その22 諦めの悪い奴 ─ 創英

フィアンセに捧げる愛の歌。
いくら僕がギターリストでも、そんなことはできない。僕の中に彼女に対する愛がないわけではない。ただ、それに勝るものが今あるからだ。怒涛に勝る深き愛は、一体何処へ消えてしまったのだろうか。
退院した次の日。
僕は自室のベッドの上で目覚めた。昨晩は、気がついてからこのベッドで初めて寝たはずなのに案外すんなりと寝られた。脳の記憶を司る部分では、このベッドの存在は忘れ去られているみたいだが、感覚として身体が覚えていたらしい。そして、途中目覚めることもなくいつもと同じ時間に起きた。
今は夏休みなのでしばらくは家にいることができるのだが、それも既に半分ほど経ったらしい。僕は夏休みの半分くらいを病院のベッドの上で寝ていたということになる。果たして、僕にとってその期間は無駄だったのだろうか、それとも意味があるものだったのだろうか。それはまだ、僕にも分からない。記憶のなくなる以前の彼なら、知っているかもしれない。そこから導き出される何かの答えを。
ともかく、今日美由さんは忙しく来ないらしい。まあここは病院ではないし、そうも毎日訪れるような場所でもないだろう。僕自身がそうまで毎日来てもらわなければならないような存在ではないのだ。退院してまで毎日彼女に来てもらうことを意識していては、僕は依存症になってしまう。
それが若干寂しいのも事実だが、ある意味落ちつけるのも事実だ。何を言おうと今日は彼女に気を遣う必要がない。それに、彼女の財布からお金を飛ばさせることもない。彼女が僕の元を訪れるのは彼女の勝手だが、それでも毎日来られては気が悪い。彼女の健康を心配しなくてはならないし、財布の中身も心配しなくてはならない。何もそれは強要されたことではないが、そういう心理が働くのは今や僕の中では必然ともいうべき状態だった。僕ばかりが来てもらってばかりでは、何かと成り立たない。僕自身も彼女に応えてこそ、意味があるのだから。だからこそ、僕は一刻も早く記憶とやらを取り戻したい。ただそれが僕にとっていいものであるかどうかは分からないけども。
それにしても、今日は暇な一日のようだ。特に用があるとも聞いていないし、誰かが来るというわけでもない。何かイベントがあるというわけでもないし、いいテレビ番組があるというわけでもない。勉強をするにしても、ある程度は義直君に聞かないと分からないのだが、彼も今日は忙しいらしい。だから今日はすることがなく暇だ。
仕方なく、ベッドの上に寝転がり漫画を読んでみることにする。カラーボックスの中に綺麗に収められたそれは、色とりどりの表紙に、題名の書かれた背がある。それの一巻と見られるものを手に取り、ページをめくってみる。どうやらこれは、ファンタジーものらしい。
とある国で、主人公が数々の敵を討伐する話。読むにつれ、僕はそのストーリーに魅了され、一巻、二巻と読み進めていく。主人公の元には一緒に旅を続けるヒロインがいて、二人で協力して魔物を倒していく。ときにはそのヒロインが捕われの身になって、主人公は彼女の英雄になる。それ故に元々仲睦まじい彼らの間柄は、さらに親密になっていく。
お互いに助け合いながら、旅を続ける彼らは僕の目にはとても美しく映った。そして、羨ましくも映った。彼らの愛はどんな年齢層の誰が見ても理解できるような単純な愛だけども、単純な愛だからこそ、それは純粋なものだった。
それに比べて僕はどうだろうか。自分の気持ちで他人を振りまわしてはいないだろうか。たしかに問題を早々に解決することも、単純化することも、疑いを晴らすことも大切かもしれない。でも、それよりももっと大切な何かが僕には必要なのではないだろうか。本当に美由さんに対して、愛を持ちたいと願うならば、彼女にあんなことを言ったのは間違いだったのではないだろうか。確かに躊躇はしたけれども、それは僕の心の中の心理であって、彼女にそんなことは伝わらない。それでは何も意味がない。
たとえ伝わったとしても、それでも僕は間違った選択をしたのではないだろうか。それは何がどうであっても言うべきことではなかったのではないだろうか。世の中には言って良いことと悪いことがある。これは、悪いことではないのだろうか。
僕が未だ自分の中にいる加恵さんに振りまわさせているのは事実だ。何も加恵さん自身に非があるわけではなく、僕が勝手にそうしているだけだ。でもそれは僕の自由が利かない感情で、僕であって僕でない。僕はそれを振りほどきたい。何も加恵さんを嫌いになりたいわけでない。加恵さんを好きではなくなりたいといった感じだろうか。
そして、美由さんを好きになりたい。彼女の気持ちに応えるためにも、過去の自分である彼に応えるためにも。それは意図してコントロールできる感情でないことくらいは分かっている。それでも、そうありたいと想いたい。
その日の午後、昼食を食べ終わった僕は再び自室へと戻ってきた。
昼食はオムライス。これも、何処かで食べたことのあるような味がした。美由さんが言うように、僕は完全に記憶を失ったわけではないらしい。断片ではあるが、幾つか覚えていることもあるようだ。それを自ら引き出そうと思っても、そうはいかないらしい。引き出しそのものは自分のものなのに、他人・他物の幇助がなくては開けられない。そんなバカな話がと僕は思う。でも事実、何も引き出すことができない。
よくよく考えてみれば、いままで思い当たったことがあるのは光景・風景や味であって、人から聞いたり人を見たりして思い当たることなんてひとつもなかった。たぶん、美由さんとのことも彼女から聞くよりも僕自身が視覚・味覚などからの情報を得るほうが思い出せるかもしれない。彼女のいう想い出の場所とか、そういうところを廻ってこそ元に戻れるんじゃないだろうかと。
ちなみに、漫画はいいところで終わっていた。僕は色んな意味で、その続きが知りたいという衝動に駆られていた。まるで、これからの僕らの行く末のように。

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