その49 越えること ─ 創英

青い海、打ち寄せられる波。こじんまりとした休憩所、そこに置かれたベンチ。通学用の自転車、流れてくる潮風。スピードを上げる自動車、広がる田園。
そこで見えないもの。そこにあったもの。そこを通っていったもの。そこから目指したもの。そこへ向かうもの。
……そこは想い出の場所、らしい。
……そこが想い出の場所、らしい。
……そここそ想い出の場所、らしい。
実感なんて、何もなかった。それを少し安心してしまう自分を何処となく悲しく感じていた。
昨晩の風呂上がりから就寝の間に電話が一本入った。
「創英、義直さんから電話よ」
風呂上り、すっかり火照った身体に一杯の牛乳を投入しようとしていたとき、母が先ほどから鳴っていた電話の元でそう叫んだ。僕はそれに軽く返事してから、手にしていたコップに入っていた牛乳を飲み干し、電話の元へ行った。電話は保留になっていて、母はテレビを見ていた。義直君からって、一体何の用事だろうか。そう思いながら、僕は保留を解き、受話器を耳に宛がった。
「もしもし……」
と、僕は不機嫌そうな声でそう言った。
「おう。明日暇か?」
それに対して義直君はこんな感じで、意外にも軽かった。
「明日? 暇だけど……。それがどうかした?」
「どうかした……って言われてもなぁ。う〜ん、明日の二時にあの神社に来てくれないか?」
明日の二時にあの神社?
「どうして?」
「お礼っていうか……、まあそんな感じのことが言いたくて」
「別に電話で言えばいいんじゃないの?」
「それでは、ちょっとな……」
「よく分からないけど……」
「まあその辺りはこっちの事情で。ともかく、明日来てくれない? 美由さんも呼んであるし」
「美由さんも呼んでるのか……」
「ああ。一人だけ呼んでもしょうがないしな」
「ん……、分かった。仕方ないから行くよ」
「そうか。悪いな、夏休みも終わるっていうのに」
「どのみち暇だからね」
「そう……。とりあえず明日よろしくな」
「うん」
「それじゃ」
と、いうわけで僕は神社のベンチに座っている。目の前には美由さんがいると思うだろうが、実は知美さんが座っている。
一方、美由さんと義直君は向こうのベンチにいる。我ながら、あの二人を“二人だけ”にしておいていいのだろうかと思うが、致し方ない。先ほど、知美さんが何やら話したそうにしていたので、こうして二人でいるというわけだ。もっとも、知美さんもあの二人を気にしているらしい。ずっと二人の方を眺めている。僕はそんな知美さんをテーブルに片肘をついて眺めてみた。確かに、“お姫様”と言われればそうも見えるかもしれない。しかし義直君って面食いだったのだろうか。美由さんにしてみても、器量がいいし……。
「あの……」
いつの間にか知美さんは向き直っていて、まじまじと見つめていた僕にそう言った。
「えっ、ああ、ごめん」
僕はまるで、とんでもない過ちが発覚したかのように慌てて、応じた。
「いや、なんか話したそうにしてたから呼んだんだけど……」
「あれは、創英さんにもお礼を言っておかなければならないなと思って」
「そんな、お礼なんていいよ。おかげで僕もあの日の夜はここで蛍見れたんだから」
「そう言われても、お礼はお礼だし……。ありがとうございます」
と、知美さんはそう言って頭を下げた。僕はなんだかそれが申し訳なくなって、
「いや、本当に僕からもお礼が言いたいくらいなんだから」
と、すかさず言った。
「……でも、お礼はお礼ですし」
そう言って、知美さんは下げた頭を元へ戻した。律儀だなと思いつつ、僕はそんな知美さんを眺めた。
「私からすれば、二人は目標みたいな存在で、こうなれたらいいなって思うんです」
「僕と美由さんみたいに? 僕も目標というか、憧れみたいな人はいるけどなぁ」
「憧れ?」
「うん。その二人は幼馴染で、昔から仲がよかったらしいし」
もっとも、本人から聞いたのだから間違いない、と思う。
「へぇ。何処かで会えればいいかな……」
「この神社によく来ているらしいけど。でも、ここで会ったことはないんだよね」
「そうですか……」
そういえば、義直君と加恵さんには面識があるはずだ。少しとはいえ、同時に病室を訪れていたのだから、出会えば分からなくもないだろう。その場で、義直君と知美さんが一緒にいれば、相手に対して意識して会えなくもない。まあ気付いていなくとも、会えればそれでいいか。
