その8 再びの彼女 ─ 創英

許婚。
それは生まれながらにして生涯を共に過ごす人が予め決められていること。僕にしてみればあれからの現実はまさにその通りだった。
美由さんはいつもここにやってくる。多分明日も明後日も、そして明々後日もここへ来るだろう。彼女が言うには僕は彼女の彼氏らしい。だから彼女は、毎日ここへ来るのだそうだ。でも僕は今、彼女とは別に好きな人がいる。何故好きになったのか、そんなことは分からないが好きになってしまったものは仕方ない。
その人の名前は加恵さん。もちろん美由さんには内緒だ。
でも、記憶喪失になる前、僕と美由さんは付き合っていたらしいから、美由さんを切り捨てるわけにはいかない。何やら、高校生のときに二人がお互いに片思いであることを知って、加恵さんが引き合わせてくれたらしい。
この間加恵さんがここへ来たときは信彦君と一緒に来た。美由さんが言うには、彼は加恵さんの幼馴染みで、付き合うまでの関係には至っていないらしいが、よく二人で一緒にいるらしい。
結局、それがどういうことなのかははっきりとしないが、好きでもない人と四六時中一緒にいられるはずがないので、ある程度二人の仲は幼馴染みよりは深い関係になっているだろうから、幾ら僕が加恵さんのことを好きになって告白などしたとしてもあの二人はびくともしそうにない。
だから、僕の恋は成立しそうにもない。
でも今のところ、僕はそんな恋心を抱いて止まない。信彦君と加恵さんの関係を知った以上、僕は失恋をしたということになるので、それなりにその想いを断ち切る必要がある。
それに、美由さんは僕のことを想って毎日こうして来てくれるのだから僕としてもそれには答えなければならないと思っている。だからこそ、僕は加恵さんではなく美由さんを好きにならなければならないのだ。なんだかそれも、記憶喪失になって気付いたときを原点とするとまるで許婚のようで変な感じがするのだけども。
そういえば他に義直君が来た。彼は僕の大学の同級生らしい。何やら学校では仲良くしていたらしいが、記憶の中には微塵もない。
とりあえず、今は加恵さんと美由さんのことで頭がいっぱいなので、彼のことはもう少し後で考えることにしておいた。
そして今日も、彼女はやってくる。
「おはよう」
今日も朝早くから美由さんが病室へと来る。ここ最近は毎日来るので、一体いつ勉強などをしているのかと心配になるほどだ。たしかに僕も大学生であって勉強しなければならないことには変わりないのだけれども。
「おはよう」
「調子はどう?」
「まずまずってところかな」
まあこうも毎日来るので美由さんとは一応打ち解けた。
もちろん元の生活に戻るためには記憶を取り戻す必要もあるわけで、その取り戻す必要のある記憶の中では僕は彼女と付き合っていたらしいので、その分こうして打ち解けていた方が楽だろうというのもある。とりあえず敬語だとかそういう固いものは省いて彼女とは気楽に話せるようにはなったので、僕としても随分楽になったように思う。
でも残念ながらこうして毎日会いに来る彼女のことを、女性として好きだということではない。今のところは会いに来るたびに色んな話を聞かせてくれるので、友達としてなら好きだといったところだろうか。
ただ、その違いは大きいもので、記憶喪失以前のように彼女のことを心から好きだと想うのにはまだそれ相当の時間がかかりそうである。
「それはよかった」
「今日は天気もいいよね」
「うん。雲一つない晴れ晴れした日だよ」
以前は、僕は彼女のことを呼び捨てで呼んでいたらしい。それに一人称は“僕”ではなくて“俺”だったらしい。それに話し方はこんなに軽い感じではなかったらしい。
でも今の僕はこういう人柄で、記憶喪失以前の自分の人柄なんて思い出せないし、言われようと思い当たることもない。だからこうしてとても気楽で自然な感じで彼女と話している。
「こういう日は日向で寛ぐのが一番だよね」
「じゃあ屋上へ行かない? あそこなら芝生もあるし」
「うん」
「いい気持ち」
「うん」
あれから屋上へと上がった僕たちはそこに敷かれている芝生の上で寝転がって寛いでいる。
「そういえばお父さんが言ってたんだけど、創英君三日後にでも退院できるんだって」
「僕は何も聞いてないけど……」
「お父さんが伝えておいてってそう言ってた」
「そう……」
彼女は僕が意識を取り戻したらしいあの日から少し無理をしているのは薄々感じている。加恵さんや義直君は彼女に頼まれて病室へお見舞いにきたらしい。信彦君には美由さんが加恵さんに頼んで連絡をいれたらしい。それに彼女は朝早く──七時半だったり、九時だったり──から、昼食の間だけ抜けて、夜遅く──五時だったり、六時だったり──まで僕のところにいる。これをあの日から彼女はずっと続けている。
加恵さんから聞いた話だと、美由さんの家はここから三駅ほどのところにあるらしい。その区間を美由さんは毎日電車に乗ってやってくる。さらに最寄りの駅からこの病院までもある程度距離があって、バスで来る必要があるらしいが、本数はそんなに多くないらしく、夜となっては走っていないらしい。
彼女にしてみれば僕は彼氏であって、それなりに一緒にいたり、楽しく話したりしたいのだろうけども、無理にも程があると思う。そこで僕はそのことで彼女の財布に相当の負担をかけているだろうと思い、ある提案を試みることにした。
「ね、ここから美由さんの家までは三駅ほどあるんでしょ?」
「うん」
「それに駅からここまで来るのにもバスで来るほど遠いんでしょ?」
「そうだけど……。それがどうかしたの?」
「毎日その道を往復するわけでしょ? なら相当高くつかない?」
「それは覚悟でここへ来てるから」
「でも申し訳ないよ。僕のためにそんなに使わせてしまってるなんて。どうせあと三日だしそんなに毎日でなくてもいいよ?」
「そう……? でも私は創英君のところにいたいから」
「う〜ん……。それに毎日朝早くから夜遅くまでいるでしょ? 大丈夫?」
「うん。創英君のところにいれるならこれくらい大したことないって」
やっぱり少し無理しているのか……。
「でもバスの本数は少ないらしくてしかも最終が結構早いらしいし……。何もそんなに無理しなくてもいいよ?」
「いいんだって。私が好きでやってることだから」
「そう言われても……」
そう言うと彼女は一瞬だけ怪訝そうな顔をして、また明るくこう言う。
「それよりそろそろ戻ろう。暑くなってきたし」
「うん……」
「ね、退院したら二人で色んなところ行きたいんだけど、どう?」
「いいけど……。勉強の方は大丈夫?」
「うん。きちんとやってるから」
「なら別にいいよ」
「よかった。じゃあまた何処へ何時行くかは連絡するね」
「うん」
そんな話をしていると病室の扉が開く音がした。
「どうも。ってなんだ、美由も来てたんだ……」
そう言って加恵さんが病室に入ってきた。僕はそれに気づいて少し落ちつかない。
「なんだはないでしょ。ひどいなぁ、もう」
「ゴメンゴメン。また悪いね、二人の邪魔してさ」
「いいって。気にしないで」
「そう? じゃあまた来させてもらうね。それより創英、調子はどう?」
「えっ、ま、まあまあってところ……かな?」
「それはよかった」
それから昼まで三人で話していたものの、僕にしてみれば何とも言えない空気だった。

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