その20 変化と気遣い ─ 美由

それは予期せぬ事態であったわけではない。そうなる可能性もあるだろうという、予期していた事態である。可能性としては、一切の記憶が消し去られたために、否定できないことである。起こり得る可能性は十分にあって、それなりの覚悟はできていたつもりだった。でも、本当にその事実を突きつけられてしまうと、私は為す術もなかった。
創英君の退院日である今日、その午前中に早速退院した創英君の家を訪れた。
私自身もその場へ行きたかったのだが、今日は創英君から直々に来てくれるよう連絡があった。私はそれを了承し、彼が話したい事があるなんて言っていたので心を躍らせて彼の家へ向かった。でも私が彼から聞いたことは、私が恐れていた事態だった。前々から何か違和感があったのだが、それが的中することとはわけが違う。予測することと、的中することは心に受ける精神的ダメージが大きく異なる。
記憶がなくなったということは、以前の彼ではなくなったということだ。以前の彼ではなくなったということは、前まで好きだった人がそうでなくなるということだ。前まで好きだった人がそうでなくなるということは、他に好きな人ができてもおかしくないということだ。
それは付き合っている最中に彼が記憶喪失になってしまって、そういう感情諸共初期化された状態になったということである。そうなると付き合っているのに他の人を好きになるなんて事態が起こりかねない。それに彼は私自身のことが好きではなくなっているので、他に好きな人ができたなんてことをさらりと言ってのけてしまう。でも私は彼が記憶喪失になろうと以前のままなので、彼のことが好きなことには何も変わりない。それは自信を持って言えることだ。
でも彼は突然そうでなくなった。
私が彼を好きになったときには加恵のおかげで付き合うことができたのだけども、創英君とは両想いだったらしい。でも彼はクールなので、その口からそんなことが述べられることはなかったけども。私は彼と自然に喋れるようになったことがとても嬉しかった。ましてや彼と両想いだったということが分かったときはなお嬉しかった。さらに付き合うようになったときはその毎日がとても楽しかった。彼からデートに誘ってくれたときはいつもわくわくしていた。なんせ彼は、滅多に自分から誘ってくれることなんてなかったのだから。
なのに、今の彼は私のことが好きでないと言う。私以外の別の誰かのことが好きだと言う。それでは、世の中はあまりにも非情ではないか。
記憶喪失になる前の彼は、遠まわしながらも私のことが好きだとそう言ってくれた。その彼が事故によって別の人格に変わっている間に、その別人格は私以外の人を好きになってしまった。
何も今の彼の人格を否定するわけではない。寧ろ、今の彼のままでも私は構わない。できれば戻って欲しいとは思うけども。でも以前の彼の知らない間に、好きな人が変わってしまうなどということは私には耐えられない。それに彼もそんなことは望んではいないだろう。
しかしその責任はどこに押し付けることもできない。今の彼自身は昔の彼とは別人といっても過言ではないと思う。だから彼自身に責任を押し付けることなんてできない。かといって、事故を起こした張本人に責任を問うわけにはいかない。ならば私はこの耐え難い感情をどこに対して向ければいいのだろうか。怒りとも憤りともいい難いこの感情をどうすればいいのだろうか。ただやり場のない感情を持て余して、日々募るばかりとなるのだろうか。
今の私の中に“悲しい”という感情がないわけではない。私を差し置いて他の人を好きになってしまったことは悲しいことだ。私は彼の彼女として居場所がなくなってしまったということなのだから。あれから毎日彼の元へ通って、いままでのことを教えて、彼の知り合いに連絡して、会ってもらって……。何かと、以前の記憶が戻るように努力したつもりでいたのに、それも意味を持たなかったのだろうか……。
その日の午後、私の家に一本の電話が入った。
「もしもし……」
「もしもし、俺だけど」
「えっ、義直君!? なんで突然電話なんか?」
……気が進まないが、突然電話をかけてきた義直君について説明しておこうと思う。彼は私の中学時代の同級生で、私が初めて好きになった人だ。もし私の高校に対するイメージが違っていたら、今も彼と付き合っていると思う。
中学二年生の夏休み前、私は彼に告白された。そのとき私も彼のことが好きだったのだけども、彼のことが好きだったので付き合うことを了承した、という風には振舞わなかった。ただ自分の気持ちが悟られることを恐れて、彼には軽く振舞っていた。元々彼には自分から告白するつもりでもなかったし、ただ一途に、まるでミーハーなファンみたいに好きでいようと思っていたからだ。今思えば、もっと素直になっておけばよかったと思う。
