その7 連絡を受けて ─ 信彦

明らかにそうだと分かりきっているものを何故肯定しないのだろう。僕は中学のときからそれが不思議で堪らない。
何が不思議なのかというと、それは……。
八月三日午前九時二十七分。
あと少しで九時半になるというその一歩手前で僕はカップラーメンを待つ時間の分だけを地団駄を踏みたくなるほど早く経たないかと思っていた。ああ、時間というものは何故こんなにももどかしくゆっくりと進んでいくのだろうか。待てど待てど同じリズムしか刻まない時計になんとも……。
そんなことを考えていると、リビングの電話が鳴った。
「もしもし、久木ですが」
「あっ、信彦? 今時間ある?」
電話の相手は加恵。僕の……、なんと言えばいいのだろうか。
「今? 見たい番組があるんだけど、ビデオ壊れてて……。録っておいてもらえない?」
「いいよ」
こんなことが突然頼めるのは相手が加恵だからだ。普通の友達にこんなことは頼めるはずがない。ならば加恵は普通の友達ではないのかというと実際そうであるのだけども、それがどうもはっきりとしない関係だ。
「で、今からうちに来てもらえない?」
「加恵んちに? 別にいいよ」
「ならできるだけ早く来てね。それじゃ、また」
「うん」
まあ、加恵の家は近いから遅く行くほうが難しいんだけど。

