その43 Together & Forever ─ 加恵

私は信彦だけを、恐らく信彦も私だけを、恋愛対象としてみてきたんだと思う。
つまり、私は信彦だけを好きになったということ。
つまり、信彦は私だけを好きになったということ。
それは、他の人を好きになったことがないということだ。だから私たちは、恋愛経験が豊富で、しかもその上に沢山経験を積んでいるというわけではない。知っているのは、ただ信彦を好きであるという私だけ。私の中では、恋愛とは信彦でしかない。もしそれが万一信彦でなくなった場合、私はどうすればいいのか全く分からない。もちろん私自身が信彦以外の人を好きになるという想定もしていないし、信彦が私以外の人を好きになるという想定もしていない。
でも仮に。あくまで仮に、他の人を範囲内に含める必要が出てきた場合、どのようにすればいいのだろう。それに、それはどんな感じなんだろうか。
信彦以外の人を好きだと感じる感覚。信彦以外の人を意識してしまう感覚。信彦以外の人を思い、馳せる感覚。
なんだかそんなことを考えていると無性に怖くなってきた。そんな自分が本当にいるのだろうか。それよりも、いつまでも信彦と一緒に想い合うことができるのだろうか。私は知らず知らずのうちに、切に、彼と共に永遠にいることを望んでいた。
八月二十六日金曜日。
私と信彦は、私の部屋にいた。窓は開放、扇風機は全開、服装はこれでもかとラフな格好で。先刻に話した家に唯一あるエアコンは、リビングについているものだ。先日、私が信彦と泳ぎに行った日は、私が帰って来るまでに直っていた。だから信彦は壊れていたから泳ぎに行ったなんてことは知る由もない。それに私はそのことを言うつもりもない。だいたい、そんなことを言ってしまえばせっかく泳ぎに行った雰囲気が台無しになる。ああ、勿体無い。だから黙っておくことにする。
とにかく、この部屋は暑い。でもエアコンのあるリビングには行かない。別にリビングへ行ってそこで雑談を交わすこともできなくはないのだが、なんだかそれでは信彦と話しているという実感が沸かないというか、周りの風景がその光景にそぐわないというか、なんて言えばいいのだろう。とりあえず、リビングでは駄目なのだ。ここでないと。だから私はこの暑い部屋で、窓開放、扇風機全開、服装ラフでだらっとしている。暑さに負けているのは目に見えているのだが。信彦も同じように堕落した格好で、上から押しつぶされたかのようにへたっている。
「暑い……」
さっきから、二人ともそれしか言わない。なんとも過酷な状況下にあるが、それでもリビングはナンセンスだ。リビングの椅子に二人で腰掛けて、クーラーに当たりながら雑談する。……まるで新婚生活の夏場を思わせる雰囲気だ。別に扇風機が不便だとは言わない。あれも固定して当たりっぱなしでいれば早々暑くも感じないし、明らかにエアコンより健康的だ。でも生憎この部屋には一台しか扇風機がない。二人で固定して均等に当たろうと思えば、相当距離を詰めないと無理なのだ。道理としては構わないのだが、なんせこの暑さ。寄って当たろうという気になれない。
「ねぇ、リビングに行こうよ」
信彦が何度目か分からない台詞を言う。
「そう言われても」
「こうも暑いとなんでここにいるのか分からなくなってくる……」
確かにこうも暑くては、会話も全然弾まない。
「リビングならエアコンあるし……。別に僕がリビングに行けないってわけでもないでしょ?」
「それは大丈夫だけど」
まあその辺りは、うちの親も信彦の親も認めている。大方、親のプライベートルームくらいに入らなければOKだろう。他の部屋は自由に出入り可能のはずだ。冷蔵庫の中? その辺りはよく知らないけど。
「なら別にこんな暑い部屋より、リビングの方がいいじゃない」
“こんな”っていうのがなんか気に障るけど、差し詰め信彦がちょっと苛立ってるってところだろう。あんまり気が進まないけど、致し方ない。移動するしかないか。
「なんだか生き返ったような気分……」
