その45 空白 ─ 創英

失ったわけじゃない。姿が見えないわけでもない。ただ、手が届かないくらい遠くにあるだけ。自分のものだということは分かっている。でも、それはまだ触れられないところにある。時間という遠さを感じつつ。経てば本当に帰ってくるのだろうかとも思いつつ。
何気に不安で。でもそれはいつまでも遠くにあって欲しいような気もして。
八月二十八日。
夏休みもあと数日。宿題なら、最後の追い込みをかけるべき日。でも、別段余裕がない状態ではないので、そんなことは構わなかった。それよりも今日はサイクリングだ。例の海岸へ。
でも。僕の心は波に揺れる流木で、なんとも癒えない気持ちだった。
朝も早く、まだ仕事なんてしている人はごく一部だろうと思われる午前六時。
僕は何故だか知らないが、起きようと思っていた一時間も前に目覚めてしまった。ベッドの傍らには、その用事を為すことのできなかった目覚まし時計が虚しくも置いてある。窓から見える空には、風をいざなうかのように、ぽつりぽつりと雲が浮かんでいる。どうやら見る限り雲一つない快晴とはいかないようだ。確かに空虚なまでに何もない空も、少し寂しいかもしれない。空という大きな絵に、装飾された雪のように雲は舞う。それは古く昔から人の憧れの対象であって、今となっては無限の可能性を秘めた場所。
可能性……か。これから美由さんと行く場所に、どれくらいの可能性というものがあるのだろうか。僕の記憶が戻る可能性を秘めた場所。その可能性を、僕はどう思っているのだろう。そうなって欲しいのか、そうなって欲しくないのか。僕自身、確かに病院にいた以前のことは何も覚えていない。断片すら残ってはいないようなのだ。
そこで敢えて残ってあるというなら、“感覚”だけだろうか。
食べたような感覚。いたような感覚。寝たような感覚。
そんなものばかりが残っていたように思う。だから以前の僕というのは、今の僕にとって想像と見聞でしかない未知の存在。自分であるはずなのに、全然予想がつかない。だからその存在に興味は、ある。
でも。記憶が戻ったとき、今ここにいる僕はどうなってしまうのだろうか。まさか消えてなくなってしまうわけではあるまい。でも、以前の僕の一人称は俺らしい。記憶が戻ったとき、それはどうなるのだろうか。そんな興味と不安という、プラスとマイナスの葛藤が僕の中で一つの争いを引き起こしていた。
午前八時。
自宅の出発予定時刻。僕はあれから二度寝しても仕方ないので、とりあえず朝食と用意を済まし、暇つぶしにテレビを見ていた。天候は晴れ時々曇り。降水確率は十パーセントという微々たるもの。雨も降らないだろうと思いつつ、とりあえず折り畳み傘をかばんへといれておいた。自宅を自転車にて出発した僕は、美由さんの街の駅を目指した。それから四十五分ほど自転車をこぎ続けた僕は、しばらく病院にいたせいもあってか、少し堪えていた。着いた駅には既に美由さんがいて、その場で合流した僕らは海を目指して走って行った。
「潮風を切るのって、気持ちよくない?」
あれから海岸道路に着いた僕らは、二人で並んで海沿いを走っていた。海からは潮風が吹き、それが身体に沿って流れてゆく。海にはヨットやクルージングの船が目立ち、防波堤で釣りをしている人なんかも見かけられた。
「う、うん」
僕は彼女の質問に、些かぎこちなく応えた。まあマウンテンバイクとか競輪みたいな感じの自転車なら文句なしだが、これはあくまで通学用……という感じじゃないだろうか。もちろん、二人とも。それではこの雰囲気にそぐわないというのだろうか、何かが違うような気がする。この自転車なら、風を切るというより風に運んでもらうというほうが気持ちいいだろうなと思いつつ、僕はそれを言わずに仕舞っておくことにした。
「私はこういうの好きなんだけど、創英君はどう?」
「いいんじゃない?」
我ながら、なんとも曖昧過ぎる返事だ。
「でしょ? やっぱりサイクリングするなら海! だよねっ」
なんだか今日の美由さんは弾けている。まるで、本当に海に泳ぎに来たみたいに。
「うん、そうだね」
ああ、もう空返事だ。
「それより、この風景見て何も思い出さない?」
僕は危うく本来の目的を忘れてしまうところだった。
「えっ、いや別に何も……」
ただ何処まで続いているか分からない海と、向こうの村まで続いている田園地帯とに、挟まれた海岸道路が長々と続くだけ。思い出すといっても、とくに記憶と思われるものは何も感じなかった。ただ、潮風の感じだけはあれから初めて来たはずなのに、なんとなく覚えているらしい。何処か懐かしいような、そんな感じの風。でも、それは確信というわけじゃなくてなんとなく。
無駄な期待をさせるくらいなら、黙っていようとそう思った。可能性、だなんて。おおよそ確率的なものでしかないのに。自然にそうなればいいなと思うのに、美由さんはそれを必然だと思っているらしいのだ。だから、ここへ来て、もし何の変化もなければ、美由さんをがっかりさせるだけかもしれない。かといって、喜ばそうと嘘で記憶が戻ったように振舞うのはタブーだ。でも、戻らぬのなら少なからず落胆させてしまうだろう。
一方の僕は、できれば記憶は今戻って欲しくない。今の、一人称が“僕”である僕のままで、もうしばらくありたい。ここへ来ようと何ら変わらず、いままでのままでありたい。確かに一ヶ月とちょっとの間この世にあっただけの人格で、主たる人格ではないのだろう。でも、今の“僕”である僕にとっては大いに主人格であって、この人格しか知らないのだ。記憶が戻るということは、何処か知らない世界へと行ってしまうのだろうか。何かが確信に変わったとき、今の人格は消える……? それは、僕が“僕”でなくなって“俺”になるということ? 今の僕が見もしない光景が、自分と重なる感覚ってなんだろう。まるで一つのジグソーパズルに関係のないピースが上手くはまってしまうようでなんだか嫌だ。そのピースが本来あるべき場所は、知らない世界なんだ。いや今の僕が、この世にあるべき存在ではないのだろうか。関係のないピースが今の僕で、その周囲に広がる一箱分のピースこそが本来の僕──いや、俺というべきか? あらぬ存在が今の僕なら……、美由さんの思うように元へ戻るべきなのだろう。元の僕である彼は、今の僕に対して排他的なのだろうか。いるべき存在でないのだろうか。そんな風にひどく感傷的な気分になりつつある僕は、美由さんによって引き戻された。
「……どうかしたの? 創英君」
「えっ、いやなんでもないけど?」
「ほんとに? なんだか最近よく悩んでるみたいだけど……」
「そんな大したことじゃないよ」
「別に大したことじゃなくても、抱え込まずに何でも相談してくれればいいのに。すっきりするまで乗るから。ね?」
「う、うん……」
僕は、なんだか自分自身を排斥しようとしているように思えてきて仕方なかった。

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