その40 可能性に懸けて ─ 美由

昔の彼は、冷静沈着だった。少し奥手なところもあったけれど、それは私だって変わりはなかった。物事には的確に対処。怒りは押えて対話によって問題解決。私は彼のそんな所がとても格好よく見えた。
昔の彼は、男友達と親しく話していたように見えた。でもその一方で、そういうものに飽き飽きしていたような感じもしていた。なんだか仕方がないから相手をしているような感じに見えて仕方なかった。気だるいというか、かったるいというかそんな感じだった。加恵が最初に創英君に話しかけるときの口実もそうだったような気がする。
昔の彼は、私に対して無口だった。クラスの男友達や加恵なんかに対しては、極々普通に話していた。だから単に緊張していて、言葉が出てこなかったのだと思う。私もそうだったから。
創英君の記憶を辿って。どこか、思いつく所を挙げてみる。
あの漫画があるブックストア。
私たちが出会った高校。
帰りに寄ったカフェ。
サイクリングした海岸線。
他にも沢山挙げられる。そのうちのどこへ行けば良いだろうか。
八月二十三日火曜日、創英君の部屋。
私の部屋とは違う、畳の埋め尽くされた彼の部屋は何となく温もりを感じさせてくれるような気がする。靴下の下からその微妙な温もりが伝わってきて、こうしているのが心地よい。彼の記憶を探り、思い出すためのきっかけになりそうなところを彼に提案するため、こうして私は彼の家を訪れていた。
「次の日曜日って、空いてる?」
「日曜? 予定どころか何もすることがなくて暇なくらいだけど、何かあった?」
「創英君が退院する前に、私が色んなところ行きたいって言ってたでしょ? 次の日曜がちょうどいいかなと思って」
「別にいつでもいいけど……」
「何か気がかりなことでもあった?」
「いや、あの、事故以前の僕と行ったところへ行くんでしょ?」
「そうだけど」
彼は大きな溜息を出して、空ろにこう言った。
「……ねぇ、記憶が戻ってくるってどんな感じだと思う?」
「えっ?」
そんなこと、考えてもみなかった。
「今、ここにいる僕の中に昔の僕の記憶が突然現れて、いろいろな感情が混ざり合ってくるのかな」
「でも、記憶が戻るって決まったわけじゃないでしょ?」
「それはそうだけど……」
彼は間を空けて、ぼやくように言う。
「でも美由さんはそうあって欲しいんでしょ?」
「う、うん……」
「そうして願う限り、僕はそうしたいって思うから記憶を取り戻そうって方向へ向かっていくわけじゃない。すると記憶は戻ってくる可能性が高いはずでしょ?」
「うん……」
「急に沢山のモノが流れこんでくるような感覚って、どんな感じだろうね……」
「……」
私は、段々と反応が希薄になっていった。真面目に聞いていないわけではないのだけども、彼に対して何と言っていいのか分からなかった。確かに私は創英君に記憶が戻って欲しいと思っている。あの出会った頃の創英君にまた逢いたいと思ってる。でも創英君は記憶が戻って欲しいとは願わず、逆にそれが嫌らしい。その気持ちが分からなくもないけれど、私自身がその立場に立たされているわけではなくて。
“記憶”は彼のものだ。私がそれを色々と言う権限はない。そうすることが創英君にとって苦になるなら、そうまでして戻って欲しいとは思わない。私は彼が好きなのだから。好きな人に押しつけて、苦労させてまで得たものなんて嬉しくもない。
「あんまり気が進まないけど、とりあえず行ってみよう。その、一緒に行ったことのある場所に」
彼はさっきとはまるで逆のことを言い出した。
「えっ、いいの?」
「美由さんは記憶が戻って欲しいんでしょ? そうじゃないの?」
「そうだけど……、でも嫌なら無理して戻って欲しいとは思ってないよ」
「嫌っていうか、少し怖いだけだから。別にそれくらい、わけないよ」
「そう?」
「うん。ね、行こうよ。行ってみる価値はあるでしょ」
「創英君がそう言うなら、いいけど……」
さっきとはまるで立場が逆だ。
「過去の僕が美由さんをどう想ってたかって言うのも興味あるし、なんだか抜け落ちて穴の空いた部分がひどく空虚感があって仕方ないし」
自分が昔どうしていたか分からない状況……か。私は彼の高校時代を知っているけれど、彼は彼の高校時代を知らない。それもなんだか寂しいことだと思う。自分のことなのに。
「じゃあ海岸沿いの道路にサイクリングに行こう」
創英君が事故に遭う少し前に行ったところ。
「ここから海って近いの?」
「うん。二キロくらい」
「じゃあ十分くらいか」
「悪くないでしょ?」
「うん」
「じゃあ次の日曜日はサイクリングね」
「僕が思い出すとは限らないけど」
「別にそれはどっちでもいいよ。無理にそうあって欲しいとは思わないし」
「うん。分かってる。でもせっかく行くなら、何か感じたいな」
「私は楽しめたらそれでいいよ」
楽しめたら、か。それが本望ならそれでもいいのだろうけど。本当は創英君に大いに期待している。“あの”創英君にまた逢えるんじゃないかと、大いに胸を踊らせて。
見える、逢える、話せる、聞える。あの漫画のように、立ちはだかった岩盤を突破するように。閉ざされた門が開くかのように。塞がれた道が開かれるように。突如消えた彼にまた逢える。私の中では記憶が戻ることはただの可能性ではなく、必然だと感じていた。まるであのとき感じた悲しみなど嘘のように。

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