その37 あの時の想いと時間 ─ 美由
時は無情にも過ぎてゆくものだ。あの時散々悔やんだのにも関わらず、今の私は彼に対してそこまでの気持ちはない。今となっては昔の彼氏というだけだ。でもそれなりに彼と過ごした日々は想い出深いものばかりだ。それは私の心の中に“想い出”、過去の出来事として仕舞われている。私も彼のことは好きだったし、彼も私を好きだった。でも……。
私は彼女が彼に告白したのは一つの区切りであったと思う。彼も彼でいつまでも私ばかり追い求めていないで、別の目標ができればいいと思う。 創英君とあの神社へ蛍を見に行っている間に知美から電話があって、お母さんに電話を掛けて欲しいと託(ことづ)けをしていたらしい。帰ってきた私はそれを聞いて知美に電話を掛けた。あれからどうなったのかと様子を聞くと、一週間保留らしい。“心の整理”だそうだ。多分私のことだろう。この間の電話でも、創英君の病室でもあんなことを言っていたのだから。だから私は“義直君なら大丈夫”と彼女に言っておいた。説得力があるような、ないような一言だけど。 とりあえずこれで彼も彼女も落ちつける。そう思い、私も区切りとして創英君にあのことを話そうと思った。 翌日、二十一日日曜日。 その日の昼前に創英君の家に電話を入れ、今日来られないかと誘った。創英君はそれを了承してくれたので、今日の午後はまた二人きり。最近やたら二人きりという状況が多いなと思う。以前はそれほどでもなかったのに。 午後一時半。 とくに時間指定もせずに曖昧に午後と言っておいたら、彼はこの時間にやってきた。早速部屋に案内し、クーラーのスイッチを入れた。部屋は熱気で蒸し暑い。もちろん外も暑いのだけども、別の暑さが部屋にはある。創英君が来るまでは居間にいたので、部屋はこの様だ。暦では残暑というらしいが、残りというより真只中のような気もする。ともかく部屋は暑い空気が充満していて、最初の方はあまり居心地が良くなかった。よって私は冷蔵庫から清涼飲料水を持ってきてコップに入れ、彼の前にも置いた。 「それで、用事って?」 創英君はコップを持ち、そう言った。 「前々から話しておくべきだと思ってたんだけど」 「うん」 「私と義直君のことなんだけどね」 彼はコップに入った清涼飲料水を飲みながらこう言った。 「中学生のとき、付き合ってたってことでしょ?」 それも淡々と。 「えっ、何で知ってるの?」 「何でって訊かれても困るけど。とりあえずそういうことなんでしょ?」 「う、うん……」 これによって言う必要性がなくなってしまった。言ってしまえばたったそれだけのことで、何らややこしい話でも時間のかかる話でもない。 「まあいいんじゃない? 過去の話でしょ?」 「そうだけど……」 そういうものなのだろうか。過去の話とはいえ、創英君にはいつかは話さなければならないものだと思っていたけれど、創英君はそれほど重要視もしていないらしい。まるでずっと昔からそれはそうであり続けていたかのように。地球は太陽の周りを回っている。 そんな事実は人間が生まれてくる前からある。私と義直君が付き合っていたことも、それと同じように解釈しているのだろうか。 「……今日はそれだけ?」 彼は再び淡々と言った。 「えっ……う、うん……」 「そう……」 そう言って、彼はコップの中身を飲み干してテーブルの上に置いた。 「……」 それにしても一体どうやって私と義直君が付き合っていたことを知ったのだろう。確かに義直君に直接聞けば分かるかもしれない。でも彼ならまず話すことくらい私に連絡してくるはずだ。加恵や信彦は私が以前付き合っていたこと自体を知らない。知美は確かに創英君とは会っているけど、私がいなかった時間といってもほんの少しだったろうし、彼女が到底そんなことを話すとは思えない。じゃあ一体どうやって……。私は理由を模索してみるも行きつく先が見当たらなかった。 「別に今は義直君のことがどうとかそういうつもりはないんだよ?」 私は沈黙と理由が見つからないことに些か恐怖心を抱きて、思わず弁解してしまった。 「それは三年も経ってるのだから当然だろうね……」 当然……か。でも義直君はまだ。私は創英君と今まで通り付き合っていれば、彼のことは想い出として胸の奥底に仕舞いこんでいたかもしれない。でもこうしてまた義直君と連絡が取れるようになるとやはり高一の時の想いがこみ上げてくる。義直君に創英君が入院したときに久しぶりに電話をしたときも、想いを押えるのに精一杯だった。それから彼に会ったときも、なるべく明るく振舞おうって……。創英君が事故に遭って記憶喪失になったという事実と、義直君とまた会ったという事実を無理矢理押し込めてしまうために。でも今考えれば、何故わざわざ私は義直君に会いに行ったのだろうか。加恵に知らせるときは電話で終わらせたのに。もしかしたら、心の奥底で彼に会いたいと思っていたのかもしれない。もう忘れたつもりでいたのに……。 「……ごめん」 「えっ?」 創英君が急に謝ってきた。