それからというもの、私は彼と付き合うようになった。中学二年生ながら、付き合っているなりに色んなところにデートへ行ったりしていた。それが中学三年生になって高校のことが色々と分かってくるようになると、私の中に高校は忙しいものだという勝手なイメージが構成された。中学で習ったことの発展で、さらに詳しく習って、評価も十段階になって、退学もあって……。そんなこんなで、中学よりもはるかに忙しいと思わせる存在だった。その忙しい高校で、私は義直君とは別々の高校になることが決まり、今まで通りに付き合っていくことができるかどうか不安だった。
だから私は卒業式の一日前の日曜日、彼と別れようと思い、彼を自宅に呼んだ。疎かになってしまうよりは、そうしたほうがよいと私は思っていた。
そして私は彼と別れた。
それから、高校へ行った私はそのことによって相当ショックを受けていた。私も彼のことが好きだったことには変わりない。ただ、疎かになるよりは……と考えた上の判断だった。でも高校は思ったよりも忙しくはなくて余裕がある場所だった。だからそのまま彼と付き合っていても何も支障はなかった。でも彼とは別れるときに連絡を断つことにしていたから、今更付き合い直そうなどということはできなかった。
それから、高校二年生になってようやく立ち直った私は創英君と付き合うことになった。大学生になって彼の友達の話を聞いているときに、義直君の名前が出てきた。そのときはまさかと思っていた。それから創英君が事故に遭ってしまい、彼の大学の友人に連絡をしなければならなくなった。しかし創英君からは友達の名前くらいしか聞いていなかったので、連絡のしようがなかった。そのとき彼から義直君の名前を聞いたことを思いだし、連絡を断つことにしていた義直君に電話をしてみることにした。すると世の中は狭いもので、創英君の言う義直君は私が中学のときに付き合っていた義直君だった。
……と、言うわけである。
「えっ、なんでと言われても……」
「……用がないなら切るよ?」
「いや、ちょっと待ってって」
……どうしたものだろうか。たしかに連絡を断つという約束を破ったのは私の方だけど。
「……何?」
「何もそんなに素っ気無く振舞うことはないだろ……。それより、もう少し沈んでるのかと思って電話したんだけど元気みたいだし、よかった……」
「何の話?」
って、今の私の態度は素っ気無かったのだろうか。
「いや、実は昨日創英のところへ行ったんだけど、そのときに創英が美由さんに明日あのことを言うって言うから……」
「私以外の別の人が好きだって言う、あれ?」
「う、うん……」
「じゃあ信義君は心配してくれてたってこと?」
「そういうこと……かな」
さすが、私が好きになっただけのことはあると思う。
「そう。それはありがとう」
「いや、礼には及ばないから。俺が心配だっただけだし」
「えっ……、私のことを心配だったって……義直君、もしかして……」
もしかして、私のことがまだ……。
「いや……もういいよ。俺が一人で思ってることだし、そのことに美由さんまで巻き込みたくはないから」
じゃあ高校一年生のときに電話をかけてやり直そうって言ってたとしたら、また今までと同じように付き合えていたかもしれないってこと?
「えっ、でも……」
「今は創英がいるだろ? あいつも彼女のこと自慢気に話してたんだから。ただ、美由さんだとは思わなかったけど」
「うん……」
「だから幾ら記憶喪失になっても美由さんがいなきゃ駄目なんだって。まあちょっと性格は変わっちまったけど……」
「うん……。ごめんね。本当はあのとき別れる必要なんてなかったんだって高校行ってから分かったんだけど、連絡断つって言ってたから電話なんてかける勇気なくて……」
私は義直君の妙な優しさと高校一年生の時の想いで、涙しかけていたのを必死に堪えていた。余計なことだって分かっていたけど、それでも口に出さずにはいられなかった。
「いや、だからその話はもういいって」
「う、うん……」
「それより元気そうでよかった。創英もなんてこと言うんだろうって思ってたけど」
「うん……」
「じゃあ俺はそろそろ切るから。じゃ、また同窓会ででも会おう」
「そうだね……。じゃあ。ありがとう」
ツーツー……
どうやら私は思い違いをしていたらしい。今更気付いても遅いのだけど。
それよりも、義直君もこうしてせっかく電話してくれたのだから、それに応えて、こんな感情を抱くよりも、もっとポジティブに考えよう。
私はそんな風に義直君に勇気付けられた……と思う。

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