その38 陰なくやって来た嫉妬心 ─ 創英

告白だなんて、今ここにいる自分──記憶をなくした創英──には縁がないだろう。僕はそう思っていた。でも思い起こせばあれから幾度となく告白などしていたし、されていたような気がする。
例えば目が覚めたとき。突然彼女だと言われたのは告白だ。気がついて突然の告白だったということだ。他には、加恵さんに真実を述べたとき、美由さんに真意を述べたときなど……。よく考えればしているし、されている。それほど縁がないものでもないらしい。
あれから二人がどうなったとか、そういう話は何も聞いていない。でも町内を一周して来たときにまだあそこに二人ともいたわけだから、断られたわけではないだろう。元々義直君にしてみれば突然の告白だったから、それを拒否するのにはそれほど時間はかからないはずだ。即興で、あれだけの時間を潰せるだけの話ができるなら別だけど。でも断る理由を長々と話すだなんて、それなりに深い理由があってのことくらいしかない。だから拒否されたわけではないと思う。となれば了承だろうか。でもそれほど嬉しそうに話しているとは思えなかったけれど。
八月二十一日日曜日。
十一時過ぎ、美由さんから電話があった。今日来られないかとの、誘いだった。特に用もなかったので僕はそれを了承、午後から美由さんの家へ行くことになった。
午後一時半。美由さんの家の玄関の前に立った僕は、そのチャイムを鳴らした。少し間を置いて中から返事がして、僕は入っていった。
部屋ははっきり言って蒸し暑かった。夏の典型的な密室だ。そこで美由さんがクーラーのスイッチを入れたため、部屋には涼しい空気が流れた。美由さんは僕を部屋へ案内したあと一階へ降り、清涼飲料水とコップを持って上がってきた。それから美由さんはコップにそれを注ぎ、僕の前と美由さんの前へ置いた。僕はそのコップを持ち上げて言う。
「それで、用事って?」
言い忘れたけれど、美由さんは電話をしてきたとき用事があるからと言っていた。
「前々から話しておくべきだと思ってたんだけど」
「うん」
「私と義直君のことなんだけどね」
ああ、あのことか。なんともいけ好かない話。おかげで昨日は義直君との間に気まずい空気ばかり流れていた。
「中学生のとき、付き合ってたってことでしょ?」
「えっ、何で知ってるの?」
そう言われても、知美さんから聞いたとはとてもじゃないけど言えない。いや、寧ろ言いたくない。
「何でって訊かれても困るけど。とりあえずそういうことなんでしょ?」
それを聞いた美由さんは、
「う、うん……」
と言って俯き、黙ってしまった。僕はあえて自分の感情を強引に伏せて、話を進める。
「まあいいんじゃない? 過去の話でしょ?」
「そうだけど……」
「なら別にいいでしょ」
別にいいだなんて、何がいいのだろう。自分は全然よくなんかないくせにそれをねじ伏せてしまって。もっと、それに対して反応してもいいじゃないか。僕は自分にそう言いたかった。
「……今日はそれだけ?」
僕は何故だか分からないが、冷たくそう言っていた。まるで事実を無理矢理押しこめて、自分が理解できないようにしているかのように。
「えっ……う、うん……」
「そう……」
僕はそういう自分が無性に嫌になって、がむしゃらにコップの中身を飲み干した。
「……」
二人の周りには再び沈黙が立ちこめた。はあ、どうしたものだろう。退行でもして、その事実から逃げたいくらいなのに。投射でもして、無理に義直君の存在を自分の中で忘れ去ろうとしてもいいのに。そういう感情は少しも起きない。
ただ、しているとしたら抑制くらいだろうか。それも表面に現れない淡々とした感情。何かがふつふつと音を立てて沸騰しているかのようで、何かがぶくぶくと気泡を帯びて上がってきているようで。いままでに経験したことのないような、怒りのような、執着心のような感情。なんだというのだろう。この煮え切らない感情は。
「別に今は義直君のことがどうとかそういうつもりはないんだよ?」
彼女は沈黙を断とうと思ってか、そう言った。でも僕は、それに反して、
「それは三年も経ってるのだから当然だろうね……」
などと言っている。それからまた、辺りは沈黙に包まれた。はあ……。なんだか美由さんに対して否定的になっているような気がするのは、気のせいだろうか。本当は傍にいたいのに、あえて突き放すような態度ばかりで。今日の僕は、特に。理由はよく分からない。なんとなく、一緒にいたいってこの間と同じように思っただけだ。それ以上の深い理由もなかった。もし美由さんが電話を掛けてこなければ、僕から掛けていただろう。ただ逢いたいっていう単純な理由で。そんな目的は単に私欲でしかない。別に美由さんの機嫌を取ろうと思うわけではなくて、単純に逢いたかっただけ。それなのに、いざこうして誘われて一緒にいるとどうしてこんな態度をとってしまうのだろう。そんなこと……、望んでもいないのに。