リビングのエアコンの風が直接当たる位置にある椅子に座った信彦は、まるで暗く狭いところから出てきたかのようにそう言った。私はその向かいに席に座りながら、そんな信彦を頬杖をついて眺めていた。ささやかな幸せを顔に浮かべる信彦。テーブルの上で、やっぱりさっきと同じように上から押しつぶされたようになっている。さっきは暑くてだるいから。今は涼しくて心地良いから。その違いは信彦の表情にはっきりと表れている。ここにいても、私の部屋にいるときと同じようにあまり会話はないような気もする。もちろん居心地はこっちの方がいいのだけども、信彦は見ての通り。いかにもやる気なんて沸きそうにない。信彦はあまりに心地良いらしく、すっかり部屋で和んでいる。私は汗がエアコンで冷やされて、寧ろ寒いくらいなのに。冷えすぎて寒いと感じるよりは、暑い方がまだましだと考えるのは私だけなんだろうか。私は椅子から立ち上がり、エアコンの温度を二、三度上げた。部屋にはピッピッとリモコンが発する音が響く。信彦はその音に気付いてこっちを見たものの、また元の姿勢に戻った。ちなみに外は言うまでもなく、音の世界は蝉の天国だ。だからといってそれを気に留めるわけでもない私は、外していた幾つかのボタンを止めながら座っていた椅子へと戻った。
「もしかして寒い?」
信彦が顔を上げて訊いてくる。
「えっ、いや別に気にするほど寒くはないよ?」
「でも寒いことには変わりないんでしょ?」
「う、うん」
「別に温度設定は僕を気にしなくていいから。遠慮なく変えてくれていいよ」
そうは言うけども、ここは私の家なんだからそれほど信彦に遠慮するような必要もないと思うんだけど。それが信彦なりの優しさだというなら、信彦の家に行っても同じように言ってくれるのだろうか。
こんな信彦だけど、私はそれでもそれだからこそ、ずっと一緒にいたいと強く想う。まだ人生なんてものは平均寿命まで生きたとしても四分の一も来ていないけど、それでも今までずっと一緒にいた仲だ。一番近くて、一番心が許せて、一番安心できる人。だからこそ、世の中で一番好きだと想える人。確かに喧嘩だって今まで数えきれないくらいしてきたし、それによって仲違いになることもしばしばあった。だから、世の中で一番憎らしいと思える人だ。でもそれは裏返してみれば好きだということであり、嫌いだからじゃなくて好きだからこそそう思うのだろう。例えば信彦が幸せだと感じるのならそれを共感したいと思うし、悲しいと思うのならそれも同じように思っていたい。決して信彦自身の喜びが二人にとっての喜びに繋がるとは言い切れないけど、それでもできる限りそうありたい。信彦がそうしたいと言うならできるだけそうしてあげたいと思うし、それが嫌だと言うのならできるだけそうはならないように少なからず考慮したいと思う。
まだ愛とかそういうものでなくて、純粋に好きだったあの頃。信彦は初めてキスしたのは、この間のあの神社だと思っているに違いない。でも旅行に行った帰りの車で、疲れきって寝てしまったのをいいことに、隠れてキスしたなんてことは到底知らないだろう。そのとき私は嬉しくて思わずはしゃいでしまった。それを何事かと思ったうちのお父さんが尋ねてきて、何でもないって子どもながらに必死に隠していた。そんなことをしても不審に思われたことには違いないのに。
あのときの信彦の寝顔は、今となってもついさっきのように思い出せる。まだ無邪気で可愛くて、どう足掻いても人を憎めそうにないような幸せそうな顔。疲れきって満たされて、自分の中に収まるだけの楽しみを詰めこんだような顔。あるだけのパワーを使い果たして、十分に満足のいくだけ遊びきったような顔。
私としてはあの頃はほんの悪戯心で、大して深い意味もなかった。ただ好きだという思いはあったから、それが多少は影響していたのだろうけども。それでもあのときは、なんだか満たされたような気持ちだった。たとえ強く抱きしめても、たとえ永く一緒に居ても、たとえこの上なく想っても。それでも満たされないような何かが、満たされたような気分だった。今思えば、またあんなことをしてみれば足りない何かが得られるような気がしてならなくて。こうして信彦といることは単なるあの頃の免罪符かも知れないけれど、それでも傍に永く長く居たいと思う。
そういえばその頃は信彦はまだ“のぶちゃん”で、私は“かえちゃん”だった。いつからかしら、それは呼び捨てで呼ばれるようになってしまったわけだけど、あの頃のままでも悪くはないと思う。また……、あの頃のように呼んでみようかな。

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