その23 無用の秘密 ─ 加恵

秘密にしておくことは、疲れることだ。知っていることを自分だけが知っていて他人には言えないという束縛された状況が疲れる。秘密にしておく必要がないことなら、他人に言わなくても何ともない。隠しておく必要はないけれども、言う必要もないので気楽にしていられる。秘密はそこに存在する限り、何らかの精神的圧迫を及ぼす存在なのだ。
八月十一日木曜日。
粗方の勉強を終えた私は信彦との約束の場所に向かう途中、駅の近くの本屋へと足を運ぶことにした。まだしばらく約束の時間までには余裕があって、待っているのも辛いので暇つぶしにとそう思ったのだ。家が近いなら、信彦の家に直接行けばいいじゃないかとも思うだろうが、信彦も何かの帰りらしいので仕方ない。
本屋に入った私は、店内を散策していた。しばらく文庫本を読んでいた私は、時間を確認しようと腕時計を見た。すると、棚の向こう側に創英の姿が見えた。そういえば、ここは創英の地元だったっけ……。ともかく、私は気付かれまいと見て見ぬふりをして文庫本へと視線を戻した……つもりでいた。私が病院へ言ったときの創英はいつも病院指定の服装をしていたので、私服姿を見るのは久しぶりだった。それに退院したばかりの、まるで引っ越してきたような街で、創英が一体何を買おうとしているのかが妙に気になって、彼を見てしまっていた。観察なんて、とも思ったのだが、やはり気になって仕方がなかったので、しばらく眺めてしまっていた。
創英は漫画のコーナーから、何かの本を探しているようだった。棚を順番に眺めて、あれでもないこれでもないと思っているのだろう。一体何の本を探しているのだろうと思っていると、彼が向かいの棚を探そうとこちらを向いたので、私は思わず本へと視線を戻した。
が、遅かった。
「あっ、加恵さん? こんなところで会うなんて奇遇だね」
私は例の秘密のこともあるので毛頭話しかけようなどとは思っていなかったのだが、彼から話しかけてきたのだから仕方ない。
「そ、そうだね」
私は悪戯が見つかった子どものように恐縮していた。
「あのさ、ちょっと来てくれない?」
私がそっちへ行って一体何の用があるというのだろう。とりあえず、読んでいた本を棚に戻し創英がいる列の方へと行ってみる。
「こういう本、探しているんだけど、どこにあるか知らない?」
彼はそう言いながら、メモを私に見せる。それは私の知らない本だった。
「うちに帰ったらこの本があって……、続きが気になるんだけど探してもなくてさ」
「私は漫画なんてそんなに読まないから、ある場所なんて知らないけど……。もう少し時間があるし、一緒に探そうか?」
「うん」
それから、二人でその辺の棚を探すものの創英の言う本は見つからなかった。
「お店の人に聞いてみたら?」
「これだけ探してもないんだし、ないんじゃないかな……。他に本屋ってどこにある?」
「私の街の駅の近くにもあるけど」
「じゃあそこも探してみるよ」
「見つかるといいね」
「うん」
しかし、そうまでして探そうとしている本は一体どういうものなんだろう。
「あっ、そういえばさ、この間の話なんだけど……」
もちろん、創英が私のことを云々って話だろう。ああ、この話を創英とするときって何だか変な気分だ。
「あれから色々考えて、退院した日……って一昨日なんだけど、その日に美由さんに全部話してしまって……」
「えっ……」
私は言葉を失った。あれを美由に話すのって物凄く拙いことなんじゃ……。
「本当に、そんなことしたの?」
私は、創英の言うことが信じられなくて聞き返してみた。
「うん……。今じゃ、後悔してるよ……」
「……私の名前出した?」
「いや、言ってないけど……」
どちらにしろ美由のことだ。私だってことは薄々でも感じているに違いない。しかしなんだって創英はそんなことをしたんだろう……。
「最初はとりあえず言ってしまった方が僕も楽になるし、美由さんにしても僕が何か隠してるって疑い続けるよりはましだろうって思ってたんだよ。でも、今考えてみるとそれも変な話だよね」
彼は私の考えていることを察しているかのように、その理由を語った。世の中はそんなに上手く回るようにはできていない。創英が思うとおりにはいかないってことくらいは分かる。それでも、私は信彦以外の人を好きになったことはないけれど、こういうことを話すべきか話さざるべきかくらいは分かってるつもりだ。
「昨日は忙しいらしくて美由さんとは一度も連絡とってないんだけど、今日も何も連絡ないし……」
「あんなこと言われると、普通自分から電話しようとか逢おうなんてことできないと思うよ?」
「うん、僕もそう思うよ……。でも、数日連絡がないのを確認するのもどうかなって」
「さあ……。毎日会いに来てたくらいだから、本当は連絡したいんじゃない? ただ、しづらいんだよ」
「そうかな……」
