その17 口止めと差し止め ─ 信彦

それでは、僕の立場はどうなるのだろう。僕は美由ちゃんのために、加恵に愛を注がなければならないのだろうか。何かそれも変な話だと思う。僕は、僕と加恵のためにそうするだけであって、その行為の上に美由ちゃんは関係ない。確かに美由ちゃんは友達としては好きだけれども、恋愛対象として眼中にあるのは一人しかいない。ただ、僕が加恵を愛することによって創英君が美由ちゃんを好きになる……ってことは何かおかしい。でも結果的にそうなってしまう。
ああ、どうしたものだろうか。
「あのさ、言い難いことなんだけど信彦に話しておかなければならないことがあって」
八月七日の日曜日。
この日の空は一日中薄暗かった。その昼下がりに、突然何の連絡もなしに加恵がやってきた。そして挨拶をしてから、僕の部屋につくまで一言も話さなかった。突然話し出した加恵の言う、言い難いことって一体なんだろうか。まさか突然引っ越すだとか、数日家を空けるだとか? まさかね。
「実は今日創英のところに行ってきたんだけどね」
「うん」
じゃあ予想とは何も関係ないのか。
「それが、どうやらこの間私が言っていたことは本当らしいんだよ」
「この間言っていたことって?」
「創英が私のことを好きなんじゃないかっていう話」
ああ、たしか僕が初めて病院に行ったときに創英君がおかしなことを訊いてきたときのことか。って、それが本当のことだとしたら……。
「じゃあ創英君が加恵に告白したってこと!?」
「違うよ、私が訊いたの。この間から創英の様子がおかしかったから」
「……それで?」
「それで、って?」
「……いや、その」
「創英はああして美由が来てくれるからその気持ちに応えたいんだって。だから実際は私のことが好きらしいんだけど、なんとか美由と元に戻ろうと努力してるって」
僕はそれを聞いて少し安心する。でも自分の心の中にまだ妬ましさがあることは確かだ。
「ま、創英はそう言ってるから、信彦はそんなに気にすることないよ」
「う、うん……」
そうは言ったが、気になるものは気になる。まさか加恵の気が突然変わるなんてことはあり得ないと思うけれども、それでも心配なことには変わりない。
「それで、お願いがあるんだけど。このこと、美由に内緒にしておいてもらえない? あと、明日と明後日に病院に行くのも控えてもらえたらなと」
「それくらいは別にいいけど」
まあ元々創英君と親しかったと言うわけではないから、一人で会いに行くような理由なんて何処にもない。でも美由ちゃんは別だ。彼女とは高校のときによく話していたので、ある程度仲がいい。ここで加恵と約束を交わして守るのは、加恵と美由ちゃんのためだと言うことになる。言っておくが、断じて創英君のためなどではない。
「ところで、創英が記憶取り戻すために何ができると思う?」
やはり加恵はとことんお節介だと思う。長年付き合ってきて、何故そうなったのかは知らないけれども、いつの間にかそうなっていたとしか言いようがない。
「何がと訊かれても。創英君の相手はあの美由ちゃんだし、何も加恵がそこまで尽くさなくても大丈夫だよ」
「そうかな? 私としては色々としたいと思うんだけど」
「僕を放っておいて?」
僕は何気なく、そう言った。
「それは……。信彦ならそんなに気を遣わなくても大丈夫かなと思って……」
「僕だってそんなにタフじゃないよ」
言ってから気付いたが、なんだかいつもの加恵とは受け応えが違うような気がする。
「ごめん……。結局はあんなこと言っておきながら、蔑ろになってたんだよね……」
僕は場が暗くなっていくのを、ただそこにいるだけで止めることもできなかった。
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「私があの二人に気を遣い過ぎているから、怒っているんでしょ? 本当は私だって信彦と付き合いたいよ。でも付き合っても、今みたいに信彦のことが疎かになってしまうんじゃないかって心配で……。信彦がそれでもいいっていうのだけでは駄目なんだよ。私は付き合うなら付き合うで、きちんと相手に対して責任を持ちたいって思っているから、それが蔑ろになるなんてことでは上手くいかないと思うんだ。だからせっかく付き合ったのに、辛い別れをしなければならないような気がして踏み切れなくて。それは私の我侭だって分かっているけど、私も辛いよ。なんだか自分の気持ちを押し殺しているような感じがして……」
僕はそれを聞いて、なんだかとても感傷的な気分になった。
「そう……。でも僕は、例え何かの都合で離れた場所に住むことになったとしても、数日間、若しくは数年と待たなければならなくなっても、ずっと加恵のことは好きだから。例えどんなに魅力的な人が僕の目の前に現れようと、どんな人が僕に告白してこようと、加恵に一途なことには変わりないから。だから……いつでもいいよ、付き合うことなんて。僕がまた、告白するようなことがあったら、それは僕自身が想う気持ちを伝えたいってことだから」
「……ありがと」
加恵はそう言ったかと思うと、僕に抱きついてきた。僕も反射的に加恵の背中に手を回す。
「……」
そう言えばキスさえしたことないななんて、僕はそんなことをぼんやりと考えていた。
「やっぱり、信彦には涙なんて見せられないよ。ねぇ、しばらくこうしててもいい?」
「う、うん……」
なんとも居た堪れない。こういうときは、ただ時間が過ぎていくのを待つしかないのだから。
窓の外で鳥の鳴く声がする。それが泣いているように聞こえるのは気のせいだろうか。夏真っ只中、暑中見舞いでも送られてきそうなときなのに、僕は暑いことも忘れて、ただこのままでいることに神経を集中させていた。
あれからどれくらい経ったのか分からない。部屋の中では、ただ時計が時を刻む音しかしなかった。そうして、時はゆっくりと過ぎていった。
「──ねえ、信彦。起きて」
目が覚めると部屋はすっかり暗くなっていた。僕はどうやらあのままでいることに疲れて寝ていたらしい。
「……」
ぼやけた視界に眠た目を擦ると、目の前には加恵がいた。
「ごめん、どうやら私も寝てたみたいで……」
あんな格好で二人とも寝ているなんて怪しいなと思う。まあ、この部屋には誰も入ってこないのだけれど。
「……そう」
まだ少し眠い。ベッドに倒れるとこのまま寝てしまいそうだ。
「あのさ、勝手に決めて悪いんだけど、今日泊まっていくから」
「えっ?」
今ので眠気は吹き飛んでしまった。
「……誤解しないでよ? 寝る部屋は別々だから。ただ、もう少し一緒にいたかっただけ」
「そう……」
「うちの親には了承とってあるし、信彦のお母さんはいいって言ってくれたから」
「そんな突飛なお願い、よくうちのお母さんがきいてくれたよな」
「まあその辺は気にしないの。それより、家のお父さんが今度うちに来いって言ってたから」
「何それ……」
「なんか色々話したいんじゃない? 付き合ってあげてよ」
ああ、途中までいいムードだったのになんだか変な展開になってきた……。

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