その19 カミングアウト ─ 創英

あれから、僕は二人の人に自分の胸のうちを明かした。それでも、なんだかすっきりしない。当の本人にああして言ったはずなのに、他に何か大切なことがあるような気がしてならない。好きな相手にそうだと告げることよりも大切な何かが……。
九日。
今日は退院の日である。朝から母が来て、いろいろなものを片付けている。僕はそれを手伝いながら、昨日一昨日のことを思い出していた。
一昨日は加恵さんに、昨日は義直君に自分の胸のうちを告げた。加恵さんの場合は、加恵さん自身が訊いてきたのだけども。ああして加恵さんは感付いていたわけだから、美由さんもそうである可能性がないわけではない。それに、僕が気遣って残りの三日をゆっくりしていたらと言ったときも疑っているような感じだったので、いくら美由さんが感付いていなくても何かしら怪しいとは思われていると思う。
ここは、いっそのこと美由さんに明かしてしまおうかと思い、昨日は義直君にあんなことを言ったというわけである。でもそれでは、僕自身が彼女に考慮せずに、ただ言いたいことだけを言っているような感じになる。第一、ああして懸命な美由さんにそんなことを言うのも気が引ける。それでも、妙な疑いを晴らすため、胸の中にあるすっきりしない感覚を取り払うため、そして彼女を安心させるために僕はそうしたいと思う。
確かに言った直後やその後しばらくは、それなりにパニックになったり気分が沈んでしまうかもしれない。でも長い目で見れば、今のうちに話しておいた方が僕も僕なりに彼女も彼女なりに元の状態に戻すことができやすくなると思う。中途半端なやるせない感情を抱いたままよりも、すっきりして改めて付き合いをする方が解決の糸口は掴めると思う。彼女にしてみても、いつまでも怪しいというように見るよりも、今のうちにはっきりと事実を知ったほうが付き合いやすいのではないかと。
僕はそういう風に考えて、見たこともない自宅に戻ってから彼女に本当のことを話そうと心に誓った。
退院というのは呆気ないものだと思う。あの病室には随分長いこといたような気でいたのに、こうして自分の部屋と言われる場所についてみるとそうは思えなくなる。今、僕が自分自身のことを僕と呼ぶような人格がこの世にあるようになったのはあの病室なのに愛着も湧かない。元々病院とは、そう言うところなのだろうか。白塗りの味気ない壁よりも、黄色とも黄土色とも言えない畳の上の方が落ちつく。今の自分は以前に見たこともないはずの光景なのに、この部屋にはずっと昔からいたような感じになる。まあ実際にはそうなのだけども。今の自分が初めて見たはずの光景で、初めて入ったはずの部屋なのに変な愛着が湧き、妙に落ちつき、堕落した格好でいても大したことがないような空間となっていた。それはとても居心地がよくて、今までいた空間の中で一番ゆったりとできる。
僕は、病院から自宅に帰ってきて──そういう感覚はないが──、早速自室に入りそこに置かれているものをまじまじと見つめて回った。ライトブルー調のシーツに着飾られたベッド、窓の障子、ベッドの三分の一くらいの広さの机、カラーボックスに入れられた文庫と漫画……。見るもの全てが初めてなのに、何もかもずっと遠い昔にどこかで見たようなそんな感じがする。
ボックスに入った漫画を手に取り、ページをぱらぱらとめくって見る。でもそこに出てくるキャラクターや、展開、そして絵調も見覚えがなかった。何故か、部屋の光景だけが妙に親しみを持っていた。
そんな最中、家のチャイムが鳴る。僕が家に帰ってきて落ちついたのか、母はいつも病室へ来たときよりもゆったりとした口調で来客を迎えていた。
「こんにちは。創英なら二階の自分の部屋にいるわよ」
「はい」
それから数秒の間があって、誰かが階段を上る音がした。
「自分の部屋はどう?」
「なんだか居てて落ちつくよ」
「それはいいことじゃない?」
「そうなのかな……。まあどこかで見たような気がするんだけど」
「なら尚更じゃない。この部屋だけでも覚えているってことなんだから」
「うん……」
本当は、この部屋だけを僕が覚えているのでは意味がないことくらいは分かっている。どうせなら、彼女のことも親のことも友達のことも覚えていて欲しいに決まっている。そう、その中に僕が忘れてしまってもいいような要素は何もない。
「よかったじゃない。何もかも忘れたわけじゃないんだから」
「う、うん……」
「ところで、話したいことって何かな?」
彼女はこともあろうか、僕が話そうとしていることに期待しているようだった。
「別にそんな、喜ぶようなことじゃないよ。ただ、僕も話しておかないとすっきりしないし、美由さんにしてもそのほうがいいと思うから」
「で?」
「多分美由さんもある程度察していると思うけど、今僕が好きな人は美由さんじゃないんだ」
「……」
「でもその人には僕が介入できるはずもないし、美由さんを差し置いてそんなことはできないことくらいは分かってる」
「……それって、加恵でしょ?」
彼女は悲しそうに言うが、僕は敢えてその発言を無視して話を進めていく。
「だから僕としても、このままではいけないことくらいは分かっているから、その人のことは忘れたいんだ」
「……そんなこと、易々とできるわけないじゃない。私だって相当悩んだんだから」
「だから、自分がそういう中途半端な感情でいるまま美由さんと付き合ってもしょうがないと思ったから、こうして告白してるんだよ」
「それって本気で言ってる? 単なる自己満足でしょ? 私はそんなこと言われても何も嬉しくなんかないよ……」
彼女は涙声でそう言う。
「ごめん……。でも、違和感のあるまま付き合っていくよりはこの方がいいと思ったんだ」
「……私は、そんなことなら別れた方がよっぽどましだよ。愛がないのに付き合っても意味がないもの」
「でも……」
「もう、いいよ」
彼女は僕の言葉を投げやりに遮った。
「それが創英君なりの厚意なら、仕方ないもんね……」
僕はそう言われて、返す言葉がなかった。これは、“愛”だったんだろうか。
「記憶のなくなる前となくなった後とでは、創英君は別人みたいなものだよね。混合していた私が悪かったんだよ。記憶がなくなる前の創英君のことを、今の君に強要してもどうしようもないもんね。昔とは違うんだから。でも、私が創英君を好きなことには変わりないから。私だって、もう別れたときみたいな辛い思いはしたくないもの。できればずっと、このままでいたいから……」
「うん……」
彼女が昔、付き合っていたことがあったというのは初耳だった。
「ね、記憶と共に好きっていう気持ちも少しずつでもいいから取り戻していって。少なくとも、それまでは一緒にいさせてよ。記憶が戻っても尚、私以外の人が好きだって言うならもういいから」
「でも……」
「いいの。私にこんなこと言った罰だから。きちんと守ってよ」
「う、うん……」
それがいつになるのか、分からないけれど。僕なりに頑張ってみようと思う。

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