「きっとそうだよ。電話番号くらい知ってるでしょ? 電話かけてあげなよ」
「う、うん……」
「それより、私は約束があるから。じゃあね」
そうして、私は信彦との待ち合わせ場所へと向かった。
あれで……よかったのだろうか。創英はなんだか自信なくしちゃってるし、彼の言うことが本当なら美由だって相当ショックを受けてるだろう。今は美由にしても、私はしばらく放っておく方がいいだろう。だいたい今の美由に私が会うなんてことをしてしまうと、どう乱れてしまうだろうか……。
創英自身が好きなのは私なのだから、創英のことが好きな美由としては、私はある種の敵と見なされるだろう。そういう意味でも、今の彼女には私は必要ない。寧ろ、目の敵状態だ。ああ、創英もなんてことをしてくれたんだか……。これでは私は美由に会おうにも会えないし、話そうにも話せない。創英にアドバイスでもして、早期解決を手伝うしかない。それ以外に方法なんてないだろうな。
「っていうことなんだけど、どうすればいいと思う?」
「僕に訊かれても……。僕はそうはならないだろうから、何とも言えないな」
結局、信彦まで巻き込んでしまっているわけで。
「そんなこと言わないで。何かいい方法ない?」
「じゃあ僕に他の人が好きになって欲しいってこと?」
それは勘弁して欲しい。
「えっ、いや、そういうわけじゃないけど……」
「だから僕には、ずっと加恵しかいないのだから、そんなこと訊かれても分からないって」
「でも……ねぇ」
「それよりいつも他人の手を借りて解決してるようでは駄目だから、たまには二人だけで解決しないとこれから先、どうにもならないんじゃない?」
「それはそうだけど……」
「だからあの二人はしばらく放っておこうよ」
なんだか今日の信彦は妙に説得力がある。
「あの二人がそうありたいって願うなら、そうなりそうな気がするんだ」
「そう?」
「うん。なんだか強いパワーがあって磁石みたいに引き合っているような気がする」
「へぇ。じゃあ私たちは?」
「間に一枚くらい紙が挟まってるんじゃないかな……」
その紙を挟んでしまっているのは私か……。
「結局、近いけど遠いってことだよね」
「ごめん……」
「いや、別にいいよ。どうせ誰も邪魔なんてしないだろうし、万一そんなことがあったとしても何も変わらないでしょ?」
「私はそのつもりだけど」
「僕だって裏切ったりなんてしないよ。どれだけ先になろうと待つから」
待つって何を……?
付き合うこと?
私は認めてはいないけども、この状態でも十分付き合っているのだと思う。ただ、同居しているけども結婚してないみたいなそんな状況だろうか。
結局は、結婚なんて紙面上の契約でしかない。本当に必要なのはお互いの愛に他ならない。私は、そういう契約に妙な威圧感を感じてしまいそうなのでこの状態で止めている。この状態でも十分に愛なんてものは育まれているに違いない。ただ付き合うという契約をしていないだけで、実際の関係はそれ相当なのだろう。そう考えると、付き合うことと今この状態にあることは何が違うのだろう。
多分信彦が何度も付き合いたいと言うのは、一種の安心感を得たいからだと思う。この状態でも事実上は十分に付き合っているといえるので、“付き合うこと”とはそういう関係であることを約束しているだけに過ぎないと思う。だから信彦が想うことは現実に成り立っているのだけども、“付き合う”という関係を約束したわけではない。
だから信彦は、“付き合う”という関係を約束するような必要は今となってはないと思う。昔みたいにお互いの気持ちを曖昧にして、はっきりさせていないような関係なんかではない。ただ私と信彦は主観的に付き合っていないというだけで、客観的には──誰がどう見ても付き合っている。信彦が言っていた“付き合う”とは主観的な方だと思うが、もうそんなことはどうでもいいだろう。
「ね、結局信彦は安心したかっただけでしょ?」
話はちょっと戻って、とりあえず確証を得ようと試みる。
「えっ、何が?」
「告白だよ。私が中学のときに色んな人から告白されたから、自分の彼女として安心したかっただけでしょ?」
「……そういうことだろうね。多分」
「でももうそんな必要もないじゃない。ちゃんと誓ってるんだし」
「そうなのかな……」
「そうそう。もう別に告白なんてしなくたって、私は何処にも行かないから」
「それは付き合ってくれるってこと?」
「私がそうだと認めなくても、客観的に見れば十分そう言える関係なんだしそういうことは別にいいじゃない」
「なんだか素直に納得できないけど……。まあ、いいか」
とりあえず、信彦から“付き合って”なんていう告白は止まりそうだ。
次に来るのはプロポーズ?
……さすがにそれはまだ気が早すぎるかな。

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