「実はこの間美由から電話があって」
「へぇ。それで?」
「それがね、創英が事故に遭ったらしくて……」
「えっ、創英君が事故?」
「うん。今は意識があるんだけど、打ち所が悪くて記憶喪失になったらしくて……」
「記憶喪失……か」
「この間……というか昨日も会って来たんだけど、元気そうにしてたよ。でもまあ、覚えてはくれてなかったけどさ」
まあ、それは記憶喪失っていうんだから当然だけど。
「そう。それで美由ちゃんはどうしてる?」
「最初、電話がかかってきたときは相当ショック受けてたみたいだけど、次の日行ったときは元気そうにしてて。創英とも仲良く話してたし」
「へぇ。ならよかったんじゃない?」
「いや……よかったのかな……。なんか創英の性格変わってるし……」
「性格が変わってるって?」
「まあ、会ってみればわかるよ。そのために呼んだんだし」
じゃあ結局、僕は創英君の見舞いに行くために呼ばれたってこと? 僕はそんなに仲がよかったというわけでもなかったんだけど……。
橋田病院の203号室。
加恵はその前に立ち、ドアを開ける。病室は個室で、花が花瓶に飾られてある。創英君は先に来ていたらしい美由ちゃんと何やら話をしていた。
「美由も来てたのか……」
「えっ、来てて当然でしょ? 創英君の彼女なんだし」
「まあ、それはそうなんだけど」
うーん、何か引っかかるな、今の一言。いくら記憶喪失になっているからといって、美由ちゃんは創英君の彼女であることは変わりないのだからこうして来ていて当然なのに。何か都合の悪いことでもあるのだろうか。
「またまた邪魔して悪いね。二人とも」
「いや、大歓迎だよ」
「そう? じゃあ明日も来ようかな」
「えっ、明日も来てくれるの?」
「いやいや冗談だって。明日は信彦と約束あるから」
「約束? そんなものあった?」
「何言ってるの。明日もサイクリング行くんでしょ」
はて、そんな約束あっただろうか。
「なんだ、そうか……」
創英君が残念そうに言う。もしかして創英君は、加恵が来ることを期待してたのだろうか? まさか、加恵に期待する理由なんて何があるんだろう。
「それより、創英君。彼が信彦君だよ」
「どうも……」
なんだかこの場の空気が凄く重苦しいような感じがする。高校時代の創英君は加恵みたいにテンションが高くて、傍迷惑なくらいだったのに。まあ、美由ちゃんと喧嘩してたときだけはそうではなかったけど。
それに比べて今の創英君は一体なんなんだ。口数も少ないし、一体どうしたものだろうか。加恵が言ったとおり性格がまるで違うし。
「私ちょっと花瓶の水を替えてくるから」
美由ちゃんがそう言って部屋を出ていく。
「私もついていくよ」
加恵もそう言って部屋を出ていき、病室に僕と創英君だけが残される。
「……」
一時の沈黙が場に間を与える。
「あの……率直に訊くけど、君と加恵さんって付き合ってる?」
「えっ、付き合ってるわけではないけど……」
「じゃあ加恵さんのこと好き?」
「えっ……」
何……。
創英君に訊かれているのにまるでそんな感じがしないのは何故だろう。なんだろう、この妙な違和感は。なんだかここにこうして創英君と二人っきりで居るのが凄く居心地が悪い。今すぐにでもこの空間から抜け出したい。そんな感じだった。
ドアが開いて美由ちゃんと加恵が戻ってくる。それでこの居た堪れない空気から開放されたような感じがする。
それからまるで何もなかったかのように時間は流れていった。
十二時過ぎでそろそろお腹が減ったなと思われる頃。病院からの帰り道で加恵が妙なことを訊いてきた。
「ねぇ、創英に何か訊かれなかった?」
「えっ、加恵と付き合ってないかって言われたんだけど」
「やっぱり……」
「やっぱりって?」
「いや、なんかね昨日も私、創英に信彦と付き合ってるのかって訊かれてさ」
「えっ……」
「どうやら創英、記憶喪失になって好きな人まで変わっちゃったみたい」
変わっちゃったみたいって、加恵も暢気だよ……。ということは、創英君は加恵のことが好きだってことでしょ?
全く冗談じゃない。
何度も告白して未だ返事の返ってこない僕の立場はまるでないじゃないか。大体それじゃ美由ちゃんはどうなるんだよ。記憶喪失になってしまって、おまけに好きな人まで変わってしまったらもうどうしようもないじゃないか。
「まあそんなに心配しなくていいって。大丈夫、私の気持ちは創英が何と言おうと変わらないからさ」
「うん……」
今のは間接的に好きだと言ってるのだろうか? まあ、加恵の気持ちは告白の返事すら返ってこないものの長い付き合いで分かってはいるから、何を今更って話だけれども。
それでも告白の返事が返ってこないっていうのはジグソーパズルの最後の一つがないような変な感じがしてならない。
たしかに加恵とは物心のつく前からずっと付き合いがある。それに家が近いから小学校のときも中学校のときも、はてまた高校のときも一緒に帰るような仲だったんだけれども、なんだか不安で仕方ない。
「あのさ、昼食食べ終わったらもう一度うちに来てくれない?」
「いいけど……」
まあ、家近いし……。
それから一時間ほど経った頃、加恵の家にて。
「ごめんね、私がなかなか告白の返事を返さないから不安なんでしょ?」
「まあ、それもあるけど……」
「私はね、自分から告白しようってそう決めてるんだ」
また変なこだわりもっちゃって。それで苦労するのは僕なんだから。
「それに、彼氏、彼女みたいになると今までとは同じ関係ではいられないような気がしてさ……」
なら、不安がっていたのは僕だけじゃなかったのか……。
「大丈夫だって。その相手はこの僕なんだし、何も不安になることはないんだから」
「それは分かってるよ。でも付き合うってことは今までみたいに単なる幼馴染みとはちょっと違うでしょ?」
「うん……」
「幼稚園に通う以前から信彦とはずっと幼馴染みとして過ごしてきたからさ。それが付き合うっていう関係に変わるのが恐くてさ」
「それは僕だって一緒だよ」
「ならわかるでしょ? この気持ちがさ」
「もちろんわかるよ。でも僕としてはその一線を越えたいと思うんだ」
「そうもわざわざ越える必要もないじゃない。信彦は私のこと好きでしょ? 私だって信彦のことは好きなんだからさ。それならそれでいいでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
「ね、創英が私に何をどう言おうと私が信彦のことを好きなのには変わりないから。それは安心していいんだよ?」
「そう言われても……」
「なんだかね、付き合うっていう関係になると相手に対して余計な気遣いしなきゃいけないじゃない? 私はそうじゃなくて時間が空いたときに好きなように話したり会ったりしたいと思うんだ」
「付き合うっていう関係に束縛されたくないって?」
「そんな感じかな。もう少し自由でいたいと思うんだよ」
「別に僕はそんなに気を遣ってもらわなくてもいいんだけどな」
「いくら信彦がそうだとしても、私が気を遣ってしまうから仕方ないの。ね、もうしばらく幼馴染みでいさせてよ」
「加恵がそう言うんだったら仕方ないな……」
「ありがと。それより明日サイクリング行かない?」
「えっ、あれって言い逃れじゃなかったの?」
「有言実行ってやつだよ。ね?」
「まぁ、いいけど……」
これじゃ、気を遣うのは僕の方だよ……。

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