その2 気付けばそこは ─ 創英

──そうえいくん、そうえいくん──
誰かが呼ぶ、声がする。
──そうえいくん──
早く、その声に応えて。
誰かが君を、呼んでいるじゃないか。
──そうえいくん、そうえいくん──
さあ、早く。その声に、応えて。

ぼんやりとした視界。ここは……、どこだろう。
「──そうえいくん」
耳に、そんな言葉が入ってくる。
誰の名前?
それよりも、僕は一体、誰なのだろうか……。朦朧とした意識の中、僕はそんなことを考えていた。
「そうえいくん……?」
まだ名前が聞こえてくる。度の強い眼鏡をかけたような、そんな感じの視界がだんだんと鮮明になってくる。白い天井、白い壁……。
「そうえいくん、よかった。意識が戻ったんだね」
さっきから、誰だろう。そうも誰かの名前を呼ぶのは。
「三日三晩眠りっぱなしだったから心配したんだよ〜」
三日三晩なんて随分長いなと思いながら、声のする方をいうことをあまり利かない首を動かして見てみる。するとそこには可愛いというよりも美しいと言ったほうがいいような一人の女性が椅子に座り、歓喜に溢れていた。
「……君、は?」
僕のその一言で、彼女の表情は一変し、頭上に沢山のクラスチョンマークが浮かぶような感じになってしまう。
「えっ……」
「それ、より……僕は……誰?」
「何言ってるの、そうえい君。それより気分はどう?」
そうえい……?
「それが、僕の名前?」
「えっ、さっきから一体何を言ってるの?」
そうか、呼ばれていたのは僕だったのか……。
「……それで、君は誰?」
「えっ……美由だよ、美由」
「全く覚えてない……」
「嘘ばっかり。私を騙そうったって、そうはいかないから」
「いや……、ごめん。ほんとうに……覚えてなくて」
「全く? これっぽっちも?」
「うん……。何も、思い出せないんだ……」
彼女はそれを聞いて沈痛な表情をした。それは、言いようのない寂しさと、例えようのない違和感から作られたような表情だった。
「そう……」
「うん……。ごめん……」
「……とりあえず、看護師さん呼んでくるから」
そう言って彼女はまるで戸惑っているかのように部屋を出ていった。それから、廊下で何かがぶつかって、落ちたような金属音が響いた。
「ごめんなさいっ」
彼女の声が病室の外の廊下で響く。看護師……、そうかここは病院なのか……。そして、僕の名前はそうえい……。
どうして病院なんかに?
その理由を探ろうとひたすら考えてみるものの、何も思い浮かばない。まるで記憶喪失にでもなったかのように。過去のことは……何も。

それからしばらくして、美由と名乗った彼女が女性の看護師と、男性の医師を連れて戻ってきた。彼女は、戸惑っているような、寂しいような、悲しいような、何ともいえない顔をしていた。
「そうえい君、俺が誰だか分かるか?」
医師が僕に尋ねる。そんなことを言われても……何も思い出せない。
「いえ……。すいません」
「そうか……。まあ、少しずつ思い出せばいい。俺は健義。彼女の父親で、君の担当医だ。よろしくな」
「はい」
 それから、健義さんは幾つかの簡単な質問を僕にした。
「では、他のところも回らなければならないので失礼するよ。ああ、それと君の両親にも連絡しておくよ」
そう言うと健義さんと看護師さんは軽く会釈をして部屋を立ち去った。美由さんはそれを見届けた後、また椅子に座る。
「本当に何も覚えてない?」
「うん……」
「そう……。私は、杉並 美由。そうえい君の彼女だったんだけど……」
この人が、僕の彼女……?
「覚えて、ないでしょ?」
分かりきっている事実を、幾度となく確認するかのように彼女は尋ねる。
「うん……。ごめん」
「いや……私が悪かったんだよ。覚えてないって分かってるのに訊いたりして……」
「えっ、美由さんは悪くないよ。覚えてない僕がいけないのだから……」
「いや、悪くなんてないよ。仕方ないもんね。思い出せないのは。それより美由さんだなんて。呼び捨てでいいから」
呼び捨てでいいと言われても、以前はそう呼んでいたかもしれないけれど、その時の記憶はないし……。
「そう言われても……」
「そう……」
それからしばらく沈黙が続いた。彼女はずっと俯いたままで、何かを考えているようだった。僕はこんな状況なのに、自分が一体今まで何をしてきたのかさえ訊くことができなかった。
「私そろそろ帰るね。また明日来るから。そのときに何でも訊いて」
「う、うん」
そして彼女は部屋を出ていった。その目には、薄っすらと涙がにじんでいるように見えた。ふと外を見ると、そこには三日月が輝いていた。

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