その50 久しぶりの電話 ─ 加恵

一緒に在るという事実が、和ませてくれる。気持ちが通じ合っているという事実が、穏やかにさせてくれる。こうしていられるという事実が、意味のあることなんだろう。付き合うなんて関係をわざわざつくる意味もない。“のぶちゃん”はそういうことも気になるのだろうが、私はそうだと思わない。一緒にいられるなら、そんな口約束は意味も持たない。気持ちが通じるのなら、これだけ、それだけで十分だ。そう思うと、紙に書かれた契約書も、なんだか味気なく感じてくる。
“一線を越えること”。
それが怖いとは感じなくなったけれども。
八月三十日火曜日午前十時五十分頃。
夏休みは感じる間もなく終わってしまうというこの日。毎度お馴染みながら、家の電話が鳴った。多分信彦からだろう。そう思い、電話を手にしたが、私の予想とは違っていた。
「もしもし?」
そう言う声は、美由だった。
「もしもし、美由?」
「うん。なんだか久しぶり。突然だけど、今日会える?」
「もちろん。もう課題は残ってないしね。昨日信彦も明日は暇だって言ってたけど、どう?」
「どうって、一緒に来てくれたらいいかなと」
「分かった。じゃあ連絡しておくね」
「うん」
「それで場所は?」
「例の神社で。ちなみに時間は二時くらいにお願い」
「まあ時間の方はぎりぎりに思い出しても間に合うよ」
「近いからね」
「うん。じゃあ信彦にそう伝えておくから」
「それじゃあまた」
「うん」
それから、今度は信彦へ電話を掛ける。
「もしもし、久木ですが」
早速例のあれで呼んでみようかと思ったが、電話では面白くない。なら……。
「信彦? 一時半からあの神社で、美由が会わないかって言うんだけど、どう?」
「一時半? いいよ」
「じゃ、よろしく」
「うん」
予定時刻より半時間も早く信彦は来る。私も同時に神社へ行き、しばらく二人だけのひとときのはずだ。そこで、もちろん、あれを言う。
一時二十五分。
少し早めに来て、信彦がやってくるのを待つ。一緒に来るのでは、なんだか新鮮味に欠ける。つまらなくなってしまう。そこで、こうして待機だ。そうして私の計画は順調に進んでいく、はずだった。
腕時計が知らせるは、一時二十八分。
のぶちゃんこと、信彦が東の入り口からやってきた。
「のぶちゃん、早く」
と、私はベンチに座りながら信彦を急かす。
「うん。……って、なんで“のぶちゃん”なわけ?」
「なんだか呼んでみたくなったからさ。別にいいでしょ」
「そりゃ、いいけど……。しかし何だかこう、そう呼ばれると、妙にむず痒いんだけどな」
と、信彦はベンチに座りながら言った。
「気にしない、気にしない」
「加恵がそう呼ぶなら、僕も昔みたいに“かえちゃん”って呼んだ方がいい?」
と、信彦は眉毛をゆがませて言う。
「いや、なんか引きつってるから遠慮しておくよ……」
「えっ、引きつってる? そんなつもりはないんだけど」
「別に無理しなくていいって」
「無理してるつもりもないんだけどな」
「のぶちゃんは、自然体が一番だって。ね?」
「そう思うなら、わざわざそんな風に呼ばなくていいのに」
「これは別だって。なんだか思い出してたら、急に呼びたくなったの」
「思い出してたら……か。そういや今じゃ、あんなこともできないよな」
「あんなことって?」
「旅行行ったとき、たしか僕が寝られなくて一緒に寝たでしょ?」
そういやあの晩、のぶちゃんはぐっすり寝られたのだろうか、まだ聞けていない。
「なんだ、そんなこと? それくらいならいつでも言ってよ」
と、私が少し寄りかかって言うなり、信彦は赤くなってる。
「ちょっとそこ、深く考えすぎだよ」
「えっ、いや、別にそう言うわけじゃ……」
のぶちゃんは、益々赤くなる。昔から、のぶちゃんのこういうところを見ていると、何となく怒りや悲しみも何処かへ行ってしまう気がする。まあ、当の本人はかなり慌てていて、まっすぐに顔も見てくれないけど。
「もう、冗談だって。のぶちゃんはすぐ本気にするんだから」
「なんだ、冗談か……」
と、少し残念そうに言う。
「何、期待してたの?」
「そういうわけじゃ……」
「期待してくれてもいいのに。結婚だってしようと思えばできるんだし」
「結婚? せめて就職してからかな……」
「プロポーズでもしてくれるの?」
「僕が? まあ、なくても自然に結婚するんじゃない?」
「さあどうだろうね。とりあえず私は待ってるから」
「ずるいな、そういうのを人任せって言うんだよ」
「私はいつでもいいから、のぶちゃんの都合のいいときを選んでって言ってるの」
「なら今すぐにでもする?」
「もちろんいいよ」
満面の笑顔で。
「冗談なのに真に受けてるし……」
「まあ、のぶちゃんがいいと思うときに言ってよ」
「う、うん……。しかし、それにしても美由ちゃんたち遅いなぁ」
まあ、当然だ。半時間前に呼んだのだから。
「あっ、来たみたい」
えっ? そう思って私は腕にした時計を見る。
時間は一時三十五分。誰が半時間前に来ようか、私たちくらいしかいないだろう。でも信彦が見る方──西側だが──には、あの美由と創英によく似た背格好の男女がこちらへと向かって歩いてきていた。
よく見ると、全くの別人だった。でも男の方はどこかで見たような気がする。一体何処だったろう。私がそうやって悩んでいると、その神社へやってきた男は私に気付いたらしく、その彼女とおぼしき人を連れて、私の方へと来た。
「どうも」
男は私にそう言った。
「知ってる人?」
と、信彦が尋ねてくる。
「どこかで見た気がするんだけど……」
と、私は小声で返事する。
「ええっと、どなたさまで?」
「あの、橋田病院の203号室にお見舞いに行ったときに会った……」
「ああ、あのときの」
「って?」
と、信彦がまた尋ねてくる。
「私が創英のところに見舞いに行ったときに、途中で病室に入ってきた人」
と、私は信彦に囁く。
「へぇ……」
「先日はどうも」
と、彼は言う。
「いえいえ」
と、言っても少し──“どうも”と“それではお先に”の二言しか話していないわけで。それほどのことでもないと思うが、まあ軽い挨拶か。
「それでは」
そう言って、彼と彼の彼女はここから少し離れたベンチに座った。
「挨拶だけ?」
「そうみたい」
「それにしても、美由ちゃんたちは遅いなぁ……」
あ、まだ言えてない。
「ごめん、実は美由との約束は二時で」
「二時? まだ大分時間あるし……」
と、信彦が腕時計を見ながら言う。
「ちょっと早い目に呼んで、二人でゆっくりしようと思ったんだよ」
「いいけどさ、別に」
「そういや、あの旅行に行って一緒に寝たときって、よく寝られたの?」
「えっ、あのときは加恵の方が先に寝て……」
「うん」
「その寝顔眺めてたら、眠くなって……、それで寝たはず」
見られてしまったわけで。まあ、相手は信彦だし、どうこういうことでもないけど。私もちゃっかり覗きこんで、キスまでしてやったわけだし。
「そう……。それはよかった」
とにもかくにも、一安心と。

←その49  その51→

タイトル
小説
トップ