その31 海岸線 ─ 信彦

あれから七日間、ずっと美由さんとは会っていない。創英君とは先々週の土曜日以来、一度も会っていない。以前、加恵から止められたときから創英君とは会おうとも会いたいとも思わない。創英君が加恵を云々というのを聞いてから、僕は彼に何か因縁みたいな感情を燃やし続けている気がする。高校の頃、加恵はよく創英君のところへ行っていた。そのときにも些細な嫉妬心を抱いていたけれど、今は何とも言えないような感じだ。まるで感傷的な気分になったような感じがして、それがいけ好かない。
自分でコントロールできないものは自分でないとするならば、嫉妬心も恋する気持ちも悲しくなるのも全て、自分であって自分でない。今のこの感情も、自分とは別のものなのだろうか……。
年に一度の誕生日。人によってその日は違うけれど、それは通年行事だ。必ず一年に一度は来る。それはもちろん嫌でもやってくるわけで……。
それはさておき、加恵は僕よりも半月程早く十九歳になる。その日が今日なので、僕は忘れずに準備しておいた。やはり、“おめでとう”はそれと一緒にあげるべきものだろう。そう思い、僕は夕方まで待つつもりでいた。あの神社へと誘うために。
でも、こんな誘いは予想外だった。
「ね、海行こうよ、海! 室内に閉じこもってエアコンなんてかけるんじゃなくて! こんなにも暑いんだから!」
加恵がそんな提案をするために、突然電話をしてきた。ただ勢いに乗せて、是が非でも僕を連れていくつもりらしい。これが予想外の誘いだ。
「海……?」
「そう。水着くらい持ってるでしょ?」
「まあ、ないこともないけど」
最後にいつ着たものだか分からないけど、多分サイズ的には大丈夫なはずだ。
「じゃあ、行こうよ!」
久しぶりにハイテンションな加恵は、僕を “行く”という選択肢の方へ押していく。
「どうして突然海へ行くだなんて?」
「夏休みもあと一週間ちょっとじゃない。今行かなきゃ損だよ、また来年まで行く機会なくなっちゃうでしょ?」
そりゃ、確かにそうだけど……。
「だから、今のうちに行くんだって!」
はぁ……。
「で、いつ行くの?」
「今からに決まってるじゃない!」
また随分急な話だ。まあ誕生日だし加恵が行きたいって言うなら仕方ないか。
「……付き合うよ」
「じゃ、待ってるから」
そう言って、電話は切れた。“待ってるから”って、要するに迎えに来いってことか。
チャイムを押す。家の中にその音が響き渡り、中からいつも通りの声が返ってくる。
「は〜い」
そして、玄関のドアが開く。
僕は駅までの道を加恵と並んで歩いていた。
「遅かったじゃない。随分待ったんだよ?」
加恵はいかにも僕が遅刻してきたかのように言った。
「あれから五分しか経ってなかったけど?」
「そう? 私は随分待ったような気がしたんだけど」
「僕はすばやく準備してきたつもりなんだけど」
「そう? えっと、ごめんね、急に海に行こうだなんて誘ってさ」
「まあ、誕生日だし。それより何処の海水浴場へ行くの?」
この辺りは海が近いので、あちらこちらに海水浴場がある。それに海に沿って海岸道路が走っているので、潮風に当たるだけならそこを走っていればいい。僕らがサイクリングと言って出かけるのは大抵その海岸道路だ。自転車で走りながら潮風を感じる爽快感。なんだか、洗濯したてのタオルに触れるように気持ちいい。
「美由の家の近くのところだよ」
「あそこか……」
まだ幼稚園生か小学生だったろうか、それくらい幼いときに僕と加恵の両親が一緒に行ったところ。
「それにしても久しぶりだよね。信彦と一緒に泳ぐなんて」
あれ以来、加恵とは海水浴場に行った覚えはない。元々海が近いところだから、もちろん近辺に遊べるようなプール施設はない。あっても学校くらいだ。だから加恵と泳ぐことはあれから一度もなかった。
「うん。あれ以来行ったことないもの」
「まあ、学校のプールは別だけどね」
たしかに授業では、同じプールに入っていたのだろうが……。もちろん学校のプールで遊べるわけでもないので、悠々とできる状況で加恵と泳ぐのは随分と久しぶりだ。高校では水泳の授業は数えるほど僅かだったし、大学はもちろんない。中学校ではある程度あったけれど、水泳の授業なんてあまり覚えていない。
「まあ学校の水泳の授業なんて、みんな一緒だからね」
「うん」
「私のスクール水着以外の水着姿だなんて、覚えてないんじゃない?」
「あんまり……」
そんな、幼稚園や小学生時代のことを覚えているのも少し怖い気がする。
「なら新鮮味があっていいでしょ? こういうのも」
新鮮味ね……。来ようと思えばいつだって来れるけど。
今日は加恵の誕生日だ。僕は電車の中でそんなことを考えていた。でも加恵はそれに関して何も言わないし、反応もしない。ただ、海へ行くのに舞いあがってしまっている。さっきから一人で水着の話で盛りあがっていて、僕はそれに相槌を打っていた。
──言い出すタイミング。
僕はそれに悩んでいた。でも悩む必要なんて少しもなかったけども。
ここは海水浴場。一足先に着替え終わった僕は、海の家の縁に腰掛けて加恵が来るのを待っていた。
「お待たせ」
背後から加恵の声がしたので、僕は振り向いた。するとそこには当然の如く水着姿の加恵が立っていた。僕は思わずその姿に見惚れてしまう。
「どうかした?」
「えっ、いや別に……」
なんだか火照っているような気もするが、それは無理矢理放っておく。
「そう。なら早く行こ」
「う、うん」
そうして、僕らは焼けるような砂浜へと入っていった。
海の彼方にあるポートを目指しながら、僕はこんなことを思っていた。
今の僕らはお互いに好きだと言いあって、相手の感情に対して安心感を得ようとすることがない。予め、そうであることを前提として会話するときに確認の意で言うことはあるけれど。何故ならわざわざ確認する必要性がなくて、言い合わなくても必然的にそうであることくらいは分かっていたからだ。中学校の頃、加恵の気持ちが不確かだったときは僕も好きだって言っていた気がする。でも今となってはそうであることが当たり前過ぎてそういう風に言うこともつまらないというか……。
こうして付き合っている中で、言い合うことが必要性のあることなのかどうかと言えば、今はもう必要がない。結婚して五年も経った夫婦がしょっちゅう言っている筈がない。気持ちに確信が持ててからもう五年、二人の付き合いは十八年になるのに今更そんなことを言う必要があるのだろうか。いくら近所で物心つく前から付き合いがあったとしても、思春期は二人の間に隔たりをもたらしてしまうのに、僕らは以前と何も変わらなかった。それはお互いに相手を必要としていたからではないだろうか。だとすれば、僕はそうしている時点でもう加恵の気持ちに気付いているべきだったのかもしれない。
ところで、僕らの付き合いは生まれてから殆どの期間だから、お互いのことは熟知している。だから大方のことはすんなりと受け入れてしまうと思う。たとえ突然抱きつかれても、突然キスされても、この間のように突然泣きつかれても、目隠しして、“だ〜れだ?”なんて言われても……。ただ少し、驚くだけ。
ポートに辿り着き、戻ってきた僕の元には加恵がやってきた。僕はこうであることが、大いに幸せだと思う。

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