その32 地平線 ─ 加恵

今日は何とも家の居心地が悪かった。別に夫婦喧嘩が勃発しているだとか、そういう状況ではない。ただ家の中に一台しかないエアコンが見事に壊れてしまったのだ。確かに扇風機は何台かあるけども、それは初夏の夏にこそであって夏真っ盛りの今時には似合わない。扇風機だけで間に合うような暑さではなかった。茹だるような暑さとはまさにこのことを言うのだろう。ろくに勉強も手につかなかった。全く、年に一度の誕生日だというのにこんな状態では堪ったものではない。こういう時は、泳ぎに行くのに限る。そういう魂胆だった。
「お待たせ」
私は先に着替え終わって海の家の縁に腰掛けていた信彦に背後から声をかけた。信彦は身体をねじって後ろを振り向く。
「……」
「どうかした?」
「えっ、いや別に……」
そう言う信彦の頬はほんのりと赤くなっている。
「そう。なら早く行こ」
「う、うん」
それから、二人で砂浜へと駆けた。
海は青く、空も青い。ただ、水平線だけが白く光る。燦燦と照りつける太陽を海の家のバックにして、パラソルの下で海を眺める。空には飛行機雲が一筋走り、綿雲がぷかぷかと浮かんでいる。砂浜には沢山の人がいて、各々が思い思いのことをして楽しんでいる。言うまでもなく、カップルも多い。見る限りでは大方の人がカップルか家族のようで、同性だけで群れているのはよく目立っていた。私の上にあるようなパラソルも所々に立っていて、人々に陰を提供していた。砂浜の上には、所々砂のお城が建っていた。そこに波がやってきて、砂のお城が少しずつ削られていく。
信彦は単身海へ出て、遊泳の限界ライン付近にあるポートを目指しているようだった。初めはクロールで泳いでいたのに、いつの間にか平泳ぎに変わっていた。私はせっかく海に来たというのに、そんな信彦をずっと眺めていた。信彦はいつの間にあんなに上手く泳ぐようになったのだろうか。小学生のときに信彦と家族ぐるみで一緒にこの海に来たときは、あんなに上手くなかった。寧ろ上手いというより下手な方で、よく沈んでいたのを覚えている。私はその頃から信彦のことは好きだったのだけども、信彦はそれに気付いているような感じではなかった。ただ常に何か一つのことに熱心で、細かいことは気にかけなかった。あの頃の信彦は、泳ごうと必死だったような気がする。その甲斐あって、今はああして目を疑うくらい上手く泳いでいる。そんな信彦はポートに辿り着いたようで、折り返して来る。
浜には歓声に交じり、ビーチボールの弾かれる音がしていた。高くあげられたボールは、太陽光を反射して眩しい。しばらくその様子を眺めていた私は、急に海に入りたいという衝動に駈られ、信彦が戻ってくる方へと向かった。
海に入りたいというより、信彦と一緒にいたかっただけだったのかもしれない。まあそれはどっちでもいい。その理由がなんであろうと、こうしてここにいられるのだから。
「七時くらいに家に来てくれない?」
帰路についた頃、信彦が突然こんなことを言い出した。
「えっ、七時? どうしてそんな時間に?」
「いや、またあの蛍を見に行きたいなと思って」
「いいけど……。そのあとうちに来ない?」
「加恵のところに?」
「うん」
もちろん、お決まりのあれだ。
「じゃあぜひ行かせてもらうよ」
「三人で分けるのにはちょっと大きいからね」
「四人でも大きいと思うけどな……」
「まあ、その辺は信彦が稼いでくれればいいから」
「僕はそんなに食べないけど……」
なんて他愛ないことを言って。ケーキの量なんて単なるバレバレの口実だけど。
夕方。
まだ少し暑く太陽も眩しいような頃、私は信彦の家へと向かった。周囲の青々とした木々から蝉の鳴き声が聞こえ、電線には雀が止まり、空は茜色に染まっている。数十メートルの馴染み深い道を歩くと、家々から夕食の匂いが漂う。この道も、一体何度歩いたことだろうか。もうこの道を通るときは殆どが信彦の元へ行くためであって、逆に言えば信彦の元へ行くとき以外は滅多にこの道は歩かなかった。私にとっても、この道は逢うためにあるようなもの。それ以外の用途は持たない。
