その25 立場の逆転 ─ 創英

あの本屋が見える駅前に到着、午前十二時四十五分二十三秒。
本屋の店内へ入店、午前十二時四十六分三十二秒。
あの本の捜索、午前十二時四十六分四十五秒。
やはりないと諦める、午前十二時五十分十三秒。
この本は家にあったなという発見、午前十二時五十分十五秒。
でも家にあった巻数が思い出せないのでこれも諦める、午前十二時五十分三十二秒。
文庫コーナーで、偶然目に止まった本を読み始める、午前十二時五十二分一秒。
一枚目のページをめくる、午前十二時五十三分五十九秒。
十枚目のページをめくる、午後一時三分二秒。
本をレジへ持って行き並ぶ、午後一時五分八秒。
腕時計に目を落とす、午後一時五分十一秒。
時間を過ぎていることに気がつき慌てる、午後一時五分十一秒五。
レジでの会計終了、午後一時五分四十二秒。
本屋の外へ出る、午後一時五分四十五秒。
加恵さんの姿を発見、午後一時五分五十九秒。
とっくにタイムオーバーだった。
「ごめん、まだちょっと時間があると思って本屋にいてたら過ぎちゃってて……」
「いや、別にいいよ。今来たところだしさ」
「そう?」
「うん。それより早く行こ」
なんだか今日の加恵さんはやけに元気だ。何かいいことでもあったのだろうか。
それより昨日、あのあと美由さんは加恵さんに電話したのだろうけど、結局どうだったのだろうか。二人が気まずくなってしまった責任は僕にあるのだし、ただ成り行きに任せて解決を待つのはよくないと思う。
「昨日、美由さんが電話したからあそこにいたんでしょ?」
「決まってるじゃない。他に何があって創英を待っている理由があるの?」
「いや、僕のせいできまずくなってたんじゃなかったのかなと、思って……」
「何? そんなこと気にしてたの? 大丈夫だって、解決済みだから」
昨日の電話でってこと? あのあと何があったかは知らないけど……。
あれから電車に乗り、二駅行って、バスに乗り、バス停を二つ過ぎたところで降りた。それからバス停のところのわき道を入り、右に曲がって、左へのカーブ、そして右に曲がったところから二軒目にその家はあった。何をややこしいことがあるのだろうか。まあともかく、無事についたのは何よりだ。
加恵さんはその家の庭を抜けて玄関の前に立ち、チャイムを押した。僕もそのあとを追い、加恵さんの若干後方の右側へ並んでみた。すると家の中から声が聞こえて、靴の音がして、それからカギを外す音がした。
「ちょっと遅くない?」
美由さんが鼻声で言う。昨日は普通の声だったのに。
「いや〜、電車を一本乗り損ねちゃって」
とりあえず、美由さんの部屋の大まかな配置を説明しておくことにする。
まず床はカーペットで、部屋の入り口の左側に箪笥がある。それから、その箪笥から七十センチほど離れたところにベッドがあって、それが壁に面している。箪笥の向かい側のベッドの上辺りに窓があって、隣の家の庭が一望できる。入り口の右側にはテーブルがあって、その向こう側にも窓がある。窓から見て、窓の右側には本棚があって単行本やら漫画やらが入っている。
……まあ、そんな感じだ。
僕たちはそのテーブルを中心として周囲に腰掛けている。よくよく考えれば、今一つの空間の中にこうしてこの三人がいるというのはおかしな話だと思う。言うなれば三角関係みたいな感じで──別に取り合っているわけではないが──、普通はこういう風に揃うものではない。それが、僕が行きたいと言い出したばかりにこういう変な情景になっている。
それに、部屋にいる男というのは僕一人だ。そして、美由さんと加恵さんは二人で話している。僕はこの部屋という空間の中でどういう存在なのだろう……。
僕がここにこうして来た理由を忘れそうになっていた。僕はここへ美由さんの見舞いに来たはずだ。しかし美由さんは普通に普段着だし、鼻声だということを除けば元気そうにしている。結局は、僕はここへ何をしに来たのだろう。例えば、美由さんの彼氏として──そう言っていいのかはわからないが──ここへ来たのならば加恵さんがいることの説明がつかない。
ただ、遊びに来たと解釈すべきなのだろうか。でも僕はいつの間にやら孤独感を感じている。二人は依然として楽しそうに話していて、僕は暇を持て余している。
仕方がないので、後ろにある本棚のタイトルを眺めてみる。有名な人の著作の本があったり、聞いたこともないような人の著作があったり様々だ。一方、漫画の方はと見ると、先ほど本屋で見たような本が並んでいた。タイトルに目を通していると僕が家で読んだあの漫画が置いてあった。よく見ると、僕が本屋で探していたその漫画の続きも置いてある。
どうしたことだろう。僕と美由さんは元々付き合っていたというのだから、彼も美由さんもお互いの部屋に行ったことがないわけではないだろう。それなのに、重複した本が並んでいる。それに美由さんの部屋には続きすらある。もし彼が事故に遭っていなかったとしたら、彼もその続きを買っていただろうに。ならわざわざ美由さんが買う必要もない。もし美由さんのほうが買って、僕が見せてもらおうとしているのなら別だが、果たして美由さんから聞く限りクールな彼はそんなことをしたのだろうか。僕にはとてもそうだと思えなかった。その真相は、彼と美由さんだけが知っている。