「私はまだなんだか一緒にいるっていう感覚が慣れなくて。だから二人が羨ましいんです。仲良さそうにしているのとか、会話を弾ませているとか……」
「僕らが羨ましい? 僕は知美さんと義直君が羨ましいけど」
その二人の間の微妙な距離感を、味わってみたい。
「えっ?」
「だって、どうやって逢ったかも覚えていないんだから……」
「……」
「付き合いたてでちやほやされるっていうのも、もうないわけだからね。仲良くなってしまえば、お互いに恥ずかしく思う感覚もないわけでしょ? 今の僕にとって、そんな感覚すら過去のものでもないのだから。思い出さないと、その辺りのことはどうにもならないもの。そういうものを、感じられるっていうその状況が羨ましいっていうか……」
「でもなんだか歯痒くて、ぎこちなくて、もどかしくて……。そんなのが羨ましいんですか?」
「そんなのだから羨ましいんだって。近くにいるのに、想いは通じているのに、遠いところにいるようなのが……」
「よく分からないですけど……」
知美さんは軽く首を傾げて、そう言う。
「美由さんは付き合い始めた頃から二人がどうだったか知ってるけど、僕にしてみれば付き合いなんてごく僅かだしね。おかげで引っ張ってもらうばかりで、少し情けないんだけど。まあ、そんなこんなだから付き合い始めた頃がどんな感じだったかは分からないんだよ。でもまだ付き合って間もない二人には、僕の見たことのない感覚が見えるってことだから」
「見たことのない感覚……?」
「例えば、美由さんに“お姫様”って言われるのも、羨ましいといえば羨ましいんだよね」
「あれは、私もよく分からないんですけど……。どうして私がお姫様? なのかって」
「多分、“王女様”だと言うんじゃなくて、“お姫様”だからこそ意味があると思うんだけどな」
と、僕は確信ありげに呟いた。知美さんはよく分からないという表情をしている。
「なんかこう、忠実心のある兵士たちに対して優しくて、気遣いもできて、面倒見がよくて。それでいて、綺麗で、可愛くて、非がないっていうんだろうか。お姫様ってそんなイメージがあるんだけど」
「それなら、私なんかお姫様から程遠い存在なのに、どうして美由ちゃんも義直君もあんなこと言ったんだろう」
「多分、遠いとは思っていないんじゃない?」
「私は創英さんの言うような、優しくて気遣いができて面倒見がよくて綺麗で可愛いようなお姫様とは、到底似つかないのに」
「まあいいんじゃない? 言われて悪いことはないんだし、僕もお姫様だって紹介されればそうだと思うし」
「でも……」
「別に自虐的にならなくても。せっかくだから、喜ぶくらいでないと」
「そう言われても……」
「う〜ん……」
「喜ぶにも、美由ちゃんにも義直君にも、ああやって同じこと言われると、何とも言えなくなるです。別にどちらか一人だけが言うのなら大して気にもしないんですけど、二人して言うことのはちょっと……」
「もしかして、美由さんに嫉妬でもしてる?」
「多分……」
「僕は義直君に嫉妬しているようなものだけど……。美由さんは単なる友達だと思っているらしいけれども、僕はそうは思えないんだよね……」
「私も……。何かそれ以上のものがあるって言うのか」
「うん。そんな気がする……。その、どれだけだっけ? 一年半くらいでしょ? それだけ一緒にいたんだから、」
「何か負けてるような雰囲気が漂ってて、」
「どうも一歩を踏みこめないと……」
そう言って、二人で溜息をついた。どうも、僕は義直君を越えなければならないようだ。昔の僕は越えているはずだ。それに倣って、僕も。
僕らはしばらくして二人の元へ戻った。僕らが戻って来たとき、美由さんと義直君の間にはなんだか微妙に険悪なムードが漂っていた。
「ねえ、創英君。義直君なんて放っておいて、早く帰ろう」
と、美由さんは僕に言い、
「知美さん。美由さんに構わず、今すぐうちに来ない?」
と、義直君は知美さんに言う。僕と知美さんは顔を見合わせ、そして、もう一度大きな溜息をついた。

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