった夜の日か……。
「うん。それが?」
「私、実はあの帰りに内緒で信彦にキスしてて……」
「……僕が寝てる間に?」
「う、うん……」
「ずるいよ、そんなの」
「ずるいって言われても……。そのときはのぶちゃんが人の話も聞かずに寝ちゃったから……」
それを聞いて、僕は何だか大きな溜息がつきたくなって、ついてみた。
「そういう意味じゃなくて、今更そんなことを明かすことがずるいの。それも、どうして今日みたいな日に?」
「今日みたいな……って何かあった?」
「えっ、いや、その……」
まさか、そこにある事実が嘆かわしいとは言えないし、早く創英君に記憶が戻ってきて欲しいと切に願ってしまったとも言えないし……。
「もしかして、のぶちゃんまだ気にしてるの? 寝るのがどうとかって話」
いや、それも理由としてはないこともないけれど、とりあえずはそんな理由じゃない。
「そういうのじゃなくて……、ちょっと嫉妬してたっていうか」
ああ、言い訳がましいことを言っている自分こそ、嘆かわしい。
「嫉妬? 創英に? それは気にし過ぎだって」
「そう言われても……」
しかも話に乗ってしまっている自分がいる。それが些か悲しくもなる。
「自然なことだとは思うけど。私にしてもそうだからさ」
「うん……。でもなんだか煮えきらないっていうのか、そんな感じで」
「嫉妬なんてそんなもんだよ」
それは、開き直っているようにも聞こえる。
「別にさして気にするほどのものでもないって。それより、何の話をしてたっけ?」
と、訊かれても言い辛いんだけど……。

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