「ねえこの本、僕の部屋にもあったんだけど……」
「ああ、それ? あって当然だよ。以前に二人でそれぞれ買おうって約束した本だから」
へぇ、そうだったのか……。
「それって創英が本屋で探していたやつ?」
加恵さんがそう尋ねる。
「うん。ここにはその続きもあるんだけど……」
「えっ、じゃあ昨日加恵に会ったっていうのもその本を探していたから?」
「そうだけど……」
「そう……」
これはどうやら、彼と彼女の想い出の品らしい。僕は何も思い当たることなんてないけれど。
「うちには途中までしかないんだけど……」
「それは、創英君が入院している間に新しいのが出たから……」
「でも捜したけど見つからなかったよ?」
「それはうちの近くの本屋でないと置いてないの」
「へぇ……。続き、読んでもいい?」
「いいけど……。あとで本屋の場所教えるから、買ってね?」
「うん」
とりあえず今日はある程度余裕があるように持ってきたし、それくらいのお金はある。しかし、まさかここへ来てこの本を見ることになるとは思ってもいなかった。
彼らはまた、道を塞がれた。進むべき道を断たれては、どうしようもない。
開かれる道の先には街がある。その街には有名な温泉街がある。それでひとたび休憩をしようという魂胆だ。でも岩盤に当たり、先へは進めない。回り道などするような道はない。ここを抜けるしか、方法がない。
彼らは窮地にある。道が開けなければ来た道を戻るしかないが、その距離はあまりにも負担が大きかった。
それが、この巻の最後だった。その続きは次巻だ。でもそんなに早く続きを発売することなどあるはずもない。つまりは、待つしかない。
僕はその本を本棚に戻し、机に肘をついて二人を眺めていた。二人は到底、僕が読み終えたことに気付きそうにもない。それにしても過去の僕である彼は、何故美由さんを好きになったのだろうか。確かに美由さんは綺麗だ。僕が事故の三日後、気がついて彼女が覗き込んで来たとき、素直にそう感じた。そのときの彼女の顔は何故か鮮明に残っている。あの喜びに満ち溢れたような顔を、もう一度見てみたい。
でも彼女の魅力が外見だけなら、彼も高校から少し前まで付き合ってこられたはずがない。きっとミーハーなファンのように、クラスの華を追いかけるだけにしか留まらなかったはずだ。ただそれだけの理由で付き合ったということはないだろう。もっと他に、彼女に魅力を感じる何かがあったはずだ。
例えば、なんだろう。
僕が入院しているときに毎日来てくれたこと? たしかに彼が記憶をなくさなければ、それはこの上ないことだろう。毎日、自分のことを想って来てくれる。そんな懸命な姿に彼は惹かれたのだろうか。
彼女が記憶をなくして中身の変わってしまった僕でも、好きだと言ってくれること? そういうところに惹かれたのだろうか。でも中身が変わった僕を好きだという彼女は、彼の何が好きだったのだろうか。それこそ容姿だったとか。
愛することに理由など必要ないと言う人もいる。たしかにそうかも知れない。好きになってしまえば、それからは理由なんて必要ないのかもしれない。好きになったから好きだといえば、筋が通らない話だろうが、しかし実際はまさにその通りなのかもしれない。好きであることに、愛することに、理由なんて必要ない。幾ら記憶をなくしているとはいえ、僕は彼に変わりない。彼女が恋した人間は僕でなくて彼だけど、彼女は依然として好きだとそう言うのだ。
でももしかすると、僕に記憶が戻ることを期待してそう言っているだけかもしれない。だとすると、今の僕は必要なくて、必要なのは記憶が戻った僕である。彼女における、記憶の戻っていない僕の存在価値はどれほどのものなんだろう。本当は、彼女にとって今の状態の僕は必要ないのではないのだろうか。
何だか急にそんな感じがして、先程よりもひどい孤独感に襲われた。このまま僕の記憶が戻らなかったら、彼女は僕を棄ててしまうのではないだろうか。そんな心配がしてならなくて、僕はとても切なくなった。
「もし、記憶が戻らなかったらそのときはどうするの?」
思わずそんなことを訊いてしまった。
「えっ、何? やぶから棒に」
「い、いや……なんか気になって……」
「別にそんなに深刻に考える必要なんてないよ。万一戻らなくても、好きでいてくれればそれでいいから」
なんだかそれも難しい注文だ。
「じゃあ記憶が戻ることに期待してる?」
「できれば戻って欲しいけど……。また、話したいし。でも別にどっちでもいいよ」
どっちでもいいだなんて、本当にそうだろうか。できればなんて言ってるけど、本当にどっちでもいいならそんなことは言わないだろう。やっぱり彼女は僕に期待してる。元の僕である彼として、逢いたいとそう思ってるのだと思う。なんせ、彼は突然消えたのだからそれも仕方ない。もう一度逢って、話したいことも山ほどあるに違いない。すると今ここにこうしている僕は、彼女が本当に必要としている僕ではない。なら僕は、元の僕である彼として美由さんに逢いたい。そして、美由さんを心から好きな僕として、彼女に接していきたい。こんな中途半端な気持ちではとても……。

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