その3 忘れられた私 ─ 美由

あれからもう、涙なんて涸れるほど出たはずなのに、まだ宇宙を埋め尽くすくらいの水があるかのように出てくる。ただ事実は受けきれていないのに、何故だかひたすら涙ばかり出てくる。
確信が得られないはずなのに、まるで涙だけはその事実が分かっているとでも言いたげに。
記憶喪失。
それは、以前の記憶を全て失ったということ。それは、今までの私が彼の中にいないということ。そんなことは分かっている。分かっていても、私はそれが事実であるということを認められなかった。まだ事実として受け止めることができなかった。
いつでも、あの頃と同じように元気な君が私の前に現れて、休日にデートでも行かないかと誘ってくれる。私の中ではそうとしか思えなかった。病院であったことは全て悪い夢か何かで、この世の中で実際に起こった事実ではないのだとしか思えなかった。
でも実際に病院で、彼に尋ねられた。
僕は誰なのかと。
私が誰なのかと。
その声はまだ私の耳に残っている。
そのときの彼の口調は、無知な子どもが色々なことに興味を示して訊いてくるような、まだ知らないことを知りたいと必死にせがむようなものとはまた違う。興味を持ったとか、そういうものでもなくて、あって当然のものがないような、そんな感じだった。
もう彼の中には、お互いに片想いだということを知って結んでくれた彼女や、そんな彼女のことが一途に好きな彼もいない。
数日前、彼と二人で自転車をとばして近くの海岸までサイクリングに行った。そのときに偶然、あの二人に会った。あの二人には深く感謝していると彼も言っていたけれど、今の彼にはその二人の記憶すらない。私たち二人にとって、彼らは恩人とも云うべき存在で、彼らがいなければ数日前の私たちもいなかった。
でも、彼の中にその二人はいない。
私は彼らに、何と言えば良いのだろう。今のこの状態の私にしても、今のあの状態の彼にしても、彼らに合わせる顔はない。まるで好意を無駄に踏みにじったようになってしまったこんな状態で、彼らになんと言えば良いのだろうか。とてもじゃないけど、彼らに顔向けできない。
今の私なんかでは……。
あの高校時代に、ひたすら片想いだと分かっていながら想いを寄せていた時の気持ちとは違う。
あるのにない。そんな喪失感。
あったはずのものが突然消えてしまった。
あって当然のものが突然消えてしまった。
それも音もなく崩れて。
その崩れたものを元に直すことは、できないことはないだろう。でも、相当な時間を要するはずだ。その間に彼の気持ちもどう動くかは分からない。もしかすると他の人を好きになったりするかもしれない。
彼はあの時、ずっと好きだと言ってくれた。でも、あの時の彼が知らない間に、今の彼が別の人を好きになってしまうなんて……そんなこと……。
ただでさえ自分から動いて告白しようとも思わなかった私が、人の手を借りてあんな関係になった私が、そんなこと、耐えられるはずもない。自分から動いて取り戻せるという自信もない。ただひたすら、嘆くばかりだろう。想いは通じていたのに、突然、得体も知れないものに、奪われるなんて……。
今もそう。あの時の彼は彼の中にいない。そう、記憶喪失によって奪われてしまった。もう、簡単には手も届かないところへ引き離されてしまった。
泣き疲れて寝てしまったのだろう。気がつくと時計は七時を回っていた。部屋の外から母の声がしていて、それはドアに阻まれてはっきりと聞こえないけど、時間からすると夕食だろう。もうそんな時間になっていたのか……。
おぼつかない足取りで、部屋を出て階段を降りる。
父は今日当直で帰って来ない。だからうちにいるのは私と母だけだった。母も父同様、私と彼の関係は知らないだろう。ただ、仲の良い友達だという見解だろうと私は思う。
ここのところ彼がああして入院していて私もちょくちょく足を運んでいるのだから、少しは察しているかもしれないけれど。
リビングに入った私は椅子を引き、腰掛けると机の上に広がっていたのが実はカレーだったということにやっと気付く。もう彼のことでいっぱいで、今夜の夕食が何なのかなんてことは気にかけてもいなかった。それに視界は涙でぼやけていてはっきりとしない。
普段は二階にいても、部屋を開けたときに階段を通じて漂ってくる匂いで分かるのに、今日はリビングに入っても気付かなかったなんて。こんな感じになったのは、あの時以来一度もなかったのに。
そういえばあの時も一人では解決しきれなくて相談したような気がする。これも、抱え込まずに誰かに相談してみるのもいいかも知れない……。

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