私と信彦を繋ぐ道。私はその道の上を歩いてゆく。
チャイムが暁の中に響く。家の中から物音がして、信彦が出てくる。信彦はさっきとは違い、ラフな格好をしていて手ぶら。神社にはただ単に蛍を見に行くだけらしい。もう少しおあずけかな。
二人で神社に行ったとき、あのベンチの上に一つの缶が置いてあった。
「……置き忘れ?」
「さあ……」
その缶を軽く持ち上げてみるとまだ少し重量感がある。振ってみると、中からチャパチャパと音がする。
「まだ入ってるみたい……」
「どうするの?」
「どうするって言われても、どうしようもないんだけど……」
「とりあえず下にでも置いといたら?」
「うん、そうしておくよ……」
そして、私たちは下に缶が置かれたベンチの上に座った。
「なんだか出鼻を挫かれた感じ……」
信彦がそうぼやく。
「まあ、そう言わないの。それより、蛍見るんでしょ?」
「うん。そのために来たんだしね……」
それからしばらく二人で夜風に吹かれ、静かに蛍を見ていた。
「ちょっと家に寄ってから行くから、先に行ってて」
信彦が帰りにそんなことを言っていた。先に家に帰った私は、居間につき信彦が来ることを知らせた。
数分後、信彦がカントリー調の袋を提げて家に来た。信彦に気付かれないように軽く中を覗いてみると、中にはストライプの包装紙に包まれたテレホンカードの二倍くらいの大きさの箱が入っていた。私はその中身が一体何なのか、少し──いや、大いに期待して信彦の後を追い、居間に戻った。
大きなチョコレートケーキ。上にはクッキーのプレートが乗っている。さくらんぼ、オレンジ、ブドウ、それから名前も分からないのに何処かで見たことがある果物などなど。テーブルの上には、お皿が四つ。私とお母さんとお父さんと信彦の分。ろうそくは大きいのが三本と小さいのが四本。大きいろうそくが五歳分ということだろう。しかし信彦よりも少し先に年をとるというのはあまり気が進まない。と、いっても信彦の誕生日は半月後だからそうは離れていないけれど。テーブルの上には他にアルコール度数の低いシャンパンと、クラッカーが乗っている。もちろん、私の前にはクラッカーはない。
しばらく雑談を交わし、部屋の照明が落ち、お馴染みの歌が流れ、ろうそくの火が消え、クラッカーが鳴り、再び電気が付いた。それからケーキは四等分され、皿の上に移され、フォークが添えられた。そして挨拶をして、各々のケーキを食べて、再び雑談を交わして、お皿を移動させて、再び雑談……。
結局信彦は居間では袋から箱を取り出さなかった。
自室。さすがに陽の長い夏場でも、もう外は真っ暗になっていた。静かな部屋では扇風機の回転が音を成し、外では時間を忘れた蝉が鳴いている。カーテンは閉められ、部屋には電気の明かりだけが燈(とも)る。部屋には私と信彦の二人きり。居間からはお皿の擦れ合う音がする。
「やっぱり、この袋の中って気になるでしょ?」
いや、私は袋の中の箱の中が気になる。でも気付いていないことになっているので、一応同意してみる。
「うん」
「袋の中には……」
信彦が袋に手を入れて、あの箱を出す。そしてそれを私の前に差し出しながら、こう言う。
「はい。開けてみて」
私は差し出された箱を手に取り、その包装を解いていく。そして中から出てきた箱を開けてみる。箱の中から出てきたものは銀色で、赤い宝石のついたブレスレット。私はしばらくそれを眺めていた。
「どう?」
信彦が感想を求める。
「どうって、そりゃ嬉しいけど……。でもこれって本当にもらっていいの?」
謙遜ではなく、私の目にはそれがとても高価に映ったからだ。
「もらってくれないと持ってきた意味ないでしょ?」
「でも……」
「いいからもらってよ」
「うん……」
信彦も、愛が重たいな……。これでもまだ付き合ってるわけではないんだよ、一応。

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