私も彼に謝りたいことなんて山ほどあるのに。 「美由さんと義直君って、連絡断つっていう約束だったんでしょ? それなのに僕が事故に遭ってしまったからまた会うことになってしまって……」 「えっ、そんなこと別にいいよ……。これより私こそごめん。別に義直君に連絡するだけなら、電話で言えばよかったのにわざわざ彼に会いに行って……」 「そうなの?」 「うん……」 「それなら、僕に言わなければよかったのに。どうせ知らないんだから」 「そうは言っても、内緒にしておくのは辛いし。どうせなら話してしまう方がいいから」 「そう? 別にそうであろうと気にしないけどね」 「……」 創英君にとって私と義直君が付き合っていたということは、所詮はそれくらいのものか。別に嫉妬する対象でも焼きもちを妬く対象でもないらしい。数日前、創英君が明かしたことは加恵──恐らくだ──が好きだということだ。あのとき、同意しておきながらまだ加恵のことが好きだって思っているのだろうか。確かにそういう感情は自身によって操作しきれない。 でも……、そんな状態で友達が来るというのに押し切って来たいというだろうか。あのとき創英君は家に何をしに来たのだろうかと考えてみる。別に何か言いたげでもなかったし、何かしていたというわけでもない。漫画は読んでいたけれど、それは私がそうするように言っただけだ。結果的に知美のためにお願いを聞き入れてもらったわけだけど、彼自身は何もしていない。彼は、なんとなく逢いたかったらしい。家へ来て大したこともしていない彼は、目的を携えずに来たということだ。だから本当に私に逢いたかっただけなのかもしれない。確信はないけれど。 でも今は反応がやけに薄い。気にしないだなんて、本当だろうか。 「いや、気にしてないって言ったら嘘になるのかな。どうこう言っても思っても今更何も変わらないわけだから、気にしててもしょうがないでしょ?」 「それはそうだけど。でも反応薄くない?」 「そう言われてもな……」 彼は頭を掻きながら言った。 「なんというか本当のところ、どう反応すればいいのか分からなくて……」 「はあ……」 左様ですか……。 「美由さんは僕のこと好きなんでしょ? それに以前の僕は美由さんのことが好きだったっていうんだから、僕も好きにならなければならないわけでしょ? いくら記憶がなくなったからといって以前の僕は僕でしかないのだから、裏切っては悪いじゃない。でもかといって急にそういう感情を抱けるわけではないし、やろうと思ってできることでもないし」 「うん……」 確かに、以前の創英君は私のことが好きだった。以前の創英君は創英君でしかないわけで、今は目前の彼でしかない。目前の彼が以前の創英君の想いを叶えなければ他に誰ができるというのだろう。もし目前の彼が以前の創英君の感情を無視すれば、創英君の願いは叶えられない。だから目前の彼こそが以前の創英君に成り代らなければならないわけだ。 それに、近い将来、記憶が戻ったら……。その時、今の彼が昔の彼の知らない間に私以外の人を好きになって、私が側にいなかったら……。 でも突然好きになれと言われてもできるはずがない。逆に嫌いになれというのも無理だし、好きでなくなれというのも同様に無理だ。順々に時間に沿って少しずつそうなっていくしかない。 「でも気付いたら突然彼女だって言われても許婚みたいで、率直に事実を受け止めようと思っても少し無理があって……。だからそれから逃避したみたいに他の人が好きだなんてことになったりして……。でもこれからは、そうはならないような気がするんだ。なんとなくだけど」 「なんとなくか」 私は若干苦笑した。 「現に僕はこうして一緒にいることは嫌いでないし、寧ろそうしていたいと思うし。ただそれが好きだって言えるのかは分からないけど」 「私は十分そう言えると思うけどな……」 「そう?」 「うん。創英君は一緒にいたいって思うのは、好きだってことだと思わないの?」 「よく分からないけど……」 「まあとりあえず、それが好きだってことだよ」 「そういうものかな……」 なんだか今の創英君は恋愛に相当疎いらしい。なんせ自分のことさえ気付いていないのだから。これから先、色んな意味で苦労しそうだ。 思い起こせば、加恵が私と引きあわせた時も、そんな感じだったような気がする。 もしあのときの私に、もう少し勇気があれば。もしあのときの私に、もう少し高校に対する理解があれば。もしあのときの私に、絶縁という選択肢がなければ。私は義直君と付き合い続けていたのだろう。するとどうなるか。高校の時の創英君には、幾ら私が義直君と付き合っていたとしてもその事実を知る機会がなかっただろうし、恐らく創英君から告白することになっただろう。でも私はそれを受け入れることはできない。また、加恵も単なる友達で終わったかもしれない。知美も大学へ行って出会うことになるのだろうけど、義直君に告白することはなかった。どちらがよかったのだろう。あのときの私は、あのようにあるべきだったのだろうか。 |