もしかしたら、美由さんと義直君のことかもしれない。でも今になってああして二人が会った理由は僕にある。結局、僕は自分で自分の首を……、いや周囲を巻き添えにもしているのかもしれない。義直君にも、今更こうして会わなければならないような状況を作ってしまったし。美由さんにも、今更連絡をするような事態にさせてしまったし……。もちろん、自分自身にも……。
「……ごめん」
「えっ?」
気付けば、僕は謝っていた。ふと見上げると美由さんは狐につままれたような顔をしていた。
「美由さんと義直君って、連絡断つっていう約束だったんでしょ? それなのに僕が事故になんて遭ってしまったからまた会うことになってしまって……」
僕は以前思ったことを口に出して言った。
「えっ、そんなこと別にいいよ……。これより私こそごめん。別に義直君に連絡するだけなら、電話で言えばよかったのにわざわざ彼に会いに行って……」
「そうなの?」
「うん……」
「それなら、僕に言わなければよかったのに。どうせ知らないんだから」
いや、本当は言って欲しくなかったという方が適切かもしれない。どうせなら知りたくなかった、とかそういう感じで。
「そうは言っても、内緒にしておくのは辛いし。どうせなら話してしまう方がいいから」
こうして聞くのも辛いんだと言いたかったけれど、僕は敢えてそれを言わなかった。いや、本当は言えなかったのも知れない。
「そう? 別にそうであろうと気にしないけどね」
“気にしないだなんて、よく言うよ”と自分に一言。
「……」
そうして、また沈黙が流れる。自分に嘘をついて何がいいのだろう。好きでないくせに無理にそう言ってみたり、好きなのに無理にそう言わなかったり。寧ろ、逆のことを言ってしまったり。本当はそうじゃないのに。そんなことを自分で自分に言ってみたり。単なる反動形成だといえばそれだけのことだけど、それではどうも納得できない。できるものなら引き付けて強く抱きしめでもしたいものを、あえて冷淡に突き放すような態度。何とも言い難いこの気持ちを何処にどうすればいいのだろうか。
僕はなんだかそんなことを考えている自分が急に恥ずかしくなってきた。自分は何を言って、何を考えているんだろう。結局、美由さんのことをどう思っているのだろうか。それさえはっきりしない自分は、自分で恥じらいを感じてしまっていた。少し逃げ腰を元に戻して。自分に正直に……。
「いや、気にしてないって言ったら嘘になるのかな。どうこう言っても思っても今更何も変わらないわけだから、気にしててもしょうがないでしょ?」
……少しだけなったような気もして。ほんの少しだけ。
「それはそうだけど。でも反応薄くない?」
「そう言われてもな……」
やっぱり、もう少し自分に……。
「なんというか本当のところ、どう反応すればいいのか分からなくて……」
……なんだろう、自信というか、そういうものを持たせて。
「はあ……」
もし記憶が戻らなくても、ずうっとこうしていたいって。二人して同じ場所に。
「美由さんは僕のこと好きなんでしょ? それに以前の僕は美由さんのことが好きだったっていうんだから、僕も好きにならなければならないわけでしょ? いくら記憶がなくなったからといって以前の僕は僕でしかないのだから、裏切っては悪いじゃない。でもかといって急にそういう感情を抱けるわけではないし、やろうと思ってできることでもないし」
「うん……」
でもそう思う自分は、やはり逃げ腰らしいのだ。素直になれない自分を、過去の自分や美由さんのせいにしてしまって。言えないのも、言わないのも自分じゃないかって。結局自分にあるのに、転嫁してしまって。そうやって逃げるんじゃなくて、まっすぐ向かっていこうって。好きなら好きだとそう真っ向からそう言いたいって。ただ付き合っているっていう今の関係に安堵感を感じるのではなくて。その事実に身を任せてしまうんじゃなくて。ちゃんと自分に、正直になって、素直になって、自信を持って。今ある自分として、思いを届けて。
「でも気付いたら突然彼女だって言われても許婚みたいで、率直に事実を受け止めようと思っても少し無理があって……。だからそれから逃避したみたいに他の人が好きだなんてことになったりして……。でもこれからは、そうはならないような気がするんだ。なんとなくだけど」
「なんとなくか」
……回りくどい。
「現に僕はこうして一緒にいることは嫌いでないし、寧ろそうしていたいと思うし。ただそれが好きだって言えるのかは分からないけど」
分からないだなんて、単に都合のいい言葉だ。
「私は十分そう言えると思うけどな……」
「そう?」
……猫かぶりじゃないか。
「うん。創英君は一緒にいたいって思うのは、好きだってことだと思わないの?」
「よく分からないけど……」
再び猫かぶり。
「まあとりあえず、それが好きだってことだよ」
「そういうものかな……」
分かりきってるくせに、知ったかぶりならぬ、知らなかったぶりだろうか。結局、風に任せて気の向くまま。行雲流水とはこのことを言うのだろうか。少しは、進歩するべきだって思うのだけど。

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